第12話 迷い谷 其の三
近くの川で異臭のする身体を洗い、どこかの家の物干しから失敬した服を身につけると、俺は迷い谷に向かった。
さっきの王女とダイダロスの会話で、どうにもわからないことがあった。王女はテセウスの手引きでアテネに入るつもりらしい。テセウスは承知しているのだろうか。今朝の様子だと、とてもそうは思えない。それに、ミノタウロスはどうなる? ミノタウロスのいのちとクレタ島の繁栄とは、なんの関係もない。それはわかった。だが、ミノタウロスは九年に一度、七人の若者と七人の乙女を食べねば生きてゆけない。テセウスが抜けると、一人欠けてしまう。アリアドネは弟を飢えさせるつもりか? それとも、どこかから欠員を補充するつもりなのか。もしかして、その補欠は、神よお助けを、この俺じゃないだろうか。
王には油断するなよ、とノッポは言った。あるじが王女に替わったところで変わりはない。王女には油断するな、と俺は自分に言い聞かせた。何をたくらんでいるのか、探り出すんだ。
屯所の番兵の人数は倍になっていた。将軍の命令は直ちに実行されたらしい。俺の顔を見ると、当番兵は何も言わずに結界のスイッチを切った。俺は感謝の言葉をつぶやくと、谷に入った。
今にも沈みそうな太陽が最後の光を谷に投げかけていた。若い男女が夕暮れの涼しい風を楽しもうと、松の間を縫う小道や、桃色の花を咲かせているローズマリーや白い産毛の生えた葉を広げているセイジの茂みの間をそぞろ歩いていた。
俺は貢物たちに見られないように身を屈めて、木々の間を抜けると、蔵に近づいた。幸い、周辺には誰もいない。俺は屋根によじ登ると、窓から中を覗いた。
テセウスはそこにいた。顔色は青白かったが、今朝のように寝床に横たわってはいなかった。ベッドに腰を下ろして膝の上に手を置いている。その膝にすがりつくようにして女が寄り添っている。長い黒い髪に珊瑚の飾り櫛を挿している。今朝の女だろう。テセウスは女の黒髪をゆっくりとした仕草で撫でている。だが、彼の心が女に向いてないのは明らかだった。愛撫は機械的で、膝に抱いた飼い猫の背を撫でるのと変わらない。
テセウスの関心は目の前の訪問者に向いていた。丈高い壮年の男で、黒い顎鬚を蓄え、鉤のような太い鼻に分厚い唇をしている。異民族の血が混じっているのではないかと思わせるようなその男は、しかし、贅沢な衣服に飾り帯を巻いている。俺は一度、何年も前だが、ミノス王に拝謁に来た彼を王宮で見たのを思い出した。アテネでも有数の資産家で、アイゲウス王の腹心と言われるオノリウスだ。
「無茶をなさりましたな」
オノリウスは渋い顔で言った。
「王子ともあろう方が」
「やむを得なかった。いいのか?」
テセウスは顎の先でくいと扉の方を指した。
俺の位置からは見えないが、そこに番兵がいるらしい。当然だろう。建前は客でも、内実は囚人だ。兵長が、見張りをつけずに面会を許すはずがない。
「この男なら大丈夫です。わたしが金を使って番兵に潜り込ませました」
オノリウスは低い声で言った。「クレタ人ではありません。カルタゴから来ましたが、実はロードス島出身の傭兵です」
俺はオノリウスの深謀遠慮に舌を巻いた。ロードス島はクレタ島に近く、漁場をめぐってしばしばクレタと争いを起こしていた。クレタ人に好意は持つまい。テセウスは賛同するようにうなずいた。
「逃亡を図ったと聞きました。ラビリンスに向かわれるおつもりでしたか」
「失敗したがな」
「ミノタウロスを殺すおつもりで?」
「他にアテネがこの苦境から逃れる手があるか?」
「あなたが殺されてはなんにもならない」
「今度はうまくやる。失敗したのは、情報が無いからだ。谷に結界が張ってあるのはわかった。だが、肝心のミノタウロスについて、ほとんど何もわからない。これでは戦いようがない」
「しかし、わたしも大してお役には立てません。というのも、ミノタウロスについてはクレタ人もよく知らぬようなのです」
「彼らの守り神だろう?」
「迷宮の神と呼ばれています」
オノリウスは王妃パシファエと白い牡牛の話をした。生まれた双子のうち、一人が怪物であったこと、海辺の崖の上に現れた、白く光る幻の女の神託。ミノス王が名工ダイダロスに命じてラビリンスを作らせたこと。
「ラビリンスは、入ったら最後、二度と出られぬ迷宮と言われます。誰一人、足を踏み入れるものはありません。ミノス王さえも。ただ一人の例外が、アリアドネ王女です」
「あのじゃじゃ馬か」
「王女のみが、たびたびラビリンスを訪れて、ミノタウロスの世話をしていると言われています」
「それなら、王女はラビリンスを自在に往来してるのだろう? 出る方法は必ずあるはずだ」
「アリアドネはミノタウロスの姉です。人間の姿をしてはいても、怪物の肉親です。我々とは違っていることをお忘れになりませんように」
テセウスは左肩をそっと押さえて眉をしかめた。
「確かに、アテネ人とは違った」
「その怪我は、王女が?」
「大したことはない。ラビリンスはダイダロスが作ったと言ったな。やつなら内部を知っているだろう」
