第六章 我が母の教え給いしサングリア
『母の日』が近づくと、北国を吹く風もだいぶ暖かくなる。
私と孫の大地が駅前通りにあるバル『エル ドミンゴ』に飲みに行ったのは、そんな頃だった。
たまには私だって、琥珀亭以外の店で飲むこともある。その日は、この店から「二人で店に来て欲しい」と連絡を受けたのだ。
店に顔を出すと、オーナーの暁という男がにこやかに出迎えてくれた。
「いやぁ、呼び出しちゃって申し訳ないね、オババ様」
暁は白い歯を見せて笑っている。彼は鍛えた体つきと浅黒い肌をした色男だ。女が放っておかない顔立ちに、巧みな話術、人当たりの良さを兼ね備えている。おまけにバーテンダーとしての腕も確かだ。そして、この私を『オババ様』なんて呼ぶ唯一の男でもある。
一見すると、馴れ馴れしい人間のように思えるが、実は繊細で誰よりも他人に気を遣う質なのを私は知っていた。その証拠に、頼んでもいないタパスと呼ばれる小皿料理がどんどん出て来る。急に呼びつけた詫びのつもりだろう。
「せっかく来てくれたんだから、沢山食べてよ」
「呼び出したのはお前じゃないか。一体、何事だい? それに、こんなに食べきれないよ」
呆れたように言うと、暁が陽気に笑った。
「実はまた演奏を頼みたくて。急な話で申し訳ないんだけど、お願いできるかな?」
この『エル ドミンゴ』では音楽の生演奏のイベントに力を入れているんだ。月に一度、いろんな演奏家を呼んでは客を楽しませる。マイクやスピーカーもこだわっているし、店の片隅にはアップライト・ピアノまである。
演奏会の曲目はジャズでもクラシックでもロックでも何でもありだが、それは『なるべくたくさんの人に、音楽と一緒に酒を楽しんで欲しい』という暁の方針のようだった。
「私と大地を呼んだってことは、今度はクラシックかい?」
「うん。スペインにちなんだ曲を幾つか弾いて欲しいんだよ。テーマは『母の日』にして」
「なんでスペインなんだい?」
「うちの店名ね、スペイン語で『日曜日』って意味なの。もうすぐ開店記念日だから、それに合わせてお願いしたいんだ」
「まったく何でも店のイベントにするんだね。この前は『ひなまつり』に女の子をテーマにした生演奏をしたばかりじゃないか。お客さんだって、ここで演奏を聴いてる暇があったら、直接、母親に感謝の気持ちを表したいんじゃないのかい?」
「だから、『母の日』のちょっと前にやるんだよ。お客様が『そうだ、母の日だ。母親に感謝しよう』って思ってくれたらいいのさ」
私は「わかったよ」と頷きながら了解した。人前で演奏する機会をもらえるのはありがたいし、大地には良い経験になる。第一、面白そうだ。
さて、曲目はどうしようかねぇ。そう考えながら、頬杖をついた。
「とりあえず、飲みながら曲を考えようじゃないか」
「いつものメーカーズマークでいいんだろ? 大地は?」
暁の言葉に、大地は店内に掲げられた黒板を見上げた。そこには本日のおすすめやドリンクメニューが書いてある。
この孫も私に似てうわばみだ。だが、酒の好みまでは似なかったようで、ウイスキーはあまり飲まない。こいつの好物といえば、ラム酒だ。
ところが、この日の大地は意外なオーダーをした。
「暁さん、今日はサングリアありますか?」
『サングリア』とは、赤ワインにフルーツやスパイスを漬け込むものだ。人によっては砂糖を入れたりもする。白ワインで作ると『サングリア・ブランカ』と呼ばれるがね。
「あるよ」
「じゃあ、サングリアで」
「了解。ちょっと待ってて」
暁がグラスを出すのを見ながら、私は思わず「へぇ」と呟いた。
「大地、お前もサングリアが好きなのかい?」
「うん。たまに親父が作ったのを盗み飲みしてる」
思わず笑ってしまった。大地の父親、つまり私の息子は小料理屋をしているがワインが好きなのだ。年に一度あるかないかだが、あいつの家で一緒に飲んだときは、飲み残したワインでサングリアを作ってやるんだ。
「暁、お前も何か飲むといいよ」
