第十四章 スウィート・ホット・アルコホリック

 もうそろそろ雪が降るかもしれないね。

 ぶるっと身震いしながら私はメーカーズマークを空にした。なんだか今夜は底冷えする。


 そこへ琥珀亭の扉が開いて、呼び鈴が鳴った。入って来たのは若い女だった。寒さにかじかんでいるのだろう、耳と鼻がちょっと赤い。


「沙耶さん!」


 真輝がパッと顔を明るくさせた。待ち人来たる。その顔がそう言っていた。


「もしかして出来たんですか?」


 何がだろうと首を傾げていると、沙耶が大きなトートバッグを掲げて照れたように笑った。


「うん、まぁ、試作品なんだけど」


 尊が席に促し、沙耶は私の隣に座った。

 どこかで見た顔だと思いながら横目で様子をうかがっていると、彼女はバッグから小さなケーキの箱を取り出した。


「これ、今日の売れ残りで悪いんだけど差し入れです」


「わぁ、嬉しい! ありがとう、沙耶さん」


 痩せの大食いの真輝が目をキラキラさせた。この子はどちらかというと甘党だからね。

 ケーキの箱には『ラ・ボエーム』と店名があった。あぁ、そうか。私は人知れず頷いた。

 彼女は近所のケーキ屋の娘だ。確か製菓学校を出て、店の手伝いをしているはずだった。『ラ・ボエーム』と聞いて私がまず思い出すのはオペラだがね。タイトルは自由に囚われない生き方をする『ボヘミアン』のことだ。考えてみれば、あのケーキ屋も野菜のケーキを作ったり、塩麹のデザートを出してみたり、枠に囚われないって話だからね。なんとなく、その店名に納得したよ。


 沙耶は丸い顔をした優しげな女だった。彼女は耳に心地いい声で、真輝にこう言った。


「気に入ってもらえるといいんだけど、幾つか用意してきたわ」


 そして彼女はトートバッグからタッパーを取り出した。子どものようにワクワクした顔で、真輝がそれを見つめている。


 さてはて、今夜は一体何が起こるのかね? 私も興味津々でその光景を見ていた。

 沙耶が取り出したタッパーを開けてカウンターに広げていく。


 中から出て来たのは色とりどりのお菓子。小さいケーキやクッキーにショコラ・オランジェもある。マシュマロやナッツ、ドライフルーツが入っているらしいガナッシュ。それに、スライスした桃を重ねて薔薇のように見せた物が沈むゼリー。あっという間にカウンターが華々しい雰囲気になった。


「これは凄いですね」


 真輝と尊が顔を見合わせて微笑んだ。


「お凛さん、これ何だかわかります?」


 尊がにこやかに問いかけてきた。


「お菓子だろ」


 きょとんとしていると、尊がもったいぶるように、ゆっくり言った。


「ただのお菓子じゃありませんよ。琥珀亭新メニュー、お酒を使ったお菓子の試作品です」


「へぇ。なるほどね」


 身を乗り出して見ていると、沙耶が私に微笑んだ。


「もしかして『アンバータイム』の先生じゃないですか?」


「あぁ、そうだが......先生ってのは止めておくれ。お凛さんでいいから」


 苦笑いすると、彼女は律儀に頭を垂れる。


「私、『ラ・ボエーム』の娘で沙耶と申します。いつも大地君と千里ちゃんがうちのケーキを御贔屓にしてくれまして。ありがとうございます」


 私は孫とその彼女を思い出して、ふっと笑う。


「あの二人は大の甘党だからね。こちらこそ、いつも孫たちが世話になってます」


「よかったら、お凛さんも試食してみてください」


 沙耶が言うや否や、真輝が取り皿にお菓子を乗せ始めた。


「沙耶さんとずっと前に話してたんですよ。お酒を使ったお菓子を琥珀亭とラ・ボエームで一緒に作ってみたいねって」


 真輝がそう言って、甘いものが盛りだくさんの取り皿を渡してくれた。

 こりゃ、飲み物がいるね。嫌いでもないが、さして甘党ではない私は空っぽのグラスにメーカーズマークを足してもらった。


「うん、これはウイスキーにも合いそうだ」


 私はショコラ・オランジェをつまんで、機嫌が良くなった。


「こっちのゼリーにはデカイパーを使ってみたんです。これはブランデーで、そっちにはラムで......」


 沙耶が指差しながら真輝に使用した酒の説明をしている。尊がその間、私に一本のボトルを見せてくれた。


「ことの始まりはこのお酒なんですよ」


 目の前に置かれたのは、丸みを帯びたボトルだった。可愛らしい木製のキャップで、透明なボトルには『マッカラン アンバー』の文字とメープルの葉。


「マッカランかい?」


 マッカランは『シングルモルトのロールスロイス』と異名をとるウイスキーの蒸留所の名前。いかにも優等生って感じのきっちりしたウイスキーだ。だが、このボトルは初めて見るものだった。


