第十五章 ラスティ・ラブ

 今夜は星空だった。冬ってのは、どうして星が冴えて見えるんだろう。北国の刺すような冷たさがそうさせるんだろうか。


「お待たせしました」


 今夜、そう言ってメーカーズマークを出してくれたのは真輝ではなかった。身重の真輝は店に出ることを尊から禁止されている。ここは煙草の煙を避けられないからね。


 カウンターにいるのは、やや緊張した面持ちの志帆だった。彼女はバル『エル ドミンゴ』の見習いバーテンダーだが、オーナーの暁の計らいで琥珀亭に出張している。まぁ、琥珀亭の弟子だった暁に志帆から願い出たらしいが。


「志帆、あんたもうちょっと肩の力抜きなよ」


「え? 力入ってます?」


 おどおどする志帆が、深呼吸してみる。肩の位置が傍目にわかるほど、ふっと下がった。


「ほら見ろ」


「......本当だ」


 志帆がぎこちなく笑う。


「志帆ちゃん、緊張しなくていいからね」


 尊が声に出して笑った。


「助かるよ。やっぱり一人じゃキツいからさ」


「いえ、私も良い修行になりますから。よろしくお願いします!」


 志帆が元気一杯に頭を下げた。私は「ふぅん」と目を細めて唸る。志帆は暁に惚れてるんだが、自分から店を離れたってことは何かあったかね? まぁ、若いうちはいろいろあるもんさね。


 私はメーカーズマークをくいっと傾けた。志帆が来て二日目だが、彼女はなかなか筋がいい。技術なんかはわからないけど、一度言われたことはすぐ頭に入るタイプなようだ。なにより、人と馴染むのが早いからね。この日も、琥珀亭の常連とすっかり打ち解けていたようだった。


 懐かしいねぇ。なんだか、尊が新米だった頃を思い出す。あいつは一生懸命を地でいくような仕事ぶりで、見てて清々しかったね。


 志帆はそれよりもっとハングリーに見えた。尊が腕を振るうとき、じっと見つめる目がライバルを見る目つきだった。先が楽しみだ。


 私はそっと微笑む。志帆はどんなバーテンダーになるかね。そんなことを考えているうちに、時計は十二時をまわっていた。


「志帆ちゃん、今日はもういいよ」


 すっかり客のひけた店内で、尊がにこやかに言う。


「え? でもまだ......」


 志帆が私に視線をちらっと送る。


「いいの、いいの。お凛さんはお客さんだけど、特別だから」


 ふむ、どんな意味かは追求しないでおくよ。私はメーカーズマークに手をかけて、志帆をにやりと見やった。


「志帆、こっちに来て一杯だけ付き合いな」


「はい!」


 志帆がパッと顔を輝かせ、着替えに行った。


「お凛さん、ちょっと失礼」


 尊が後を追う。少し話し声がして、尊が戻って来た。今日の賃金でも渡したんだろう。

 志帆はニットのタートルネックのセーターにタイトなジーンズとブーツという出で立ちでカウンターに戻って来た。私の傍らに座ると、盛大にため息をつく。


「思い知ったわ。私、今まで暁さんに甘やかされてきたのね」


 彼女は眉を下げて笑う。仕事中は敬語だが、バーテンダーの服を脱いだ彼女はいつもの口調に戻っていた。


「尊さん、凄いわ。見習います」


 尊が照れたように笑って、志帆のグラスにメーカーズマークを注ぐ。


「志帆ちゃん、真輝はもっとスパルタだよ」


 志帆が「マジっすか」と大口を開けておどけた。それから尊にもウーロン茶をごちそうし、三人で乾杯が交わされた。


「この前もね、とんだ赤っ恥かいて」と、志帆が長いため息をついてうなだれた。


「カクテルで『ラスティ・ネイル』ってあるじゃない」


「あぁ、うん」


 レシピを思い出しているのか、尊が視線を上にやった。『ラスティ・ネイル』はスコッチ・ウイスキーとドランブイをステアするカクテルだ。


「私、そのカクテルの意味を勘違いしてて。ネイルって聞いて、爪のことだと思ってたの」


 彼女は自分の短い爪をしげしげと見やった。


「なんだか艶かしい女の人の爪のことなのかなぁってイメージしてたのよね。そしたら『錆びた釘』でしょ?」


 そう、『ラスティ・ネイル』の意味は『錆びた釘』という。まぁ、その色が錆びた釘に似ているからという説と、俗語で『古めかしい物』という意味をもつからという説があるがね。


