第七章 ファイティング・ストーカー
私が主宰するバイオリン教室『アンバータイム』は弟子と私のスケジュールが合ったときにレッスンをする。朝は九時からと決めているが、夜は弟子の都合で九時や十時までかかるときもある。
この日は朝からみっちりレッスンが入っていて、夜の八時にやって来た美智子という弟子が最後だった。
「さて、では始めようか」
譜面台に乗った楽譜をめくりながら声をかけると、美智子は蚊の鳴くような声で「はい」とだけ答えた。
演奏が始まってすぐ、私は違和感を覚えて美智子をしげしげと見つめた。
音を外しているし、シャープは抜かすし、弓順も間違ってばかり。なにより、まるで集中していない。
美智子は必死になって譜面と格闘しているが、たどたどしい演奏は何度繰り返してもよくならなかった。
もともと、彼女は童顔で、可愛らしい顔をしている。けれど今日はどこか泣きそうな顔で音符を追っていた。
歳は三十路を越えたばかりだが、バイオリン歴は長い。なにせ彼女が高校一年生だった頃から私が指導している子だ。
始めたのが遅かったせいもあるが、オーケストラに入りたいとか、音大にすすみたいという意欲は最初からなかった。完全に趣味として弾いているものの......今日の演奏はまるで上の空で、あまりにひどい。
どうも様子がおかしい。いつもならきっちり練習してくる子なんだ。なのに、その気配が今日はまったくない。
「美智子、一体どうしたんだい? 今日はまるで心ここにあらずじゃないか」
演奏を終えた彼女にそう言いながら、私はソファに腰を下ろした。いつもならこのソファに真輝の飼い猫である黒猫のスモーキーが丸くなっているはずだが、彼もとうにいなかった。あいつはひどい演奏だと部屋を出て行くからね。
「すみません、先生」
美智子はうつむいて消え入りそうな声になる。
「あんた、下手したらこの一週間、一度も弾いてないんじゃないのかい?」
私は彼女の伸びた爪を見ながら言う。弦を押さえるとき、爪が伸びているとうまくいかないもんだ。それなのに爪が長いということは、練習していないということになる。もっとも、演奏を聴けばすぐに察しはつくけれど。
「どっか体調が悪いのかい? いつもだったら練習もきっちりしてくるし、こんな曲くらい綺麗に弾くじゃないさ」
なるべく優しい声で美智子に話しかけた。この子は叱られると、悔しがるよりも萎縮してしまうタイプだから。
「それとも何かあったのかい? 話してごらん」
そう言った途端、美智子の顔が引きつった。唇が震えたかと思うと、彼女は「わぁっ」とその場に泣き崩れてしまった。
......参ったね、こりゃ。私は呆気にとられてうずくまる美智子を見ていた。
泣き止むのを待って、私は彼女を琥珀亭に連れて行った。
彼女はウイスキーが好きで、レッスンの後に何度か一緒に飲みにきたこともあるんだ。
マスターの尊は美智子の目が真っ赤になっていることに一切触れず、オーダーを訊いてきた。
彼女は「ハイボール」とだけ答え、後はずっと俯いている。目の前にカクテルが出されても、彼女はすぐには口をつけようとしなかった。
いつもはウィットの富んだ冗談を飛ばす明るい子なんだけどね、今日は本当にどうかしちまってる。
「ほら、今日は私のおごりだから、沢山飲むといいよ」
「あ、はい......ありがとうございます」
彼女は初めてグラスを手にとり、一口だけ飲んだ。酒の勢いで少しでも話しやすくなるといいんだけどね。
「前に言ってたことをまだ悩んでいるのかい?」
私はそっと美智子に声をかけた。
以前、彼女は『自分は才能がないのに弾き続けて意味があるのか』と悩んでいた。もとより趣味で弾いている子だが、生活に役立つ訳でもないバイオリンを習い続けることに疑問を持った時期があったんだ。
「あのときも言ったけど、毎日練習できることだって立派な才能なんだよ。音楽がある生活は、きっと救いになる。他人の演奏を聴くのとは違って、自分で演奏することで意味をなすことだって......」
そこまで言ったとき、彼女は首を横に振った。
「違うんです、先生」
彼女はまた目をうるませて言った。
「すみません。バイオリンのことじゃないんです」
「じゃあ、一体どうしたっていうんだい?」
