迷宮の神
日野原 爽
第1話 港
クレタ人は皆嘘つきだ、と、クレタ人が言った。
一 港
陽光の下で街路は白く輝いている。漁師が魚のはらわたを海に投げ捨てると、青い宝石のような空から白い弾丸が急降下してきた。同じ獲物を狙った仲間のカモメとの間に騒々しい喧嘩が始まる。そよとも動かない空気は腐った魚の臭いに満ちて、世界中の蠅をこの小さな港町に呼び集めているようだ。
暑い。
俺は、情け容赦ない日光と首筋の汗にうるさくまとわりつく蠅から逃れて、手近な雑貨屋に入った。窓のない薄暗い屋内には、貝殻で作った安物の装身具や、様々な色に絵付けされた壺や皿が並べてある。柱には、黄色く平べったい円形のパンのような海綿がいくつも束になってぶら下がっている。海綿はクレタ島の特産物だ。丈夫できめの細かい天然のスポンジを求めて、ギリシア本土や、遠くリビアやカルタゴからも商人が買い付けにやってくる。
大枚の金貨を落とす客がやってきたと思ったのだろう。店の奥から主人らしい爺さんが急いで出てきた。俺のみすぼらしいなりを見てすぐに違うと悟ったが、それでも商売人だ。丁寧にお辞儀して言った。
「お暑うございますな、お耳役様」
「まったくだ。商売の方はどうだ」
「王家のご威光のおかげさまを持ちまして、まあまあ上手くいっております。耳役様、このようなあばら家で何もございませんが、冷たいものなど、お持ちいたしましょうか」
真昼間、クノッソス宮殿から歩いてきて、俺はのどが渇いていた。爺さんは奥に引っ込んで、すぐになみなみと水を湛えた木の椀を持って戻ってきた。俺がもうちょっと上等の役人だったら、水じゃなく葡萄酒を持ってきただろう。構わない。好意は好意だ、多少割引されていたとしても。
冷たい水はうまかった。俺はのどを鳴らして一気に飲んだ。椀を返すと、爺さんは内緒話をするようなささやき声で尋ねた。
「あの、お耳役様。本日はどのようなご用件でいらしたのでしょうか」
「なぜだ。俺が来ると困ることがあるのか」
「とんでもございません。ただ、お耳役様がわざわざこのような陋屋にお運びいただきましたので……」
爺さんの目には怯えの色がある。俺はすぐに後悔した。うまい水を分けてくれた爺さんに、役人風を吹かせることはない。
「別にお前のとこに来たわけじゃない。たまたま目についたから、暑気を避けて寄っただけだ」
爺さんは目に見えてほっとしたようだった。
「まことにお暑うございます。ただ今、椅子をお持ちします」
背もたれのない、硬い木の椅子が奥から持ち出されてきた。この店にある、たった一つの椅子かもしれない。爺さんは俺のそばに立ったままだった。
「お耳役様、今日、港で何かございますので?」
「アテネからの船が今日、着く」
爺さんははっと息をのんだ。俺は知らないふりをした。
「波は静かだし、風もない。大過なく入港できるだろう」
イラクリオンの港は、白い石を積み上げた防壁で外海から守られている。港に近づいて海の色が明るいコバルトブルーに変わると、船乗りの顔に、故郷に帰ってきた安堵の色が見え、甲板に陽気な笑い声が聞こえるようになる。だが、今回の船の船客には、白い石の防波堤が、死の門に見えているかもしれない。
「哀れなことでございますな」
「なぜだ。大事な貢物だ。無事に着くに越したことはない」
「もちろん、さようでございます。王家のなさることに、まちがいはございません」
爺さんは愛想笑いを浮かべて答え、俺はうんざりした。爺さんの卑屈さも、上げ足を取った俺の意地の悪さも、両方とも不快だ。厄介をかけた、と俺は言って、爺さんの店を出た。
とたんに、猛烈な熱気が襲い掛かってきた。むき出しの顔と首筋を灼き、全身から汗を噴き出させる。俺は額に巻いた汗止めの襤褸切れを締め直して、港に向かって足を速めた。
この島で起きることは委細もらさず、王に報告することが、「王の耳」の務めだ。身分は奴隷。俺の額には、クレタ王家の紋章である雄牛の角が刻印されている。人ではなく、王家の持ち物であるしるしだ。それでも町の人々は、さっきの爺さんのように、うわべだけは俺をていねいに扱う。俺の後ろにクレタ王ミノスの痩せた、陰鬱な影を見ているからだ。
アテネからの船はすでに港に入っていた。
波に揺られてゆっくりと上下する甲板の上で、水夫が忙しく帆を下ろし、船倉から積み荷を運び出して荷下ろしの準備をしている。アテネからの船荷は書物、金銀の細工物、絹織物、香油などが多い。どれもこの島では手に入らない贅沢品だ。だが、この船が運んできた一番大切な荷はまだ、姿を見せていない。
俺は、近くの路上にたくさんの荷箱が積み上げられているのに目をつけた。その隙間に潜り込むと、漁師が広げて干しておいた網を頭からかぶった。日を遮る役には立たないし、魚臭くて閉口したが、身を隠して物事を見聞きするには格好の場所だ。