「説得は難しいでしょう。ダイダロスはこの町の外れに住んでいますが、頑固な男で買収はききません。アテネにいい感情も持っておりません。やつを追放したのは我々ですから」
「仕方あるまい。弟子の才能を妬んで、事故に見せかけて殺した男だ。しかも、その弟子は、実の甥だったというじゃないか」
「はい」
テセウスはちょっとの間考え込むようだったが、よい、と言った。
「ラビリンスのことは後で考えよう。ミノタウロスについて話してくれ。どんな顔形をしているのか、大きさはどのくらいなのか、怪力と言われるその力はどの程度なのか、得意な武器は何か、そういったことだ」
「ラビリンスの入口である洞窟の鉄の扉に彫られた彫刻では、頭に鋭い二本の角を生やした牛頭人身の怪物です。噂では、ミノタウロスの力の根源は、その二本の角にあるそうです。ミノタウロスを殺して、その角を切り取り、粉にして飲めば、どんな病をも癒すほどの力がこもっている、とも言います」
「大きさや武器はわからないか」
「ラビリンスに入って出てきたものはいないのです」
「アリアドネ以外には」
「はい」
「九年前の貢納の時、お前はクレタにいたな。何があったか話してくれ」
オノリウスは口をつぐんだままだった。
「思い出したくないのはわかる。だが、わたしは知らなきゃならない」
感情のこもらない、無機質の声で、オノリウスは話し始めた。
「わたしはアテネから、七人の若者と七人の乙女に付き添ってきました。船を下りると、わたしだけが王宮に招かれ、ミノス王から歓待を受けました。若者たちは、まっすぐに宿舎に送られ、そこで日を過ごすことになっていると言われました。翌日、わたしはここを訪れ、彼らが約定通りの扱いを受けていることを確かめました。束の間ですが平穏に暮らしているように見えました。夏至が過ぎて三日後、日が沈むと、彼らは沐浴を済ませ、新しい衣に身を包み、両手首を後ろ手に縛られ、数珠繋ぎになりました。そしてクレタ兵に前後左右を囲まれて、ラビリンスに向かいました」
テセウスが怒りを抑えかねたような唸り声を発した。
「ラビリンスの前で、ミノス王とポントウス将軍、それに宮廷の主だったクレタ人が待ち構えておりました。月は無く、星明りも森の枝にさえぎられて地表までは届かない。辺りはほぼ真っ暗でした。若者と乙女の白い衣は見えましたが、彼らの表情までは見えない。わたしはそのことを、今でも感謝しています。ただ、洞窟の入口で赤々と燃える松明のみが、鉄の扉に彫られた怪物の彫刻をくっきりと浮かび上がらせておりました。ミノス王が短い祈祷を捧げ、合図と共に兵が鉄の扉を開きました。貪欲な獣が口を開くように、夜の闇よりも真っ黒な穴が開きました。槍を持った兵士が怯える若者たちを追い立てて穴の中に追い込むと、すぐに扉を閉じました。乙女たちの泣き声がぴたりと聞こえなくなり、松明の火が消されました」
オノリウスは口をつぐんだ。
「それから?」
テセウスが催促した。
「それだけです」
「だが、彼らはどうなったんだ?誰も、彼らの様子を見に行かなかったのか?」
「行きません」
「彼らの骨はどうなったんだ。贄になったとしても、せめて骨ぐらい・・」
「あの若者と乙女たちの最後がどんなものであったのか、我々にはわからないのです。ただ、もう生きていないことは確かです。あれから、二度と彼らの姿を見た者はおりませんから」
テセウスは黙っていた。やがてぽつりと、言った。
「荒野だ」
「は? なんとおっしゃいましたか」
「ここは荒野だ。ミノタウロスを殺すには、あの野蛮人から、ラビリンスの秘密を聞き出すしかないらしい」
テセウスに寄り添っていた女が顔を上げた。もの問いたげにテセウスの顔を見る。
「オノリウス、絹物は手に入るか?」
絹はその美しさが珍重されたが、シナからの輸入品で恐ろしく高価だった。
「ペルシャの商人に渡りをつけましょう」
「お前の手に入れられる一番上等な絹物をわたしからの贈り物だと言ってアリアドネ王女に贈ってくれ」
「それはよろしいですが……しかし、あの王女がそのような贈り物を喜びますかどうか」
「だろうな。それでいいんだ」
オノリウスはふに落ちない様子だったが、早速取り計らいます、と答えた。
俺は、そろそろと窓から身を引き上げた。いつの間にか日が落ちて、辺りはすっかり薄暗くなっている。さっきまで林の中を散策していた若者や乙女の姿も見えない。それぞれの蔵に戻ったのだろう。俺も、そろそろ引き上げ時だ。屋根の上を腹ばいに静かに後ずさって下りようとした時、松林の中で火の色が動くのが見えた。番兵が、テセウスにくっついている女を女蔵に戻しにきたのだろうか。
松明はまっすぐにこの蔵に近づいてくる。
俺はじっと屋根に張り付いたまま、見守った。今では、番兵の数がやけに多いこと、中央の貴人を護衛しながら歩いてくることに気がついていた。蔵の入口まで来た時、松明の明かりで、その貴人の顔がはっきりと見えた。ミノス王だった。
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