第十二章 その女、レッド・スパークル

 琥珀亭に客が出入りする様を見ていると、常連といえるのは何人くらいいるんだろうと気になることがある。まぁ、指折数える気にもなれないがね。パッと思いつくだけでも両手の指じゃ足りないくらいだから。


 その中でも私が一番親しいのは志帆だろう。

 さきほど琥珀亭にぶらりとやって来た彼女は、当然のように私の隣に座っていた。

 一度も染めたことのない黒髪を前下がりのショートにし、薄化粧をしている。可愛い顔をしているが、とびっきりってほどでもない。だが、魅力的なんだ。飄々とした性格と持ち前のウィットがそうさせるのかね。


「お凛さん、久しぶりだね」


 この子は確か孫の恋人である千里と同い年だったはずだが、世代の違いなどもろともせず、何故か私に懐いている。私も悪い気はしないが。


「そうだね。志帆はどうしてたんだい?」


 メーカーズマークを持ち上げながら訊くと、彼女は丁寧におしぼりを畳み始めた。


「風邪ひいてて寝込んでたのよね」


「おやまぁ」


 一見すると健康そうなんだが、実は体が弱い。


「もう大丈夫なのかい?」


「多分ね。でも、ここでアルコール消毒していくから平気よ」


 志帆が快活に笑った。こうしてサラリと冗談にしてしまうのは、心配されたことへの照れ隠しなんだろうけどね。

 尊が笑みをこぼしながら、志帆に話しかけた。


「志帆ちゃん、今日は何にする?」


 週に二度は現れる志帆は、すっかり尊の妹分だ。


「タリスカー、ハーフ・ロックで」


 志帆と私が意気投合した理由はコレ。彼女もウイスキー好きなんだよ。

 しかし、そのオーダーを耳にした尊の笑顔に少しの影がさしたのを私は見逃さなかった。

 タリスカーは『宝島』の著者であるロバート・ルイス・スチーブンソンに『King of Drinks(酒の王様)』と評されたこともある、世界中で愛飲されているシングルモルトだ。


 そして、この酒は真輝の初婚の相手のお気に入りだった。

 尊はタリスカーのオーダーを受けるたび、切なさを纏う。

 それは初婚の相手への嫉妬とかそういう安易なものじゃない。ただ、どうしてもよぎるんだろうね。

 志帆もこのウイスキーを好むから、週に何度もタリスカーをオーダーされているが、そのたびに尊は同じ顔をするんだ。けれど、一見すると普段の笑みと変わらない。真輝と私くらいしか見抜けないだろうね。


 出されたタリスカーを掲げ、志帆が私に向けた。


「乾杯」


 私たちはグラスを近づけるが鳴らさずに乾杯をした。

 グラスをカチンと鳴らすのは気持ちいいんだが、あれをするとグラスがダメージを受けるんだ。それを知らない人と乾杯するときは私も鳴らすが、志帆とはしない。志帆はそのことを知っていて、琥珀亭のグラスを傷めないように気をつけているからだ。


 何故、志帆がそんなことを知っているかと言うと、話は簡単。この子はバル『エル ドミンゴ』のオーナーである暁の弟子なんだ。暁は琥珀亭の弟子だった男だから、孫弟子にあたるかね。


「あのね、お凛さん」


 志帆が美味そうにタリスカーを味わいながら、珍しく歯切れの悪い声を上げた。


「なんだい」


 きょとんとしていると、志帆の顔がちょっと寄せられる。


「私ね『エル ドミンゴ』辞めようと思ってるんだけど」


 おやおや、こりゃ今夜は面倒なことになりそうだ。


「なんでまた? お前、カクテル覚えるの楽しいって言ってたじゃないか」


 志帆が暁に弟子入りしたのは一年くらい前だったと思う。こいつも尊と同じ口で、大学を卒業してからアルバイトしながら暮らしてたんだ。そこを暁にスカウトされたんだと記憶しているが......。