私が声をかけると、彼は『待ってました』と言わんばかりに笑った。彼はコロナというスペインのビールを飲むようだ。私たちはそれぞれの酒を掲げ、乾杯を交わした。
いつもの味で喉を潤し、出された料理をつまもうとしたときだった。大地が大きい目を丸くして「あれ?」と素っ頓狂な声を出した。
「なんだい、大地。サングリアにスルメでも入ってたかい」
「違うよ、ばあちゃん。これ、ばあちゃんの作ったサングリアと同じ味がするんだ」
それを聞いて、暁は笑っている。
「そりゃそうだろ。オババ様も俺も琥珀亭でレシピを教わったんだから」
琥珀亭の創業者の蓮太郎が作るサングリアは格別だった。暁はその一番弟子だし、私は親しい友人だったから、同じレシピを知っている。
すると、大地は奇妙なことを言い出した。
「これが親父の言っていた『お袋の味』かぁ」
「なんだって?」
今度はこっちが素っ頓狂な声を上げてしまった。
こんなガサツな私でもそれなりに料理はしてきたつもりだが、肉じゃがでもみそ汁でもなくサングリアを『お袋の味』と呼ばれているのは知らなかった。
「あんなに手料理を作ってきたっていうのに、お袋の味がサングリアだっていうのかい!」
「親父がよく言ってるんだよ。『お袋の作るサングリアだけは俺にも朋子にも再現できない』って」
トモコというのは息子の嫁の名前だ。そりゃ、そうだろう。朋子さんは酒がからきしなんだからね。
苦笑しながら、私は大地に言った。
「サングリアがお袋の味だって言うけどね、大地は知らないだろうが、私と朋子さんの味つけが違う料理は他にもあるんだよ」
「そうなの?」
「朋子さんにはうちの味を教えてくれって何度かお願いされたことがあるんだ」
「えっ? じゃあ、俺もばあちゃんの味付けで食べてるものあるのかな?」
「お前はないだろうね」
「どういうこと?」
私は右眉を吊り上げて見せた。
「聞きたいかい?」
大地はシーフードのマリネに手を伸ばしながら「うん」と答えた。
「まだお前が小さい頃かねぇ。あいつが小料理屋を始めたのは」
メーカーズマークをちびちびやりながら、昔を思い出す。
「あいつは元々は銀行マンだったんだが、小料理屋に憧れてね。銀行を辞めて修行して、店を持った。そのときは朋子さんは大反対でね」
暁が苦笑いを浮かべる。
「まぁ、大抵の奥さんがそうだろうね」
「私はどっちでも良かったさ。あいつの人生だから、好きにすればいい。だけどね、店を始めたばかりの頃は夫婦喧嘩が絶えなかったらしいよ」
「あの親父とお袋が?」
大地が心底驚いている。まぁ、今では仲良くやってる証拠だろう。嬉しいことだ。
「大喧嘩するとね、うちの息子はだんまり決め込むんだとさ。昔から意固地だからね。それで、いつも朋子さんから仲直りのきっかけをあげていたらしいんだ。何かわかるかい?」
「わかんない」
ムール貝を頬張る大地が考えもせずに即答する。
「喧嘩するとね、朋子さんは必ず私に電話してくるんだ。うちの味付けを教えてくださいってね」
先が読めたらしく、暁がにやりとする。
「小料理屋の亭主の胃袋を掴むなんて、たいした奥さんですね」
「どういうこと?」
大地だけはきょとんとしている。私は「はは」と笑いながら、米ナスの揚げ物をつまんだ。
「みそ汁だったり、煮物だったり、喧嘩するたびにうちの味を教えたよ。朋子さんはね、喧嘩した翌日に私と同じ味付けをした料理をあいつに出すんだ。すると、たちまち機嫌が直るってわけさ」
「ふぅん。そういうもんなの?」
「そういうもんらしいよ」
それを初めて聞いたときは、可笑しいと同時にちょっと誇らしくもあった。
息子っていうのは嫁にとられるものだから、私は二人のことには一切手出し口出しをしない。少しドライ過ぎるかもしれないほどだ。そして息子は私よりも嫁を大事にする。もちろん、そんな息子を母として立派に思うし、『良い男になったね』と褒めてやりたい。
だが、そんな息子も『お袋の味』には弱い。それを聞いて嬉しく思わない母親がいるかい?
