第16話 迷い谷 其の四

 松林の中を進んで行くうちにも、俺は谷の空気が昨日とはまるで違っているのを感じとっていた。晴れた気持ちのよい朝なのに、林の中を散策する若者や乙女は一人もいない。蔵まで来て、その理由がわかった。

 蔵の前の空き地に、七人の乙女と、五人の若者がそろってすわっている。オノリウスもいた。彼らは息を詰めて、テセウスともう一人のアテネ人の若者が剣を持って打ち合うのを見ていた。

 昨夜、王は訓練用の剣をさっそく届けると言っていた。その通りに届いたらしい。二人の振るう剣は刃をつぶしてあるようだ。囚人同様の貢物に、本物の剣を与えるほど、ミノス王は馬鹿ではない。それでも二人の試合は、見ている者の身をすくませるほどに激しいものだった。

 相手の若者が凡手でないことは、俺にもわかった。踏み込みの鋭さ、剣を振るうスピード、さっき練兵場で見たクレタの若者たちと比べても、遜色ないと思われた。二人とも左手に盾を構えているのだが、テセウスの左肩はまだ包帯に包まれたままだ。だが、テセウスは盾など使わなかった。右手の剣で若者の攻撃を片っ端からぴしぴしと跳ね返していく。テセウスの方から攻撃に出ることはないのに、若者は明らかに押されていた。額に汗がにじみだしている。

「エイモス、しっかり!」

 控えの若者たちの中から声援がとんだ。

 エイモスは一歩下がって構えを立て直した。じりじりと右に回って、テセウスの隙をうかがう。テセウスはその場に立ったまま、ほとんど動こうとしない。目だけでエイモスの動きを追っていた。

 はっと気合をかけて、エイモスが踏み込んだ。エイモスの剣がぐんと伸びて、テセウスの左顔面をなぎ払う。テセウスは盾で受けた。かん、と鋭い音がして、エイモスの剣がはじき返された。次の瞬間、テセウスの剣は、流れたエイモスの剣を捕らえた。剣はエイモスの手を離れて宙に飛び、エイモスは飛び下がって、参った! と叫んだ。

 テセウスは盾を地面に落とした。カラン、という明るい金属音が響く。

 エイモスが心配そうに駆け寄った。

「大丈夫ですか? すみません、つい……」

 テセウスは右手で左肩を押さえて顔をしかめていたが、うるさそうに首を振った。

「大丈夫だ。次は誰だ?」

「俺です!」

 小柄な若者が立ち上がり、やや短めの剣と盾を取ってテセウスに相対した。エイモスは観客に加わり、じりじりと動き始めた二人を見ている。

 俺は谷の空気が変わったわけを理解した。昨日まで、ここは絶望が支配していた。どれほど快適に過ごせようとも、若者たちは、自分たちを待ち受けている真っ暗な洞窟を忘れられなかったのだろう。彼らは静かにゆっくりと歩き、ささやくような小声で話した。谷は運命に押しつぶされたように暗く、息苦しい場所だった。

 それが、わずか一晩で、この空気の変わりようはどうだろう。若者と乙女たちは、剣を振るう二人に大声で声援を送っていた。瞳に光が戻り、身ごなしは敏捷に、活発になった。彼らは希望を手にしたのだ。黙って運命に従うしかない時、人の心は折れてしまう。なすべきことが何も無いと、肉体が死ぬ前に、心が死んでしまうのだ。ミノスの約束は、彼らに望みを与えた。半ば死んだも同然だった彼らは、再び生き始めたのだ。

 小柄な若者の剣はめまぐるしく動いた。リーチの短い不利を、敏捷な動きでカバーする戦いだった。小猿のように相手の懐に飛び込み、剣を振るっては飛びのく。左腕を思うように使えないテセウスは苦戦していた。何回か受け損ねて、腕や脚を打たれた。

 しかし、テセウスは老練な戦士だった。打たれながらも冷静に相手の攻撃のパターンを分析していたのだろう。何度目かに飛び込んできた若者の剣をかわすや、脚払いをかけた。若者がどうと地面に倒れると、のしかかって首筋に剣を突きつけた。若者は剣から手を離すと、参った! と叫んだ。

