第二章 モンキー・ファーザー

 三月の終わりだった。

 歓送迎会のシーズンでもあり、さらに金曜日ということもあって、飲屋街は早い時間からだいぶ賑わっていた。琥珀亭もカウンター席はほとんど埋まり、ボックス席を楽しげな若い集団が陣取っている。


 まだ七時だっていうのに、忙しないもんだ。オーナーの真輝とマスターの尊が休む間もなく体を動かしていた。大勢の声が飛び交い、店内のBGMなんかほとんど意味をなしていない。


 そんな中、また一人、ドアの呼び鈴を鳴らした。


「いらっしゃいませ。お一人ですか?」


 真輝がにこやかに挨拶すると、入ってきた男が店内を一目見て、「えぇ」とおずおず言った。


「でも、満席みたいですね」


 遠慮がちに立ち尽くす男に、尊が声をかける。


「大丈夫ですよ。こちらのカウンターでよければ、どうぞ」


 彼は振り返り、私に目配せをした。『お凛さんの左隣に案内しますからね』という意味だろう。カウンターで空いている席はそこしかなかったからね。もちろん、私は隣に誰が座ろうと構わない。快くグラスをそっと右に寄せた。


 男はどことなくほっとした顔になり、「それじゃ」と歩み寄ってきた。

 そのとき、私は彼の歩き方を見て、「おや」と違和感を覚えた。足を動かすとき、不自然に体が跳ねるのだ。どうも左足をかばっているようだ。

 彼は真輝に上着を預け、私の隣にある椅子を引いた。


「お邪魔します」


 両隣に声をかけ、なんども頭を下げながら、腰を落ち着けた。

 彼は手をもみ合わせ、おしぼりを受け取った後に言う。


「いやぁ、空いていて良かったです。どうしても今夜は飲みたくて」


 そう言う男は落ち着かない様子だった。なんとなく身の置き所がないような、ちょっと心細い感じだ。


「何度かお目にかかってますね」


 私は気さくに話しかけた。彼が独りで黙って飲みたければ「いやぁ、良かった」なんて口にせず黙ってオーダーするだろう。今夜の彼には話し相手が必要なんだろうと、ふんだのさ。


 彼は何度もここに足を運んでいる客の一人で、話こそしないが、会えば会釈するほどには顔見知りだった。

 話をしなかった理由は簡単。向こうがいつも会社の人たちと飲みに来ていて、私と話す必要もなかったのさ。男も穏やかな笑みを浮かべた。


「えぇ、こうしてお話させてもらうのは初めてですね」


「今日は一人で?」


「はい。どうしても飲みたくて」


 そこで尊が「何になさいましょう?」とオーダーを訊きにきた。

 彼はしばらくの間、カウンターの後ろに並ぶ酒瓶に視線を泳がせていたが、ふと目を細めて言う。


「すみません......いつもので」


「かしこまりました」


 しばらくして出てきたのは『グレンフィディック』というウイスキーのロックだ。


「馬鹿の一つ覚えなんですけど、いつも同じものなんですよ」


「私と同類ですね。私もいつも同じコレです」


 にやりとして、メーカーズマークのグラスを持ち上げた。


「馬鹿の一つ覚えもいいもんですよね」


 なんだかちょっと嬉しくなって、私はグラスを差し出して乾杯を促した。


「あ、こいつはどうも」


 彼はぺこぺこ頭を下げてグラスを鳴らした。そんな彼の様子を見ながら、『さてはて、今夜の酒はどんな後味になるのかね』とにやついてしまった。


 男はグレンフィディックを飲むと、軽く一息ついた。


「煙草を吸ってもいいですかね?」


 私が断りを入れると、彼は「あ、どうぞ、どうぞ」と何度も頷く。人当たりが良い男だ。けど、ちょっと腰が低すぎるね。


「いつもは会社の方といらしてたように思いますが、今夜は独りなんて珍しいですね」


 何気ない言葉のつもりだったが、彼は弾かれたように顔を上げた。何か悪いことでも言っただろうかと訝しんでいると、彼がしんみりとした様子でこう言った。


「はい。実は今日で私、退職なんですよ」


「へぇ、それはそれは。何年くらい勤務されてたんですか?」


「中途採用だったんで30年になりますか」


「そいつぁ、たいしたもんだ」


 ハイライトの煙を吹き出す私が目を見張ると、彼はとんでもないと言いたげに手を横に振った。


「いえいえ、がむしゃらにやってきたら、あっという間でした」


 男は乾いた笑いを浮かべて、琥珀色の液体を呑み込む。


「最後の日は、絶対にここで飲むんだって決めてたんですよ。頑張った自分にご褒美のつもりで、思いっきり高い酒を飲もうって。自分の勤務年数にちなんで『響』の30年あたりでも」