「これ、ウイスキーじゃありませんよ」


 尊が苦笑いする。


「実はこれ、リキュールなんです。ずいぶん昔に終売になってますけどね」


「マッカランがリキュールを出してたとはね」


 驚くと、彼が頷いた。


「マッカランの原酒にメープル・シロップやピーカン・ナッツを加えて作ってあるそうですよ」


「こいつぁ、ミルクに混ぜて......って言いたいところだが、やっぱりカナディアン・ウイスキーと混ぜて飲みたいね」


「お凛さんなら、そう言うと思いました」


 尊が笑った。


「それでね、その話を沙耶さんがいるときにしたら、お菓子に使えないかなってことになって」


「あぁ、それでお互いの店で出してみようってことになったのかい」


「はい。なんか地元ぐるみで何かやれたら楽しいでしょ。それに意外と甘党の酒好きって多いんですよね」


 尊がそう言いながら、ガナッシュをつまむ。


「やべぇ、これうめぇ」


 やべぇの意味がわからないが、彼の顔がとろけているのに笑ってしまった。


「沙耶さん、せっかくだから何か飲んでいってよ。試作品を作ってくれたお礼にごちそうするから。ケーキもいただいちゃったしね」


 尊が言うと、沙耶は「いいの?」とはにかんだ。


「今日は寒いから、ホット・ドリンクスなんてどう?」


 彼の提案に、沙耶が目を丸くする。


「ホット? 熱いカクテルなんてあるの?」


「勿論だよ」


「カクテルって冷たいものかと思ってたわ」


「じゃあ、試しに飲んでみなよ。あったまるよ」


 彼はそう言って、薬缶を火にかけた。カップを沸いたお湯で温めている間に生クリームを混ぜている。コーヒーをドリップで落とし、赤ザラメとアイリッシュ・ウイスキーを入れてステアした。最後に軽くホイップされた生クリームが浮かべられる。