そう話すと、暁が何度も頷いてくれた。
「嫁さんを大事にする上に、母親にも愛情があるって証拠じゃないか。良い男だよ、おやっさんは」
「ありがとよ。一番最初はね、卵焼きを教えたんだ。朋子さんの卵焼きは塩こしょうだけの味付けで黄色いだろ?」
「うん。だって、卵焼きは黄色いでしょ」
「うちの味は違うんだよ、大地。砂糖とみりんと出汁と醤油を入れるのさ。だから醤油の色で卵焼きもちょっと茶色くなる」
「へぇ」
「息子はその卵焼きを出された瞬間に、色で『お袋の味』だってわかったらしいよ。卵焼きを凝視して、黙って頬張って、綺麗に平らげてから思わず笑っていたらしいんだが......朋子さんいわくね、その顔がなんともいえぬ笑顔だったらしい。それ以来、喧嘩した翌日にはお袋の味を出すことにしたんだってさ」
私はその『なんともいえぬ笑顔』とやらを見ていないが、朋子さんの話では懐かしむような、それでいてはにかんだ顔をしていたらしい。そして同時に、今にも泣き出しそうに見えたんだそうだ。
そのことを話してくれたとき、朋子さんは私にこう言った。
『やっぱり、母親って偉大ですね。すごく嬉しそうな顔でした』
私はこう答えたよ。
『違うよ、朋子さん。その笑顔はね、あんたが一生懸命うちの味を覚えて仲直りしようとしてくれたことが嬉しかったからだよ』
実際、そうだと思うよ。あいつは良い嫁を持ったもんだ。
そして、朋子さんだって偉大な母親さ。このとびきり素晴らしい孫を産んでくれたんだからね。
暁が大地のグラスにサングリアを注ぎ足しながら言った。
「大地、知ってるか? サングリアの名前の由来はな、スペイン語で『血』を意味する言葉だ」
「へぇ、そうなんですか」
「あぁ。サングリアがお袋の味っていいな。血を受け継ぐみたいに、味も受け継いでいくわけだから」
それまで無邪気に料理を頬張っていた大地が、その言葉に顔を上げた。
「味を受け継ぐ......」
「どうした、大地?」
「なぁ、ばあちゃん」
「なんだい」
「俺、迷っているんだ」
不意をつかれて大地を見ると、カウンターの上の料理を見つめながら真剣な顔をしている。
「俺、音大を卒業したらばあちゃんみたいにオケに入ったり、教室を開きたいって思ってたけどさ」
「あぁ」
「親父の味を絶やしたくない気持ちもあるんだ」
大地は高校卒業後、息子の小料理屋で修行をしていたが、音楽を捨てきれず音大に入った。
だが、今でも週末は小料理屋で短時間ながら修行を続けている。もっとも、それは息子が『週末は人手が足りないから手伝いに来い』と言い出したせいらしいが。息子は音楽の道に進むよりも、小料理屋を継いで欲しいと願っているからね。
「でもさ、音楽をやりながら小料理屋もなんて、そんな中途半端なこと親父が許す訳ないしな」
「あいつは一本気だからねぇ。二足のわらじは嫌いだろうね」
「どっちも選びきれないって、俺はまだ子どもなのかな?」
すると、暁が笑う。
「親父さんが許す許さないの問題じゃないだろ。お前がどうしたいかだ。反対されても二足のわらじを選ぶって道もあるぞ。ただし、相当厳しい道だろうけど」
私は「もっともだ」と、苦笑する。
「まぁ、ゆっくり考えるんだね。本当にやりたいことをやればいい。お前には選ぶ自由がある。だけど、その自由には責任が伴うことだけを忘れなければ、それでいい」
私はメーカーズマークを飲みながら祖母として言った。それはかつて、オーケストラに入団しようか迷っていた私が母から言われた言葉と同じだった。
それから私たちは演奏会の曲目選びという本題に入った。
ファリャの『火祭りの踊り』やカザルスの『鳥の歌』などスペインゆかりの曲に決まるまで、意外と難航した。だが、アンコールだけはすんなりと決まった。『我が母の教え給いし歌』だ。チェコの作曲家であるドヴォルザークの曲だが、タイトルが『母の日』に相応しいだろうということになった。
あの旋律を思い出しながら、私はサングリアを一杯だけ飲んだ。オレンジとレモン、シナモンスティック、クローブ......材料を大地に教えてやりながら、心の中で微笑んだ。
朋子さんがお袋の味を出すのは、喧嘩したときだけだと知っている。あの卵焼きの味は、大地には伝わらないだろう。朋子さんの塩こしょうの黄色い卵焼きが、いつか大地の嫁に伝わるはずだ。
それでも、このサングリアだけは大地が伝えてくれる。いつの日か彼が嫁に教え、いずれはまだ見ぬひ孫に伝わるだろう。
たった一つでも残せれば嬉しいじゃないか。
私が母から教わったのは料理ではなく、さっき大地に言った言葉だけだったがね。
我が母の教え給いしものは、一つで充分。一つあれば、それで充分幸せに思う。
死んだ母もそう思っているだろうかね? 思っているだろうね。私によく似た母だったから。そう願うよ。
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