第18話 迷い谷 其の五
夏至の日のトーナメントまで、日々はあっという間に過ぎていった。
俺は王のもとに伺候しては、将軍とクレタの若者たちの訓練の様子を語り、谷の様子を語った。テセウスの肩は、オノリウスの持ってきた薬で、ぐんぐんと良くなり、今では盾を使うのに何のさわりもなかった。そうなってみると、テセウスはさすがに強かった。アテネの若者二人を同時に相手にして、打ちのめすことができた。谷の空気はどんどん明るくなっていき、若い笑い声がこだまするようになった。
王女は時折、谷に姿を見せてテセウスの訓練の様子を見ていた。だが、いつかのようにテセウスに挑戦するようなことはしなかった。黙って見学すると、そのまま帰っていく。何のためにやってくるのか、俺にもさっぱりわからなかった。
アテネ人たちも不安に思ったようだ。王女が見ている時は、訓練を中止した方がいい、と、テセウスに進言した。戦術がトーナメントの対戦相手に洩れるのでは、と危惧したようだ。テセウスは笑い飛ばした。見たければ見るがいい、そんなことで負けるようでは本物の力ではない、と言った。それで、訓練は王女の見ている前でも続けられた。実際、俺の知る限り、王女はテセウスの訓練の様子を、クレタ人の選手や将軍に漏らしたことはないと思う。
王女がテセウスに話しかけたことが一度だけあった。トーナメントの数日前、いつも通り、蔵の前の空き地でアテネ人の若者と訓練をした後、テセウスは谷を流れる渓流に汗を流しにいった。いつもなら、訓練が終わるとさっさと帰っていく王女が、なぜかこの日は彼らについていった。
王女は川の縁の平らな大岩に腰を据えて、頬杖をついて、テセウスたちが裸になって、川の流れに入っていくのを見ていた。アテネ人の若者たちの中には、きまり悪そうに王女の方を見る者もいた。若者たちの世話をしているアテネの乙女たちは、もっと気にして、お互い同士、小さな声でひそひそとささやき合っていた。
テセウスは知らん顔をしていた。王女の視線は、絶えずテセウスの動きを追っていたのだが、素知らぬ顔で身体を洗い、冷たい水に潜ったと思うと、隣の若者の足を引っ張ってひっくり返し、大声で笑いながら水を掛け合ったりしていた。
水遊びにも飽きると、テセウスは川原にあがってきた。いつもの乙女が、清潔な布を持って駆けつけた。
「その女はお前の奴隷か?」
王女の言葉に、テセウスは振り向いた。
「彼女はアテネでも名のある市民の娘だ。失礼なことを言うな」
「へえ、そうか。女奴隷のようにお前にかしづいているから、聞いただけだ。女、なぜ、お前はこの男の身体を拭いてやったりする?」
いきなり話しかけられて、アテネ人の乙女は怯えたような顔をしたが、王女の問いは非難ではなく、純粋な興味から起きたものらしかった。王女にしては珍しいほど穏やかな目で乙女を見ている。
アテネ人の乙女は小さな声で答えた。
「テセウス様のお世話をすることは、わたくしの喜びですから」
「それは、お前が、この男に惚れているからか?」
かわいそうに、乙女は見る見る頬を真っ赤に染めて、その場から駆け出すと、林の中に消えてしまった。他の乙女や若者たちも、なんとなく居心地悪そうに、目を大地に向けて、急いで身支度を整えている。一刻も早くここから逃げ出したい、というようだ。その空気は、王女にもわかったらしい。
「わたしは何か変なことを言ったか?」
テセウスは苦笑した。
「王女。彼女はおとなしい娘なのです。あまりいじめないでいただきたい」
「わたしはいじめたつもりはないが……」
「若い乙女にとって、心の中のことをあけすけに議論されるのは、苦痛なのです。あの娘がもう少し気が強ければ、王女様の横面を張り飛ばしていたところです」
「それは面白い。相手になってやれたのに」
この間に、他の乙女や若者たちは、そそくさと川原を離れていった。テセウスは一人残って、ぐっしょりと濡れた髪から水を絞って、身体から水滴をぬぐっていた。
「もし、気を悪くしたのなら、すまなかったとあの女に言っておいてくれ」
テセウスは驚いたように顔を上げた。俺も驚いた。王女が誰かに謝るなんて、めったにあることじゃない。
「わたしはただ、興味があっただけなんだ。肩の傷の具合はどうだ?」
「もう、すっかり良くなった」
テセウスは身体を拭き終わると、清潔な衣服を身につけた。王女はテセウスの身支度が終わるまで黙って見ていた。
「お前に聞きたいことがある。昨日、わたしの部屋に荷物が届いた。使者の口上だと、お前からだという」
「その通り。わたしがオノリウスに命じて、貴方に贈るように手配した」
「何のために?」
「貴方が美しい方だから、ではいけませんか?」
