第十三章 ギネスな仕事

 木々の葉が錦の衣を纏って鮮やかな季節だった。その夜の私はカウンターに肘をついて考え事をしていたんだが、不意にこんな言葉をかけられて我に返った。


「はい、頼まれたもの」


 目の前に置かれた白いビニール袋がカサリと音をたてた。いつの間にか、背の高い見知った顔が私をにこやかに見下ろしている。


「こんばんは、お凛さん」


「おや、藍子じゃないか。あんただったのかい」


 藍子は目立たない程度に茶色く染めた髪をきちんと結い上げていて、生真面目な印象の女だ。三十半ばだが、落ち着いた物腰がもう少し彼女を年上に見せていた。


「私が入ってきたことにも気づかないなんて、よほど重大な考え事だったのね」


 まるで私が普段から常に客の出入りを監視しているような言い振りだ。だが、私はそこまで野次馬根性はない。呼び鈴が鳴ったなとは思ったが、いちいち誰か確かめて見るまではしないさ。そう返すと、彼女は一重の目を細めて笑う。


「それは失礼。隣、いい?」


「禁煙しろと説教するつもりなら嫌だね」


「つれないなぁ、お凛さん。せっかくご所望のお薬を渡すために来たのに」


 彼女は近所の薬局に勤める登録販売者だ。

 以前、琥珀亭で居合わせたときに買ってきてほしいと頼んだものを持ってきたらしい。


「あぁ、助かるよ。いくらだい?」


「レシートなら、袋に一緒に入れてあるわ」


 藍子には定期的に肝臓の薬を買って来てくれと頼んでいる。彼女はものぐさな私にそれを月に一度のペースで届けてくれるんだ。


「はいよ。ありがとさん」


 立て替えてもらった代金を支払うと、彼女は「毎度あり」とにっこりしながら財布にしまい込んだ。


「休肝日を作ったほうが、薬に頼るより良いんじゃないの?」


「お前は売上が減ってもいいのかい」


「健康に勝るものはないのよ」


 彼女はピンと姿勢を伸ばしたまま笑う。いつでも毅然とした性格が一番そこに現れていると思う。


「藍子さん、いつものでよろしいですか?」


 カウンターの真輝がにこやかに言うと、彼女は「よろしく」と微笑んだ。


 彼女が好きな酒はギネス。あのまろやかなスタウトが、彼女の定番だ。「温いくらいが美味しいのよ、ビールは」などと言っていたこともある。元々あまりビールを飲まない私には関係ない話だがね。