「何か店に不満があるのかい?」


「ううん」


 志帆が困ったように笑う。


「客に嫌なことでもされたとか?」


「それも違うの」


「なんだい、はっきり言いなよ。志帆らしくないね」


 呆れて言うと、彼女は「そうなの」としおれてしまう。


「私らしくないのよ」


 ......本当にらしくない。いつもは毅然とした態度で無邪気なくらい明け透けなんだが。


 私は、次いで出た志帆の言葉に更に驚くことになる。


「私......暁さんのこと好きみたいで」


 思わずメーカーズマークを盛大に吹くところだったよ、私は。ため息をつき、志帆は頬杖をついた。


「他人の恋愛相談なら簡単に捌けるのに、自分のことになると駄目ね。私ってさ、恋愛相談されることが多いの。なんでかわかる?」


「頼りになるんじゃないのかい?」


「違うわよ。他人事なの」


 しれっと言う志帆が、悪戯っぽく笑う。


「客観的だからよ。でも、主観が入る自分の恋はからきし苦手」


 そう言いながら、彼女は姿勢を正した。その拍子に、右の耳たぶに光る三つのピアスがライトで煌めく。左耳には四つもあるんだから、私には気が知れない。しかもそのうち一つは軟骨にだよ、まったく。


「仕事と私情は別なんて言うけど、無理。目で追っちゃうし、意識しちゃうし、それに......」


「それに?」


 志帆はぐっと言葉に詰まった後、少し気恥ずかしそうに俯く。やがて、蚊の鳴くような声でこう呟いた。


「......嫉妬しちゃうし」


 私は思わず噴き出してしまった。


「なんで笑うのよ?」


 恨めしそうな志帆を見て、慌てて笑いを噛み殺す。


「いや、すまん。こんな志帆は初めてだね」


 この子は本来、器用なんだ。相手の雰囲気に馴染むのが上手いというか、空気が読めるというのかね。どんな分野の話でもうまく盛り上げて相手を楽しませてしまう。たとええげつない下ネタでも、爽やかな笑いに変えてしまうんだから舌を巻く。そういうところも暁がスカウトした理由の一つなんだろうけど。