「嘘つきめ」
テセウスは吹き出した。
「では、どう言えばお気に召しますか?」
「ラビリンスの秘密を知りたくて、賄賂を贈ったつもりなんだろう」
「確かに知りたかったが、もういい」
「トーナメントで優勝するからか」
「そう。だから、あれは下心のない、純粋な贈り物だ。気に入っていただけると嬉しい」
「ふん。明日の夜、宮殿でパーティがあるのを知っているか?」
「いや」
「わたしの婚約披露宴だ」
「それはおめでとう存じます」
「お前も来い」
「しかし」
「わたしが招待する。宮殿の衛兵を迎えにやるから来い」
王女の口調は有無を言わせないものだった。テセウスは、不思議そうに王女の顔を見たが、招待をお受けしよう、と言った。
テセウスが立ち去ると、王女は俺の隠れている楓の木の梢を見上げて、耳!と叫んだ。
俺は木の幹を滑り降りると、王女の前に膝をついた。
「ダイダロスに、船の支度を急ぐように言え。それと、これを渡せ」
何度目かの砂金の袋だった。俺は受け取って懐にしまうと、ダイダロスの家に向かった。
ここ何度か、王女のお使いでダイダロスの家を訪れた。そのたびに、少しずつ、家の中の様子が変わっていった。家中の床に散乱していたガラクタが、ある日、きれいさっぱり無くなっていた。テーブルの上の絵図面は、様々に変わり、ついに、一枚も無くなった。オートマトンも無くなった。俺の隠れた空き樽はある日、ばらばらに壊されて、破片が床に飛び散っていた。
ダイダロスは大概、ひとりでテーブルの前にすわって、様々な機械をいじくっていた。時には、船大工の親方や、鍛冶屋らしい男と、絵図面を見ながら、熱心に話し込んでいることもあった。ある時には、異国から来た商人と、ひそひそと話し、王女から預かった砂金の袋を渡したこともあった。
しかし、今日はダイダロスはひとりだった。
「やあ、耳役殿」
俺はダイダロスに、王女の言葉を伝え、砂金の袋を渡した。
テーブルの上には、今まで見たことのない細工が置いてあった。薄い三枚の木の板を真ん中で寄り合わせたようなもので、一枚、一枚の板は中央で奇妙にねじれている。
度々ここへ来るうちに、俺はダイダロスの仕事に興味を持つようになっていた。
「これは、何ですか?」
「これか」
ダイダロスは得意げに、奇妙な細工物を持ち上げた。
「これは、すくりゅうという。この三枚の板はぷろべらといってな、こう、ぐるぐると回転する」
ダイダロスは細工物を指で動かしてみせた。なるほど、薄い三枚の板は、矢羽を真後ろから見たようにつながっていて、矢の軸の部分を中心としてぐるぐると回転した。
「これを何に使うのですか?」
「これはな、櫂なのよ」
「櫂?」
「これ一つで、三百人の奴隷が漕ぐ櫂よりも、もっと強力に船を進めることができる。面白かろう?」
俺は感心した。
「こんな小さなものがですか」
ダイダロスは爆笑した。
「いやいや、これは模型だ。実物はもっとずっと大きい。今、大工の親方に作ってもらっている。出来上がり次第、オリハルコンと共に船尾に取り付ける。そうすると、水中でぐるぐると回転して、船を押し進める。クレタ海軍の船がどれほど速かろうとも、このすくりゅうのついた船にはかなわんよ」
ダイダロスは満足気に言って、すくりゅうをテーブルに戻した。
「息子さんの具合はどうだね?」
俺は感動した。ダイダロスは覚えていてくれたのだ。
「どうやら、起き上がれるようになって、仕事に行っています」
「どんな仕事をしておる?」
「式部官殿の下で、書記見習いをしています」
「ふむ。それなら大丈夫だろう。書記は居職だ。戸外で走り回る必要はない」
しかし、俺は一抹の不安を感じていた。イカロスは一見、元気を取り戻したように見える。だが、心臓に爆弾を抱えていては、またいつ、倒れるかわからない。そして、今度倒れたら、そしてそれを奴隷頭に知られたら……。その先は考えたくなかった。
「わしはな」と、ダイダロスは続けた。
「いっそ、お前さんと息子さんも、王女様と一緒にアテネに行ってはどうかと思っていたのよ。アテネに着いたら、奴隷身分から解放してもらえばよい。お前さんはクレタ王家の奴隷なんだから、王女様なら解放できるはずだ。自由民となっても、暮らしは楽じゃないだろうが、いつ、息子さんが売られるかとびくびくすることはない」
ありがたさに涙がこぼれそうになった。ここまで、たかが奴隷の俺のことを心配してくれた人間はいない。いや、一人だけいた。俺の前任者、あのノッポだ。
ダイダロスは、ま、考えてみてくれ、と言った。
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