 そこまで言うと、男はくしゃっと顔を崩して苦笑いする。


「でも、駄目ですねぇ。そんな大層なお酒は恐れ多過ぎて。俺にはやっぱり、これでいいんです」


「何故、グレンフィディックばかり飲むんです?」


 私は彼の前に置かれた緑色のボトルを指差した。グレンフィディックは世界で初めてシングルモルトウイスキーとして売り出された酒だ。そして、今では世界で最も飲まれているシングルモルトウイスキーでもある。最初の一滴が生まれたのはクリスマスの朝だっていうんだから、ロマンチックなもんだ。

 そのボトルにある、鹿の絵のラベルを、彼は懐かしそうに見つめた。


「入社したばかりの頃、上司が飲ませてくれたウイスキーです。それ以来、初心を忘れないようにこいつばかり飲むようにしてたんですよ」


 男はそう言うと、ふっと白昼夢でも見たような顔になった。


「あの頃から私はがむしゃらでした。走って、走って、がむしゃらに駆け抜けて、終わってみれば呆気ないもんです。もう、抜け殻になった気分です」


 すると、傍にいて話を聞いていた真輝が励ますように言った。


「何を言ってるんですか。これからじゃないですか。ご自分の時間を自由に使えるでしょうに」


「いえ、それがどうも私は無趣味なもんで。妻は旅行が好きなんですが、私は一緒には行けないんです」


「どうしてです?」


「実は膝が悪くて」


 彼は苦笑いしながら、足をさする。


「職業病みたいなもんなんですけど、あちこち走り回る仕事だったもんですから。再就職も辛い有様でしてね。家でゆっくりしようにも、何をしていいかわからないんです」


 はぁ、それであんな歩き方をしてた訳だ。


「仕事ばかりの父親でしたから、一人娘もろくに口をきいてくれませんしね。もっぱら、家内と娘が一緒に旅行に出て、私は留守番です」


「まぁ、そんなご家庭も多いでしょうよ」


「そうですかねぇ。実は、その娘にも結婚が決まりそうなんですが、あいつが家を出たら家内と二人きりなんです。家内とろくに会話もしないで今まで過ごしてきたのに、ですよ。どうしていいかわからないんですよ」


「どこの父親もそんなもんかもしれませんよ」


 私は慰めるように言うが、彼は首を横に振った。


「いえいえ、自業自得です。良い父親ではなかったでしょうから。仕事がなくなってしまったら、何をして過ごせばいいかもわからないような、つまらない男ですよ。本当に仕事しかなかったんだなぁと思い知ります」