 それがどうだろう。

 あの男一人のせいで、すっかり不器用な女の子だ。

 器用は器用でも賢いだけで、決して『器用貧乏』とは思ってなかったが当たっていたらしい。少なくとも、恋愛に関しては不器用みたいだからね。


「お凛さん、本当はね」


 彼女は遠くで他の客と話す真輝を盗み見てから、私に囁いた。


「本当はここに初めて来たのだって、真輝さんを見たくて来たんだから」


 真輝は暁の高校時代からの想い人だ。真輝の初婚の相手は暁の親友だったが、彼はその後も想いを捨てなかった。ただ、尊と再婚したときには吹っ切れていたように思ったが。

 志帆がライバルの偵察に来ていたとは、思いもよらなかった。


「へぇ、じゃあ結構前から好きだったんじゃないか。お前がここに通い始めて、半年にはなるかな」


「まぁね」


「お前がそんな思いで来ていたとは知らなかったな。それで、真輝はどういう風に映ったんだい?」


「悔しかったわ。太刀打ちできないと思った」


 正直に言う志帆は、どこか乾いた笑いを浮かべた。


「おまけに私まで真輝さんを好きになっちゃったもんだから、質が悪い」


「はは」と思わず笑う。

 おっとりしてそうな真輝は、意外と芯が強い。このハキハキした娘と相性が良いのはわかりきったことだ。それに何より......。


「お前はどこか尊に似てるから」


「そう?」


 きょとんとする志帆に右の眉を吊り上げて見せた。


「私が気に入ってるんだから、違いないよ」


「......ありがと」


 はにかむ横顔が、とても綺麗だ。この子は可愛い顔のくせに、時々ハッとするほど綺麗な表情をする。


 ......あぁ、恋をしているからか。


 今更ながら腑に落ちて、笑ってしまった。

 私は尊に手招きをする。


「志帆になんかカクテル作ってくれないかい? こう、スパーンと弾ける感じの」


「なんですか、そのスパーンってオノマトペは」


 苦笑する尊が、志帆に向かって「ねぇ?」と同意を求める。ケラケラ笑う志帆に、尊が目元を和らげた。


「まぁ、志帆ちゃんにぴったりのカクテルあるから、ちょっと待ってて」


 そう言うと彼は、身を乗り出して私たちにだけ聞こえるように囁いた。


「恋する女の子に丁度いいカクテルだから」


 志帆が真っ赤になって口を尖らせると、尊が笑いを噛み殺しながらボトルを取り出す。さっきまでの会話をちゃっかり聞いていたらしい。それに、尊は『エル ドミンゴ』の常連でもあるから、志帆の恋心なんてとっくにお見通しだったんだろう。

 

 私は笑いを噛み殺しながら、尊が取り出した幾つものボトルを眺める。取り出したのはジン、カンパリ、カシス、サザンカンフォート、レモン・ジュース......。おやおや、可愛い妹分のために、随分と手間をかけてくれるらしい。


 尊はそれらを素早くシェイクすると、氷を入れたコリンズ・グラスに入れた。そこにトニック・ウォーターを注ぎ足すと、透明感のある赤がグラスを満たす。まるでフラメンコや闘牛を思い起こさせるような鮮烈な赤だった。


 見惚れている私たちの目の前で、尊が器用にグラスの縁にレモン、オレンジ、ライムのスライスを飾る。その三色がまた一層、赤を際立たせた。


「はい。これね、実はずっと前から志帆ちゃんみたいなカクテルだなって思ってたんだ」


 尊が満面の笑みで差し出しながら、このカクテルは『レッド・スパークル』という名だと明かした。

 このカクテルは帯広の女性バーテンダーの作品らしい。とある大会で優勝した逸品だと蘊蓄を披露したあとで、微笑んだ。


「真っ赤な情熱って感じでしょ」


 志帆が頷き、そっと口をつける。喉を鳴らすと、彼女が満足げに微笑んだ。


「私の好み」


 これは志帆流の最高の褒め言葉だ。彼女は多趣味人間なんだが、その嗜好が分野や流行に左右されない。自分の感性が『良い』と言ったものだけを、彼女は選ぶ。その代わり、ちょっとでも感性とずれていると見向きもしないんだ。