 真輝がグラスにギネスを注ぐ。サージャーと呼ばれる黒い機械に水を垂らし、グラスを乗せた。すぐにビビビと機械音がし、ぶわっとギネスに泡が生まれていく。


「どうぞ」


 藍子の前にギネスが差し出される。泡はほろほろと落ちて行き、グラスの中であのクリーミーな味わいを生み出していた。

 藍子はじっと泡が完成されるまで待ちながら、煙草に火をつけた。癖のある匂いが私の鼻をくすぐる。


「あんた、薬局勤務のくせにまだ煙草を吸ってるのかい」


 呆れたように言うと、彼女は醒めた顔でぼやいた。


「煙と一緒に吐き出したいものが多過ぎてね」


 まったく、どんな顔で禁煙補助剤を売っているんだか。

 彼女はすっかり泡の整ったギネスを持ち、私に向けた。


「乾杯」


「いつもありがとね」


 藍子はギネスを飲んで「生き返るわ」と、満足そうに煙草をくゆらせ始めた。


「あんたは本当、ヘビースモーカーだね。禁煙パッチを売るときなんかお客にアドバイスもできないんじゃないかい?」


 そうからかうと、彼女は肩をすくめる。


「禁煙パッチは第一類だから薬剤師じゃないと売れないわよ。禁煙ガムは売らなきゃならないから、経験のためにそれで三ヶ月は禁煙したことあるけどね」


 そう言うと、彼女はニッと笑った。


「そもそも禁煙する気ないもの、私は。何事も自分の意志ありきよ」


 いつ会っても小気味良いというか、サッパリしているというか。まぁ、そこが気に入ってるんだがね。

 彼女の話によると、医薬品には、第一類から第三類までの独特な分類があるらしい。第一類医薬品というのはその中でも一番リスクが高く、薬剤師でないと販売できない。

 彼女が売るのは第二類から第三類の医薬品だそうだ。もっとも、それは一般医薬品の九割ほどを扱うことを意味するらしいがね。


「まぁ、いろいろ複雑なわけよ」


 藍子は苦々しく笑う。私は「ふうん」と唸って、彼女が持って来てくれた薬の箱を見る。


「まぁ、でも良いじゃないか。市民の健康に一役かってるんだから、やりがいもあるだろ」


「まぁね」


 彼女はギネスを両手で包むような仕草をし、絹のような舌触りをもたらす泡を見つめた。


「だけどね、なんていうかもどかしくて......ギネスみたいよね」


「何だって?」


 眉根をひそめた私に、彼女は淡々と呟くように言った。


「守秘義務があるから詳しくは言わないけど」


 そう前置きしてから、彼女が話し出す。


「最近、うちの常連さんのお婆さんがね、体調崩して病院に行ったの。それ以来、彼女すっかり痩せちゃってさ。痛々しいくらい」


「大丈夫だったのかい?」


「うん。経過はいいんだけど、本人に食欲がないの」


 彼女はふっと目を伏せて、悲しげな影を漂わせた。


「大好きな常連さんが元気をなくしていくのは、本当に辛いのよ」


 そう言って顔をこちらに向けた彼女は、ちょっと切ない笑みになっていた。


「医者や看護師みたいに直接的に助けられないし、かといって店員と客って枠を飛び越えて手助けすることもできないし」


「ふぅん、そんなもんか」


 私はしげしげと藍子を見やった。彼女は生真面目すぎるのかもしれないね。


「先輩方には怒られそうだけどね。もっとできることあるでしょうって。でも、たまに自分の無力さを思い知るの。医師でも薬剤師でもなく、まして家族でもない自分がお客さんにできることって、何だろう? それに、どこまでできるんだろうって」


 彼女は深いため息を漏らした。


「自分が無力に思えてね。ギネスの泡が落ちるのを見守るみたいに、ただ見てるだけの自分なんじゃないかって、たまらない気持ちになるわ」


 彼女はぼそっと呟く。


「登録販売者としてどこまでできるか、いつも考えてる。医師ほどでなく、家族でもないけれど、自分にも出来ることを」


「結構な心構えじゃないか」


「でもねぇ、たまにふっと立ち止まっちゃうのよ」


 彼女は二本目の煙草に火をつけた。


「私ってためこむタイプなんだけどね、そのせいかもしれない」


 紫煙がくるくると螺旋を描きながら天上に昇る。


「薬局ってね、お客さんの『辛い』『苦しい』『痛い』って話が本当多いの。それは当然なんだけど、私ってそれを自分のことのように蓄積させちゃうのよ。だんだん、ギネスの泡が溜まるようにね」


 彼女はぐいっと手元のギネスを飲み干した。


「......それが嫌だとは思わない。だって、一番辛いのはお客さんだから。だけど、私は胸にたまったそれを吐き出したくなるの。そうでないと気持ちがもたないから」


「あぁ、それで」


 私が納得したように笑う。


「だから、煙と一緒に吐き出すんだね?」


 藍子はいたずらっ子のように笑った。


「ご名答。たまに無心でパチンコしてるときもあるけどね」


「なんでパチンコなのさ」


「機械相手だと何も考えなくて済むから楽な時ってない?」


「まぁ、そういう状況の一つや二つあるが、パチンコは御免だね。騒々しくて耳がどうにかなっちまう」


「ま、それでもこの仕事、良いところもあるのよ。お客さんが治ったときは本当に嬉しいし。わざわざ『治ったよ』なんて言いに来てくれる人ってあまりいないから、余計に嬉しいわ」