「実は......」
か細い声がくぐもる。
「私、失恋して......それ以来、変なんです」
私は「ははぁ」と唸る。そう言えば、去年だったか、『彼氏ができた』と嬉しそうに言ってたっけ。あのときは相手のことまで詳しく聞かなかったが、そいつと別れたということか。
「そうか、それは残念だね。でも、変っていうのは?」
「私......気が狂いそうで」
そう言うと、彼女はハイボールを口にしてから、こう呟いた。
「私、ストーカーになっちゃったみたいなんです」
「はぁ?」
心底驚いたが、隣の美智子はいたって真剣な顔だ。ずっと膝の上で手をもみ合わせて、眉間にしわを寄せている。
「悪い冗談ではないらしいね」
詳しく話すように促すと、美智子はたどたどしく話し始めた。
「私、去年のはじめに営業部の人と付き合いだしたんです。仕事の関係で話す機会が多くて、それで意気投合したんですよ」
この子は全国に支店を持つ大企業の事務として勤務している。部署を越えた恋愛だったわけだ。
「彼、転勤族でうちの支店に異動してきたんです。いずれはまた別の支店に転勤するとはわかって付き合ったんです。でも、そう割り切れていたのは彼だけで、私は『わかっているつもり』だったんですよ」
美智子は力なく項垂れ、グラスの氷を指でつついている。
「彼は『好き』とは言っても『愛している』とは言ってくれませんでした。深入りして転勤のときに別れが辛くなるのが怖いって言い訳して」
別れる前提の付き合いというのも不毛な気がするし、そんな相手に『愛している』という言葉を期待するのもおかしい話だ。私は半ば呆れたが、口を挟まずに黙って聞いていた。
「先月、彼の転勤が決まりました。その話を聞いたとき、私ったら子どもみたいに泣きました。私が『離れるのは嫌だ』って繰り返し泣いていると、彼が初めて『愛している』と言ってくれました。本当はとっくに愛してたけど、口にしたら戻れなくなると思ったって」
そこまで言うと、彼女は周囲を気にしながら、私にそっと耳打ちした。
「実はね、先生。私たち子どもが欲しかったんです」
「えぇ? だって別れがくるってわかっているのにかい?」
「私は彼について行きたかったんですよ、先生。だから彼が私との間に子どもが欲しいって言い出したとき、嬉しかったの。でもね、これは彼の賭けだったんです。子どもができたら、私と一緒になって、うちの支店にずっといられるよう会社にかけあうつもりだったと言いました。でも、結局子どもはできず、彼はそのまま転勤したんです」
私は呆れて美智子を見つめた。周囲に染まる質だとは思っていたが、恋愛になると尚更のようだ。一方で、憤りのようなものを覚えた。命を授かることを軽く見たことにか、それともどっちつかずの曖昧な気持ちのまま、そんな賭けで決めようとした男に腹を立てたのかはわからない。いや、おそらく両方にだ。
「あんたはそれで良かったのかい? ついて行きたかったんだろ?」
彼女は悲しそうな目をした。
「最後にはきっぱり断られました。転勤が決まったとき、彼は私に同情して『愛している』と言ったんだと思います。結局はそこまでして一緒になる気もなかったのね。自由でいたい人だったから、新しい土地を満喫したかったんだわ。だって、本当に愛してるなら、子どもができなくたって『一緒についてきてくれ』って言うはずだもの」
「よくわかってるじゃないか」
私はメーカーズマークのアルコールを口から吐き出しながら頷いた。
「ずいぶんと我がままで自分勝手な男じゃないか。どこが良かったんだい?」
呆れて言う私に、彼女はちょっと口許を緩め、未練を滲ませた。
「とにかくタフでした。ワイルドで、自分に厳しくて、自由で。彼の強さに私は憧れたんです」
「別れて正解な気もするけどね。それで、お前はどこがどう変なんだ?」
美智子は私の顔をじっと見つめ、おずおずと口を開く。
「あの、先生はインターネットって使います?」
「あぁ。パソコンは好きだよ。うちの教室のホームページも私が管理してるくらいさ」
今の世の中、インターネットの力は無視できないものがある。パソコンを大地から教えてもらったときはあまりに難解で目を白黒させたが、慣れてしまえばネットの利便性にどっぷり漬かっている。