「はい、どうぞ。『アイリッシュ・コーヒー』です」


「お酒じゃないみたい」


小さな歓声を上げ、彼女はそっと口をつけた。


「美味しい! コーヒーとお酒って合うんですね。ウイスキーですか?」


「名前が『アイリッシュ』ですからね」


 尊が笑いながら、ジェイムソンというアイリッシュ・ウイスキーのボトルを小突いた。


「面白いんですよ。お酒を変えると、名前が変わるんです」


 アクアビットを入れるとスカンジナビアン・コーヒー。

 ベネディクトンだとモンクス・コーヒー。

 カルバドスだとノルマンディ・コーヒー。

 コニャックだとロイヤル・コーヒー。

 キルシュだとジャーマン・コーヒー。

 同じウイスキーでもスコッチを入れるとゲーリック・コーヒー。


 すらすらと述べる尊に、真輝が呆れたような顔をした。


「尊ったら、もうすっかり職業病ね」


「良いじゃないか。やっとマニアックになれるものが見つかったんだから」


 尊が妻に口を尖らせると、沙耶が笑みをこぼした。


「カクテルってだから面白いですね。いろいろ混ぜるものだから、枠に囚われないっていうか。うちの店の信条に似ています」


「最近では液体窒素を使うバーテンダーもいるらしいですよ」


「ケーキ屋も同じですよ。オーソドックスなものはもちろんだけど、どんどん新しいケーキが出て来て」


 沙耶がちょっと興奮しながら、熱っぽく語る。


「いろんな文化を融合させるって面白いじゃないですか。自由な感じがするでしょ」


 あぁ、彼女は仕事が好きなんだね。私は意気投合する尊と沙耶を苦笑しながら見ていた。


「まぁ、ケーキ職人としては、うちの父親に敵わないままですけど」


「え? そうなんですか?」


「はい」


 彼女はアイリッシュ・コーヒーの湯気を吹きながら、頷く。


「父は新しいものにも積極的だけど、やっぱりオーソドックスなケーキを大事にしてます。根っこがあるから、枝が伸びるんだってよく言ってますよ」


 思い出した。そう言えば、あの親父が昔から作っているチーズケーキ。あの味はずっと変わらない。


「あの親父さんのチーズケーキは絶品だね」


「ありがとうございます」


 沙耶が眉を下げて礼を言った。


「あの味は私にもまだ出せません。父は引退するときに教えるなんて言うんですよ」


 沙耶がスプーンでホイップクリームをコーヒーに馴染ませている。


「本当は知りたいんですよ。ケーキ職人として、父を越えていきたいと思うんです。だけど、父が言うにはまだ早いとかで。今のお前はまだ、熱にうかされたみたいに自分の好きなケーキを作ってごらんって。根っこの大事さに気づくまでって」


 私はニッとしてケーキ屋の親父を思い出した。あの親父もなかなか面白い、人間味のある奴だ。


「私、まだまだ半人前ですから。でも、それも楽しんでます。なんだか、お酒の虜になっちゃいそうですよ。面白いんだもの」


 沙耶が笑うのを、私はじっと見つめていた。彼女の中に、熱くたぎる物を感じて眩しかった。親子二人三脚で職人をやるってのは、難しいものかもしれない。


 なんだか、脳裏に息子と孫の姿が思い出された。あいつらも将来、小料理屋でこんな風にぶつかったり、刺激しあったり、助け合っていくのかね? 大地はチェロとどう付き合って行くんだろうか?


 ......まったく、ばあちゃんにあまり心配かけないで欲しいもんだよ。

 私は食後の一服をくゆらせながら、ふと、真輝が試作品を口にしていないことに気づいた。


「どうした? 楽しみにしてた割に、食べないのかい?」


「真輝さん、具合でも悪いの?」


 私と沙耶に心配されると、真輝は言葉に詰まっている。


「いや、えっと......」


「......どうしたの?」


 訝しげな沙耶に、真輝の顔が今度は真っ赤になる。


「あの、実は今日わかったんですけど......赤ちゃんができまして」


 私は紫煙をぶうううっと吹き出し、思わず叫ぶ。


「何だって?」


 むせながら、慌てて灰皿にハイライトを押しつけた。


「そんな大事なことは早く言いなよ! 煙草吸っちまったじゃないか!」


 興奮する私の横で、沙耶も「おめでとう」と騒いでいる。尊と真輝が照れたように微笑み合っていた。


「本当はお凛さんには帰り際に言おうと思ってたんですけど」


「なんで最初に言わない」


 むすっとすると、彼女が肩をすくめた。


「散々、からかわれそうだから」


「まったく、どんな目で私を見ているんだい」


 私は苦々しく笑ったが、すぐに右の眉を吊り上げてこう言ってやった。


「おめでとう。良かったな」


「はい」


 真輝の笑顔が聖母マリアみたいに穏やかだった。

 沙耶のお菓子はまずショコラ・オランジェとガナッシュが琥珀亭のメニューに登場することになった。慣れてきたら、プレートにお酒の利いたケーキを出したいねなどと話していたが。

 沙耶が帰り、真輝も早めにあがった後で、私は尊と向かい合う。


「尊も親父になるんだね」


 私は信じられないような気持ちで彼を見た。


 初めて会ったとき、彼は本当に若造という感じだった。夢中になれるものもなく、なんとなく日々を過ごしていた男。その彼が、いまやマスターとしてどっしり構え、家族を築いていく。


「ありがとうございます。まだ実感わかないですけどね」


 彼がはにかんで笑う。笑顔だけは、あの頃と変わらない。


 誰も口にしないが、真輝が前の旦那との間に子どもがいないことで苦しんでいたのは薄々わかっていた。欲しいのに出来なかったか、『まだいいや』と思っていたうちに旦那が死んで後悔しているのかは知らないがね。だから、この夫婦も乗り越えて来たものがあるはずなんだ。妊娠はその証なんだと、何故か確信できる。


 心底、私は嬉しかった。なんだろうね。自分の孫ができたみたいだ。だけど、大地のときとはまた違っている。

 脳裏に真輝の祖父母の姿が浮かんだ。私の想い人だった蓮太郎。その妻になった親友の遥。

 生まれてくる子は、彼らにどこか似てるんだろうね。彼らに再会したような気持ちになるんだろうか?


 その子も琥珀亭に立つんだろうか。熱い酒への情熱を帯びて。


 まったく感慨深いよ。人生ってのは良いもんだ。そう、良いもんだよ。

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