 尊もそこは承知しているせいか、嬉しそうに「ありがとうございます」と礼をした。彼はカウンターに手をつき、優しい笑顔を志帆に向けた。


「スパークルってね、煌めきとか閃光とか火の粉とか、そういう意味なんだよ」


 黙って頷く志帆に、彼は言葉を続けた。


「志帆ちゃんって、胸にいつでも情熱もって駆け抜けてる気がするんだよね。趣味でも仕事でも恋愛でも、情熱を閃光みたいに飛ばしながらさ」


「私、意気地なしよ?」


 志帆が眉尻を下げる。


「彼の前だと、ちっとも上手く立ち回れないの。このままだと店にも迷惑かかる。それは私のプライドが許さないの。お金もらう以上はプロでいたいから」


 彼女の瞳には、切ない光が宿っていた。恋する者独特のね。


「店に来るお客さんに嫉妬するのは我慢できても、真輝さんみたいな人を相手にしてたら、身が持たない。存在が絶対的なんだもの。だから......」


 彼女はふと、目を伏せる。


「苦しいの」


 その伏し目は美しかった。苦悶と憂いだけじゃない。その奥にある恋の閃光が走ったように感じたよ。


「お前、それを暁にぶつけたのかい?」


 私が口を開くと、彼女がぽつりと力なく答えた。


「......言ってない」


「じゃあ、店は辞めるんじゃないよ。あの後ろばかり見てる男にバチバチっと閃光をお見舞いして、目を覚ましてやんな。それで駄目なら辞めるといいさ」


 私が手をパッと開いて豪快に言うと、尊が「あぁ、そっか」と呆然とするように言った。


「今、気づきました。大地の身振りが大きいのって、お凛さんに似たんですね」


「冗談じゃないよ。それは死んだ旦那の遺伝子だよ」


 思わず、三人して笑い出す。

 今頃、孫は琥珀亭の三階にある自分の部屋でくしゃみでもしてるだろう。


 ふと、尊が真面目な顔になって言う。


「ねぇ、志帆ちゃん。俺は君と同じだったからよくわかるつもりだよ」


「え?」


 尊が珍しく、眉を下げて悲しそうな顔をした。


「志帆ちゃん、今の仕事好きだろ?」


「うん」


「じゃあ、逃げちゃ駄目だ」


 尊がゆっくりと、だが優しい声で言う。


「俺も大学卒業してバイトばっかりしてた。けど、この仕事と真輝に出逢ったんだ。打ち込める仕事なんて滅多に見つかるもんじゃない。自分の心をぶつけられる相手も同じ。それが恋愛なら尚更じゃない」


 彼はもっと声を小さくして、こうも言った。


「俺はね、真輝だけじゃなく、最初の旦那さんの影にもぶつかっていったよ。それは難しかったけど、でも......」


 言葉を選びながら、噛み締めるように続ける。


「死んだ旦那がいて、今の真輝があるんだ。暁さんも一緒。だから、ね」


 彼は「頑張って」とは言わなかった。志帆はもう充分に頑張っているからだろう。

 導くけれど、追いつめはしない。いかにも尊らしいと、私は微笑んだ。


 志帆はふっと笑みをこぼした。


「受けて立とうじゃない、先輩」


 いつもの志帆らしい、潔い返事だった。肩から何か重いものがとれた。志帆は、そんな顔をしていた。

 志帆は真っ赤なカクテルを飲み干したあと、晴れ晴れとした顔で帰っていった。

 

「尊、なにか飲みなよ」


 私のわがままをきいてくれたお礼にいっぱいご馳走すると、彼は「ありがとうございます」とにっこりしてグラスに手を伸ばした。酒が弱い彼は仕事中だと頑なにウーロン茶しか飲まない。

 私はハイライトをくゆらせながら、目を細めて尊を見た。


「尊、志帆とあんたはそっくりだね」


「好きな人が誰かを忘れられずにいるって状況がですか?」


 半ば自嘲するような笑みを浮かべる尊に、私は「馬鹿だね」と笑った。


「志帆はね、情熱のまま突っ走る小気味良い子じゃないか」


「はい」


「でも、同時に周りを和ませるんだよ。誰とでもすっと馴染んでしまう」


 私はいつか尊を同じ言葉で評した気がする。......いや、そうしたのは真輝だったかな。


「尊と一緒。包んじまうんだよ、あの子は。そっと傍に居て、追いつめたりできないのさ。暁は無意識にでもそれに甘えてるのさ。ぶつからなきゃ気づきはしないよ。だけど、それにはあの子は優しすぎる」


 それを聞いた尊が苦笑いする。


「いや、俺もぶつかっていきましたけど、結構」


「そうかい、初耳だね」


「ニヤニヤしないでください」


 尊は少し頬を染めて、照れ笑いを浮かべた。


「......なぁ、尊」


 私は紫煙をくゆらせながらつられて笑う。


「暁もそろそろ幸せになって欲しいな」


「大丈夫ですよ。スパークルには才気って意味もあるんです。あの子ならやってのけますよ」


 尊が朗らかに笑う。


「そのうち、暁さんがたじたじになりますよ。嫉妬して苦しむのは、今度は彼の番かも。あの子の閃光は人を惹き付けますから」


 私たちは笑みを交わし合った。


「恋ってのは良いな」


「俺は死ぬまで真輝に恋してますよ」


 しれっと言う尊に、おしぼりを投げてやった。


 いつか、あの二人が揃って琥珀亭に来るかもしれないね。そのとき、志帆はもっと輝いているんだろう。今よりも真っ赤に染まった閃光を散らして、周囲をハッとさせるだろうさ。


 そう思うと、なんとも胸が締め付けられた。

 恋は良いもんだ。それは紛れもなく、人生を彩る煌めきの一つなんだからね。

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