 なるほど、燃え尽きちまって、胸にぽっかり穴が空いているってわけだ。


「せめて、この体さえ動けばって恨めしい気持ちにもなりますけどね。歳も歳ですから」


「おやおや、ここにもっと年上のお婆ちゃんがいるのに、そんなこと言っちゃいけませんよ」


 私は高笑いし、男にこう提案した。


「私から退職祝いを贈りたいんですが、よろしいですかね?」


 まぁ、気まぐれとちょっとの同情ってやつだ。

 会社の送別会はとっくに終わってるだろうが、家にまっすぐ帰らないところを見ると、家族からお祝いされる予定もないらしいからね。


「真輝、私からこの方に『モンキーショルダー』をロックで」


「かしこまりました」


「すみません、そんな......」


 遠慮する男に、私がにやりとする。


「なに、見知らぬ顔でもあるまいし」


 出てきたのは、ベージュ色のラベルが張っているボトルだった。ラベルの右上に並んだ三匹の猿が張り付いているのが特徴だ。


「ほう、これは変わってますな」


 男が物珍しそうに呟いた。


「この『モンキーショルダー』はスコッチなんですがね。ヴァッテド・モルトといって......」


 つい蘊蓄を披露しそうになったが、祝いの酒でくどくど説明するのも野暮かと思い、口をつぐんだ。


「まぁ、簡単に言えば、この酒には三つの蒸留所のモルトが混ざっているんです」


 私は男の手元のグラスを顎で指した。


「あなたが今飲んでいるグレンフィディックも使われています。きっと気に入ると思いますがね」


「ほう、それはそれは」


 男は嬉しそうに「では、ごちそうになります」と礼を言いながら私とグラスを鳴らした。一口含み、彼は唸る。


「うん、こいつぁ美味い。ところで、この猿は一体、何なんです?」


「こいつはね、ウイスキー職人の勲章ですよ」


 私は男ににやりとする。まぁ、これから話すことは琥珀亭の先代からの受け売りだがね。


「モンキーショルダーってのは職業病のことなんですよ」


 こう言ってから、私はウイスキーの製造方法をおおまかに説明した。

 ウイスキーを作るために大麦を乾燥させる方法の一つに『フロアモルティング』というのがある。ウイスキーの原料である大麦をコンクリート製の床に薄く広げるんだ。発芽させて麦芽にするためさ。均一な発芽のための温度管理と酸素供給のためにシャベルで大麦を混ぜ合わせなきゃならない、大変な作業だ。


「フロアモルティングは、今でも少数の蒸留所で続けられているんですが、この作業をすると肩が痛むんだね。その職業病を『モンキーショルダー』と呼んだんですよ」


 そう言うと、真輝がにっこり微笑んで口を挟んだ。


「こういう作業員の労力なくては、私たちはこの琥珀色の甘露も味わえないってわけですね」


「そういうこと」


 私はグラスを掲げ、琥珀色の液体を照明に透かした。この一滴一滴を作るためにどれほどの人々が苦心していることか。そう思うと、ありがたいったらありゃしない。

 説明を聞き終わると、男は「はぁ」と頷いた。


「なるほどねぇ。それでウイスキー職人の勲章ですか」


 私はふっと、男に笑顔を向けた。


「だからね、あんたのモンキーショルダーはその膝だ。立派な勲章だよ、それは。『これからじっくり労ってやるんだね』っていう意味の、お婆ちゃんからのお節介な励ましの一杯だよ」


 男は愉快そうに笑ったが、ふとボトルの猿をそっと撫でた。


「そんな大層なものじゃありません。それに私の場合、同じ猿でも『見ざる、言わざる、聞かざる』ですよ」


「日光東照宮の?」


 三匹の猿がそれぞれ目と口と耳を押さえているのを思い出し、私は笑う。


「まぁ、三匹の猿といえば真っ先にアレを思い出す人もいるでしょうね」


「私は会社でも家庭でもそうでした。都合の悪いことは見ない振りをし、余計な事は言わず、聞きたくないことは耳を塞いで」


 彼は背を丸め、惨めったらしく呟いた。


「そのおかげで波風は立たなくても、いざ退職になると呆気ないものだし、家庭では独りになってしまった」


 そして、彼はぼんやりと宙を見る。


「これで良かったのかなぁ。俺には何が残ったんだろう?」


 やれやれ、まったく呆れたもんだ。どこまでマイナス思考なんだかね。


「まったく、しゃきっとしなよ」


 思わずいつもの口調になってしまったが、私は構わずに続けた。


「あの日光東照宮の猿はそういう意味じゃない。三猿はね、非礼なもの、悪いものに対して『見るな、話すな、聞くな』って言ってるんだよ。都合の悪いことを避けろって言ってるんじゃないだろうさ」


