第21話 工房 其の三
番兵の数は増えていた。屯所に寄ると、番兵長がいて、トーナメントを見られなかったことを残念がった。
「将軍はお怪我なさったそうで」
「命に関わるようなことはないそうです」
「それは良かった」
「番兵の数が増えたようですが」
「クノッソスから命令がきました。しかし、アテネ人たちは明日、帰国だってはしゃぎまわってますよ。何だっていきなりこんな警備をするのか、耳役殿、何か聞いておられないか?」
いいや、何も、と答えて、俺は谷を出た。
ダイダロスの家で、王女に谷で見聞きしたことを報告すると、王女は、やはりな、と言った。ダイダロスは、沈痛な表情で聞いていて、何も言わなかった。
「どういうことです? まさか…」
「多分、お前の思ってる通りよ」
「しかし、そんな……」
「ダイダロス、教えてやれ」
王女に命じられて、ダイダロスは重い口を開いた。
「耳役殿。ミノス王は、初めからアテネ人を解放する気などなかった」
「でも、王は市民の前で約束しました」
「約束は方便に過ぎん」
ダイダロスの顔は暗かった。
「王はアテネ人たちを引きとめようとしたそうだな?」
「はい」
「わしはこう思う。ラビリンスが開くのは三日後の夜だ。その夜、二つの集団が谷を出ていくだろう。ひとつは港に向かい、王が用意した船で朝潮とともにアテネに向かう。だが、この船は決してアテネに着かない。海は変幻自在だ。思わぬ事故はいつでも起こる。やむを得ない。アテネ人も、クレタ人もそう思うだろう。一方、もう一つの集団、本物のアテネ人の貢物は、ラビリンスに向かう」
俺は言葉がなかった。谷で見たアテネ人は一室に集まってオノリウスを囲み、トーナメントの話を夢中になって聞いていた。もともと少ない荷物は隅にまとめられて、帰国の準備はすっかり整っている。後は、テセウスを待つばかりだ。
そうだ、テセウス。
彼は気付くだろうか。何かおかしい、と。彼なら気付くかもしれない。だが、気付いたところで彼に何ができるだろう。大幅に増えた番兵に一人で立ち向かうのか? しかも、彼は怪我をしている。俺は黙っていられなくなった。
「王女様、放っておかれるのですか?」
耳役殿、とダイダロスが警告するような声を出したが、俺は我慢できなかった。「これはひど過ぎる。王は約束した。テセウスは正当に戦って勝利を得たんだ。その結果がこれではあんまりだ」
何をそんなに腹を立てたのか。今になって思うと、俺は人間の約束、人と人との信頼関係というものを信じたかったのだと思う。俺達はテセウスの言う、荒野に住んでいるわけじゃないのだと、そういうことを言いたかったのだと思う。あの時はただ、怒りに駆られて闇雲にわめいただけだったが。
「王女様だってそう思うはずだ。王は約束したんだ。こんなことが許されていいはずがない。二枚舌にもほどがある…」
シュッと鋭い音がして、王女の腰から銀の蛇が走り出たように見えた。次の瞬間、俺の喉に細い剣が突きつけられていた。王女の目はらんらんと光って、俺を睨みつけている。
「図に乗るなよ。分をわきまえろ」
俺は黙って、首うなだれた。王女は剣を鞘に納めると、意外なほど、穏やかな声で言った。
「耳、覚えておけ。クレタ王の第一の義務は、クレタ国家の安全と繁栄にある。父上は義務を果たしてるだけだ」
王女はダイダロスに向かって、こいつに少し分別をつけてやれ、と言うと、出て行こうとした。俺は最後にもう一度だけ、試みた。
「王女様」
王女は足を止めた。
「なんだ」
「将軍との試合の前、テセウスは俺に何かを言おうとしたんです、王女様に伝えてくれ、と」
「ほ…」
王女の目が大きく見開かれた。
「何をだ?」
「何も。途中で気を変えてしまわれました」
「ふん……」
王女は小鳥のように首をかしげて考えこんだが、まあ、いい、と言って飛び立つように出ていった。
「耳役殿」
ダイダロスの重々しい声が俺の想念に割り込んできた。
「息子さんと一緒にアテネに行く、という提案を考えてみたかな」
俺は考えてみた。気が進まなかった。俺は王女を信用していなかった。王女が俺を奴隷身分から解放してくれるかどうか、どうしてわかるだろう? それに、知らぬ他国で病気の子供を抱えて生きていく自信がなかった。
ダイダロスは俺の顔色を読んだようだった。そうか、とため息をついた。
「わしは昔、手前勝手な理由で、ひとりの才能ある若者の未来を潰したことがある。今でも、夢に見る。そのせいだろう、お前さんの息子のことがどうにも気になってな。わしは宮殿に出入りしている工房の親方に少しは知り合いがある。さっき、その一人から聞いたのだが、お前さんの息子さんは、今日、倒れたそうだ」
俺は足元の大地が崩れたように思った。どうしたことか、身体がふらふらとしてまっすぐに立っていられない。懸命に足を踏みしめた。
「トーナメントの間、式部官の助手として試合の勝敗表を作っていたそうだ。暑い日盛りの中にずっといたのが悪かったのだろう。倒れて、宮殿に運ばれたそうだ……大丈夫かね?」
俺は世界がぐるぐると回る感覚に必死に耐えていた。
「それ、これを飲むといい」
ダイダロスは不自由な脚を引きずって、水樽からひしゃくに水を汲んでくれた。俺はありがたく頂いた。
「ダイダロス殿」
「なんだね?」
「ダイダロス殿は、ラビリンスを無事に抜ける方法をご存知でしょう」
「……」
「教えてください。お願いします」
俺は頭を床に擦り付けた。必死だった。
ダイダロスは沈黙している。俺は頭を上げなかった。教えてもらうまで、ここを動くまい、そう思った。
どれだけたったか、永遠にも思える時間が過ぎた。
「教えたら、息子さんを連れてアテネに行くかね?」
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