 テセウスは立ち上がった。さすがに息が上がっている。額の汗をぬぐうと、次! と声をかけたが、その声もかすれていた。

 次の若者が立ち上がったが、オノリウスが、待て、と言って立った。

「今日はもう、よいでしょう」

「わたしはまだ、大丈夫だ」

 テセウスは言って、次! と若者に声をかけた。

 若者は目でオノリウスの方をうかがった。

「無理なさっては、直るものも直らない。その肩の傷のために、よい薬を持ってきました」

 オノリウスはテセウスの相手をした若者たちに向かって言った。

「お前たちも、中に入りなさい。打ち身の薬もある。これからトーナメントまで、王子の相手をしてもらわねばならないのだから」

 テセウスは不満そうだったが、オノリウスに促されて蔵に向かった。若者と乙女たちも立ち上がり、めいめい、ばらばらに森へ向かいかけた時、嘲笑うように高い声が空き地に響き渡った。

「なんだ、テセウスといっても大したことないんだな」

 テセウスはくるりと振り返った。

 もちろん、王女だった。

 森の端に立って、足を大きく広げ、光る目でテセウスを見ている。今日は男の服を着て、腰に剣を吊っている。昨日、刀鍛冶の工房でもとめたあの剣だろう。

「トーナメントに出るというから見にきてやったが、その程度じゃ一回戦で敗退だぞ」

「女のあなたにわかるとは思えないが」

 落ち着いているようで、テセウスの表情は固かった。

 王女は挑発には乗らなかった。ふふん、と鼻で笑って受け流した。

「そう、馬鹿にしたもんでもない。クレタ島の戦士はもう少し手強いぞ。一手、教えてやろうか?」

「それは有り難い。お願いしようか」

 テセウスは一歩、足を踏み出したが、オノリウスが素早く前をさえぎった。

「王女、彼は怪我をしています。大事な試合を控えてもいる。怪我人を打ちのめしたところで、王女の自慢にはなりますまい。テセウスとの試合をお望みなら、トーナメントが終わってからにして頂きたい」

「その時までやつが生きていられるかな?」

「心配ご無用」

 と、テセウスが言った。

 王女はくくっと笑った。

「よかろう。楽しみは後までとっておこう」

 テセウスとオノリウスが蔵に入り、他のアテネ人たちも散ってしまうと、俺はそっとその場を抜け出そうとした。そのとたん、「耳!」という王女の声が頭上に降ってきた。

 王女はまっすぐに俺の隠れている藪を睨んでいる。どういうわけで、この王女は俺の所在をかぎつけるのか、全くの謎だ。俺はびくびくしながら、王女の前に出ていって膝をついた。

「お前は昨夜、王のたくらみをわたしに報告しなかったね?」

 詰問の言葉ではあったが、王女の表情はそれほどけわしくなかった。ただ、腰につるしている剣の柄をいじくりまわしているのが、なんとも不気味だった。うっかりした事を言えば、白刃が即座に鞘走りそうだ。俺は必死で言い訳を考えた。

「もう、時間も遅うございましたし、深夜に王女様をお騒がせするのは、畏れ多く」

 半分は本当のことだ。真夜中近いあんな時間に、王女の寝室近くをうろついていて、もし衛兵にでも見つかったら、俺の首はあっさりと胴から離れてしまうだろう。幸い、王女はそれ以上しつこく追求しなかった。

「王は何をたくらんでるんだ?」

 俺が昨夜のテセウスと王の会話を話すと、王女は楽しそうに笑った。

「あの古狐、そんないい手を考えたのか。何か裏があるとは思ったんだ。それで、王はお前に何を命じた?」

「テセウスと、将軍の動向に気を配れ、と」

「ふん。何か気のついたことがあるか?」

 俺は今朝、練兵場に行ったこと、そこで見聞きしたことを話した。王女は額に皺を寄せて考え込んだ。

「その、若いやつらからは目を離すな。何を考えているのか、探り出せ。それから」

と、王女は急に恐ろしい目をした。

「お前、ダイダロスのことは王に話さなかっただろうな?」

 俺は必死で首を振った。

「よし。じゃあ、最初の仕事だ。これをダイダロスに届けてくれ」

 王女は懐から皮の袋を取り出して俺に渡した。ずっしりと重い。

「王には気をつけろ。見つかるなよ。行け」

 俺は低頭して、王女の前から逃げ出した。

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