 男はやや驚いたようだが、やがて虚しく笑う。


「そうでしたか。それじゃあ、私は三匹の猿にますます似つかわしくない」


「でもね、あんたの膝は間違いなく、仕事を一生懸命こなして家庭を支えてきた証なんだ。胸を張っていればいいよ」


 励ます私に、彼は「そうでしょうか」と力なく肩を落とした。


「そうさ。帰って、奥さんとこれからどう過ごすか話し合うといいよ。今まで仕事一筋で省みなかったことだって、これからはたっぷり向き合っていく時間があるんだからね」


 男はふふ、と笑う。


「なんだか、あなたはうちのお袋に似ていますよ」


「お凛さんでいいよ。手のかかる息子と孫がいるからね、もう息子はいらないよ。これ以上はたくさんだ」


 男がカラカラと笑った。少しは気が楽になったような顔をしているのに、安堵する。


「お祝いのつもりがとんだ説教になっちまってすまないね。これ以上くよくよするんじゃないよ。私が欲しいのは息子じゃなくて、良い飲み仲間さ」


「ははは、肝に銘じます。これからは私も独りでここに来るでしょうから、お相手していただけますかな?」


「もちろんだ。名前をきいていいかい?」


「藤田といいます」


「それじゃ、お節介ババアで良ければよろしくな」


「はい」


 藤田はにっこり微笑んだ。そして、噛みしめるように、こう言った。


「どうも私、老後の楽しみが出来たようです」


 私と藤田が二杯目に手をつけているとき、琥珀亭の電話が鳴った。真輝が「ありがとうございます、琥珀亭でございます」とにこやかに出る。


「......え? えぇ、えぇ。はい。少々お待ちください」


 真輝は保留にした子機を持って、こちらに歩み寄った。


「藤田さん、奥様からお電話です」


「私に? 家内から?」


 藤田が目を丸くする。


「どうしてここにいるってわかったんだろう?」


 藤田が首を傾げながら「もしもし」と電話に出ると、隣にいる私にも聞こえる大声がした。


「もう、あなたったらいつまで飲み歩くつもりなんです? 携帯にも出ないで、まったく! 早く帰ってらっしゃい!」


「しかし、お前、どうしてここがわかったんだい? それに電話番号も......」


「電話帳に載ってますよ、番号くらい。第一、あなた、朝に『今日は一杯だけ飲んでくるから』ってご自分で仰ったんじゃありませんか。他にあなたが知ってるお店、ないでしょう」


「あぁ、そうか」


「今日はユキも仕事を早く終わらせて帰ってきてるんですよ」


「そうなのか。わかった、わかったよ。今帰る」


「本当にもう、最後の出勤日くらい、まっすぐ帰ってきたらどうです?」


「あぁ。......なぁ、お前」


「なんです?」


「いろいろ......すまなかったね」


「......もう、なんですか。そういうのはお祝いが終わってからですよ」


 藤田は電話を切り、真輝に手渡しながら言った。


「すみません。お会計を」


 そして、私のほうを向いて眉尻を下げた。


「どうやら、私には三匹の猿になるチャンスがまだあるようです」


「あんたはもう、立派な三匹の猿だってさっきから言ってるじゃないか。早くお帰りよ」


「はい。......本当にお凛さんと話していると、死んだお袋と話しているようで懐かしいです」


 藤田はちょっと目をうるませていたが、私は見ない振りをした。


「私をお袋だと思うなら、元気に笑っておくれ」


 それ以来、藤田は一人でちょくちょく琥珀亭に顔を出すようになった。日によってはちょっと膝をひきずるときもあるが、それ以外は元気そうだ。


「今度ね、病院でヒアルロン酸注射ってのをすることになって。それで膝が良くなれば、少しは旅行もできそうです。家内がバリ島に行きたがっててね」


 嬉しそうに話す藤田の手元には『モンキーショルダー』がある。

 彼はあの日から『グレンフィディック』を飲まなくなった。あれは会社にいる間、初心を忘れないための儀式のようなものだったらしい。


「そうかい、そいつは良かった。ところで次は何を飲む?」


「じゃあ、今度は『余市』でも飲んでみようかな」


 彼は必ず一杯目は『モンキーショルダー』を飲むが、二杯目からはまだ飲んだことのない酒を選んだ。まるで、今まで他の酒に見向きもしなかったのを必死に巻き返そうとするかのように、店中の酒を制覇する勢いだ。それが、あの日見つけた藤田の老後の楽しみらしい。


「良い選択だ」


 私はふふんと鼻を鳴らす。


「今夜は私も付き合おうかね」


「珍しいですね、お凛さんがメーカーズマーク以外の酒を飲むなんて」


「まぁ、たまには一緒に同じ酒を飲むのもいいだろう?」


 藤田は謙虚なのはそのままだが、退職したあの日から比べると、前より生き生きして見える。白い歯を見せて笑うことが日に日に増えていくようだ。

来月には一人娘の結婚式も控えているらしい。


 私は自分の息子を思い出していた。小料理屋の板前をしている息子は必死で店を切り盛りする毎日だ。

 あいつには定年はないけれど、他に見向きもせず駆け抜けるように仕事をしてる。かつての藤田のように。


 いつか、あいつもあんな風に燃え尽きる時が来るのかねぇ?


 私は「ふん」と鼻で笑う。まぁ、そのときは私もこの世にいないだろう。

だが、琥珀亭の誰かが息子にも『モンキーショルダー』を飲ませてくれるさ。


 まだそのときではない。それだけのこと。まだあいつは燃え尽きちゃいないからね。


 モンキーショルダーのボトルから、猿たちの笑い声が聞こえた気がした。

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