「私、危うくネイルの綺麗な人にすすめるつもりだったのよ。暁さんからは『勉強不足だ』って散々からかわれるし......」


 そこまで言うと、彼女は冗談めかして顔をしかめた。


「本当に憎たらしいんだから......暁さんに錆びた釘でも打ち込みたいわ」


「おっかねぇな。丑三つ時に五寸釘でも打ち込むわけ?」


 尊が笑うと、志帆が笑う。


「そうじゃなくて。錆びた釘って抜けにくいって言うじゃない。あの人の気持ちに打ち込んで、しっかり繋ぎ止めたいなって意味よ」


「へ?」


「昔の大工さんが釘を打つとき、釘をくわえてるでしょ。あれは釘が錆びて抜けにくいようにするからだって聞いたことあるもん」


 彼女はニッと唇をつり上げた。


「気持ちを繋ぎ止めるには良さそうじゃない」


「......お前の思考回路がわからないよ」


 尊が呆れたように笑う。


「暁さんのほうがもっと謎よ」


 軽快な二人のやりとりを見て、私は目を細めた。暁と志帆の二人が並ぶ姿を想像してみる。なかなか似合ってると思うけどね。この二人もどうなることやら。


「なんかさ」


 志帆がちょっと眉を下げて笑う。


「がむしゃらに走って走って、ふっと立ち止まったときってね、心が錆つく気がするの」


「うん」


 身に覚えがあるのか、尊が静かに笑った。


「だけどさ、暁さんは笑顔一つでサッと錆を擦り取ってくれるの。呆気ないくらい簡単に」


 志帆は恋する女の顔で言った。


「他の誰かが錆を取ってくれる日がくるかもしれないけど、今のところはそうできるのは暁さんだけだから......」


 伏し目になる彼女は、きっと本当は弱気なんだ。誰かに背中を押して欲しいとき、彼女はここに来るんだね。特に、尊は同じような気持ちを知っているから。


 だけど、だからって何かをねだる訳じゃない。ただ、自分で口にしながら、気持ちの整理をつけたいんだろう。それを見透かすように、尊が笑う。


「愛情なんてさ、すぐ錆つくんだよ。片思いでもそうだけど、両想いなら尚更さ」


 尊が肩をすくめてみせた。


「お互いぶつかって、触れ合って、錆を落とし続けるんだ。俺だって、上手に磨けてるか自信はないけどね」


 彼はそう言うと、カウンターから出て扉へ向かった。外の看板を中にしまい、琥珀色の外灯を消す。


「......早じまいしたこと、真輝には内緒だよ」


 彼は唇に人差し指を当て、カウンターに戻って来た。そして、戸棚から一本のウイスキーを取り出す。タリスカーだ。彼はロック・グラスに氷を入れながら、志帆にこう言った。


「君の好きなタリスカーはね、真輝の死んだ旦那の好物だったんだよ」


「へぇ、そうなの?」


 目を丸くする志帆に、彼が呟く。


「誰かがつけた錆を落とすのは大変だけどさ。俺は諦めたくなかった。真輝の錆びた心の下ってどんな色なのか知りたかったからね」


 志帆が笑いながら、こう言った。


「ま、錆が分厚い方が燃えるわよね」


 ふむ、この調子だと当分の間は退屈しなさそうだ。私は苦笑しつつ、眩しいものでも見るように目を細めた。タリスカーを飲んでほろ酔いの尊と志帆が恋愛論を繰り広げている。私はその間、ぼんやりとメーカーズマークを見つめていた。


「......愛情は酒に似ているな」


 ふっと口をついて出た言葉に、志帆がとびつく。


「どうして?」


「熟成して美味くなるものもあれば、寝かせすぎて失敗することもある。気化して失うものもある。だけど、いつも輝いてる。なにより......人を酔わせる」


 尊がふっと笑う。


「それにカクテルみたいに、いろんな物を混ぜて新しい形が生まれるしね」


「初めて聞いたな、お凛さんが恋愛を語るの」


 志帆が何故か嬉しそうに笑った。


 だけど、心底思うんだよ。何故、私がこの琥珀亭に入り浸るか。それは酒の中に人生を映す場所だからだ。恋愛だけじゃない。過去も未来も、信念や後悔も、友人や家族も。そういう人生の一幕が垣間みれる場所。酒はそれを彩っていく。もっと哀しく、もっと優しく、もっと甘く。


 私はふっと目を細めて、メーカーズマークを飲み干した。このボトルの赤い蓋を開けるたび、私は人間を好きになっていく。そんな気がした。


 楽しみだね。志帆がどんなバーテンダーになるか。暁と志帆が微笑み合って過ごすときが来るのか。尊と真輝の子どもがどんな風に育つのか。大地の行く末はどうなるのか。私はどんな言葉を残して死んでいくのか。


 あぁ、だから私は生きるのが好きなんだ。好きなんだよ。きっと、明日もそう思いながらメーカーズマークを飲む。この琥珀亭でね。

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