俺が隠れてすぐに、街路の向こうから規則正しい足音が近づいてきた。三十人ぐらいだろうか、クレタ兵の一団が、革と鋼の完全装備で、槍と盾を構えて列を作ってやってくる。その後ろに、四人の奴隷に担がれて、窓を閉じ切った輿が一つ続いている。兵は、アテネからの船の正面までくると号令とともに立ち止まった。ざっ、ざっという足音が止まると、港は急に静かになった。輿の中から宮廷の儀礼を司る式武官が姿を現わした。
輿を担いできた奴隷の一人が、折りたたんだ床几を広げると、豪奢な絹服に太った身体を包んだ式武官は、よっこらしょと緩慢な動作で腰をおろした。すぐにもう一人の奴隷が赤い日傘をその頭上にさしかけ、もう一人が羽扇を取り出して風を送る。最後の一人は、革袋に入った冷たい飲み物を杯に注いで勧めた。
いつの間にか町の人々が集まってきていた。商人、職工、漁師、大家の召使らしいお仕着せの奴隷、近郊から作物を売りに来た農夫、牧童、通りがかった子連れの母親まで、身分も地位も雑多な人々が、この一団を遠巻きにしてじっと立ち尽くしている。照り付ける陽光の中で汗をかきながら、何かを待っている。
やがて、船の上で動きがあった。船長らしい大柄な船乗りに連れられて、アテネ人が船の渡り板を一列になって降りてきたのだ。町の人々の間からどよめきが起こり、式武官は床几から立ち上がった。
俺は、一、二、三、と人数を数える。四、五、六、七人の若者。そしてその後に同じく七人の若い娘が続いた。そろって簡素な白い服を身に着けているが、どれも若く、健康そうだ。皆、昂然と頭を上げ、迎えにきたクレタ人を軽蔑するように見下ろしている。敗戦の代償ではなく、勝利者としてやってきたような態度だった。
船長は十四人のアテネ人を式武官の前に先導すると、懐から巻いた書状を取り出して式武官に渡した。式武官は書状を広げて黙読すると、うなずいた。片手を上げて合図すると、クレタ兵がアテネ人を取り囲んだ。
先頭のアテネ人が式武官に何か言った。式武官はうるさそうに手を振ったが、アテネ人は強情だった。兵が脅すように槍を突き付けたが、若者は地面に足を踏ん張ったまま動こうとしない。この若者が一行のリーダーらしい。背は高いが、大男ではない。良く日焼けした手足はすんなりと伸び、むしろ華奢な印象さえ与える。だが、黒い巻き毛の下の瞳は強い光を宿していた。腕に手をかけようとした兵を鋭い声で制し、式武官に向かって何か言うと、式武官はしぶしぶとうなずいた。
兵士が引きさがると、若者は船長に近づいた。手にはめていた指輪を抜き取ると、船長に渡した。船長は恐れ入った身振りで、受け取った指輪を額に当て、深く礼をした。最大級の感謝と尊敬の表現だ。
この若者、何者だろう。
再び号令が響き、クレタ兵は十四人のアテネ人を取り囲むように隊列を組んだ。式武官は再び太った身体を輿に押し込んで、列の一番後ろに付いた。行列は港を出て、アテネ人の宿舎のある迷い谷に向かって行進していった。炎天下で見物していた人々はほっとしたように、三々五々、自分たちの仕事に戻っていった。
ただ一人、さっきの船長はその場で突っ立ったまま、アテネ人の一行を見送っていた。赤銅色の頬で何かが光った。泣いてるのか?
俺は荷箱の隙間から抜け出ると、船長に近づいた。
「耳、どこに隠れていた?」
いきなり呼びかけられて、俺は足を止めた。振り返ると、見知った顔が嫌な笑いを浮かべて俺を見ていた。
「これは、コリウス殿」
俺は低く頭を下げて後ずさった。王の叔父にあたるポントウス将軍の副官で、貴族ではないが、それに準じる地主階級の出身だ。頭の切れる嫌なやつだった。
「コリウス様、今日はお仕事でこちらへ?」
「今日は非番だ。ただの野次馬さ」
「それは、わざわざ、ご苦労様なことでございます」
「物好きな、と言いたいんじゃないのか?」
「滅相もない」
「ご苦労なのはお前の方だろう。たかが荷物の受け取りを見届けに、こんな所まで出張ってくるんだからな」
コリウスは探るような眼で俺を眺めた。
「あの若者は何者だ?」
「どの若者のことで?」
コリウスはふふん、と鼻で笑った。
「知らぬならいい。耳!」
突然の呼びかけに、はっとかしこまると、コリウスは身体を寄せてささやいた。
「たまには身体を洗え。魚臭くてかなわん」
屈辱に思わず身が縮まった。コリウスは手を振って、行け、と合図すると離れていった。
我に返ると、さっきの船長はもういない。コリウスはのんびりした足取りで船の方に向かって歩いていく。
してやられた。コリウスは船長から、あの若者の身元を聞き出すつもりだろう。そして、ポントウス将軍に報告する。ライバルに先を越されたミノス王は面白くあるまい。王の耳役としての俺の重大な失態になる。良くて減給、王の虫の居所が悪ければむち打ちが待ってる。
なんとしてもあの若者についての情報を手にいれるんだ。
俺は迷い谷に向かった一行の後を追って走り出した。
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