 そう言うと、彼女が二杯目のギネスを注文する。

 再び泡が鎮まるのを見つめながら、私は右眉を吊り上げた。


「まぁ、私も同じようなもんだ」


「お凛さんも?」


「あぁ。今までいろんな弟子を見てきたが、目を輝かせて弾き続ける子もいれば、挫折する子もいる。バイオリンなんてもう見たくないなんて言われたこともあるさ」


 メーカーズマークの氷がカラッと崩れた。まるで私の自信のようにね。


「そんなときは自分に何が、どこまで出来るか怖くなる。教えることは難しい。何故かって、受け手が人間だからだ」


 私はじっと藍子の目を見つめてやった。


「人間相手の商売ってのは、そういうもんじゃないか」


「まぁね。だからこそ、たまにパチンコに逃げたくなるの。割り切って、仕事はお金を得るだけの手段って思えれば楽なのかもしれないけど」


「私は御免だね。そうしようと思えばできるけどね。折角の人間相手の商売だ。こうやって悩みながらも突っ走ったほうが退屈しないさ」


 ハイライトに火をつける。とうに慣れたはずの辛さが喉を焼くようだった。


「それに、悩んだほうが人間に深みが出ると信じてるからね、私は」


「難儀な人ね」


 藍子が呆れたように笑う。「でも、悪くない」とその目が言っていたけれど。


「性分ね」


 藍子が諦めたように笑った。


「ギネスみたいな仕事だからこそ、ギネス好きの私には合ってるのかもね」


 そして、彼女は眉尻を下げた。


「まぁ、こんなうじうじ悩んでる時点でとんだ甘ちゃんの未熟者なんでしょうけど」


「いいじゃないか。完成された人間なんて、いるもんか」


「私、お凛さんのそういうところ、好きよ」


 彼女はギネスを差し出す。私はニッと口の端をつり上げ、二度目の乾杯をした。


「今度、あんたのいる薬局に行くよ」


「別に来なくていいわよ。薬なら、また持って来るから」


「いや、遠慮してるんじゃないよ。ただ、あんたの仕事っぷりが見たくなったんだ」


 それを聞いた藍子は照れたように笑っていた。

 

 人間ってのは可愛いもんだと思う。

 生きるか死ぬかって大それたことじゃない。だけど、目の前の出来事に一喜一憂して、悩んで、もがいて、叫んでる。そういうとき、私は生きてるんだなって思うよ。同時に、もっとその実感を味わっていたいと願う。


 私は生きることが好きなんだ。

 帰り際、彼女はこう言いながら手を振った。


「じゃあ、お凛さん、季節の変わり目だから気をつけて。体を冷やさないでね」


 いかにも薬局勤務らしい言葉に、私は苦笑した。なんだかんだ言って、こいつは自分の仕事が好きなのさ。


「平気だよ。平熱は高いんだ」


「お凛さん、体を冷やすってのはね、漢方の言葉で言い換えると温度が冷えるって意味じゃなく、体が機能しないことに繋がるのよ。ウイスキーは体を冷やすんだから、ほどほどにね」


 藍子が帰った後で、肝臓のための医薬品をちょっと指で小突いた。


「......明日は休肝日にしようかね」


 そう呟くと、真輝が笑う。


「当店にはノンアルコール・カクテルもございますよ」


 なんて、ちゃっかりしたことを言いながらね。


 私は笑うと、メーカーズマークを置いて、真輝おすすめのノンアルコール・カクテルをオーダーした。優しい味がしたよ。


『ずっと、元気でいてくださいね』


 そんな真輝のメッセージを見た気がしたね。

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