「演奏会の情報を拡散するには、やっぱりネットの力はすごいね。バイオリンの弦もネットで買うんだよ」
「じゃあ、SNSはどうです?」
「有名どころは全部アカウントがあるよ。主に宣伝とか、音楽仲間との連絡用だけどさ。もっとも、仕事以外の無駄なことはあまり投稿しないけれどね」
「なにせ、私はいつもこの琥珀亭で無駄口叩いているからね」と私が冗談めかして言うと、美智子はちょっとだけ笑った。しかし、すぐにまた暗い顔に戻ってしまう。
「実は、私も使っているんですけど、それが原因なんです」
「つまり、どういうことだ?」
「転勤する前に、彼がパソコン用のメールアドレスを教えてくれたんですよ。別れた後に未練がましくそのアドレスを検索して、彼のブログと、SNSのアカウントを突き止めたんです」
「はぁ、ネットって怖いもんだね」
心の底から呟く。たった一個のメールアドレスから、ここまで情報がわかるものだとは。
「それ以来、私......彼のブログとSNSを毎日チェックしてしまうんです。それも一日に何回も。自分でも、その......気持ち悪いと思われるってわかっているのに」
そう呟くと、彼女はすっかり氷が溶けて水っぽいハイボールを煽った。
「別れたばかりの頃は、本当に興味本位でした。『今、どうしているんだろう?』って気になっただけなんです。だけど、そのうち嫉妬するようになりました」
「嫉妬? 誰に?」
「新しい土地で楽しい事や嬉しい事を書き綴るブログとか、SNSで私の知らない仲間とコメントをやりとりしているのを観ていると、もう私のことを忘れて人生を楽しんでるように見えて悔しかった」
「友達にまで嫉妬したのかい?」
「少しでも仲の良さそうな人全員です。そのうち、彼のブログの記事を遡ってみたんです。私、日記をつけてるんですけど、彼が『今日は忙しいから』って会いに来れなかった日は、実は友達と遊んでいたとか、知らなきゃよかったことを知りました」
「おや、嘘つきな男だったらしいね」
そうとわかっても止められないのが、恋心、いや未練の厄介さだ。
「信じていただけに、ショックでした。そうするとね、今度はSNSの友達を調べまわって、女の人とちょっとでも仲良さそうにしていると気が変になりそうになって、誰とどんなやりとりをしているかを知りたくてログインするようになりました」
あぁ、これは重症だ。私は脱力感に似た精神的疲労を覚えた。盲目的な恋に身を焦がした代償は大きい訳だが、これにつける薬はない。
「知りたくないことばかりなのに、家に帰るとつい彼のアカウントを開いてしまうんです。罪悪感と傷つく恐怖に怯えてるのに、それでも『知りたい』欲求が押さえられなくて」
「それで、ろくに練習もしてないんだね」
「はい。それにね......彼は先週、新しい彼女ができたみたいなんです」
美智子は深いため息をこぼした。
「彼女と一緒の写真がアップされてました。すごく大人びた美人だった。見るからに、私と正反対のタイプなんです」
美智子の顔が歪んだ。
「悔しくて、悔しくて。本当だったら、そこにいるのは私だったのにって、悲しくもあるい、本当はこういうタイプが好きだったのねって落ち込みました。この一週間、ろくに夜も眠れないんです」
彼女は少し声を震わせた。
「まるでパソコンが『パンドラの箱』みたいです」
美智子は残りのハイボールを飲み干してから、こう言った。
「開けちゃいけないのに、誘惑にかられて開けちゃうんです。そうしたら最後、嫉妬や悔しさや怒りや寂しさがどっと襲って来るの。でも......あの人とまだ繋がっていたい希望だけが残るんです」
私はメーカーズマークを口に含みながら、美智子を盗み見た。幼い顔立ちをしているはずの彼女が、疲れているせいか、いつもより十は年上に見えた。
「まぁ、私の若い頃はSNSどころかインターネットすらなかったからね。安易に『わかるよ』なんて言えないがね」
濡れたコースターを指でいじりながら、私は言った。
「新しい誰かが現れて、お前の中の彼を過去に追いやってくれる日もくるだろう。彼がそういう道を選んだようにね」
「考えられないです。誰を見ても彼と比べてしまうんです。何を見ても、何を聞いても、彼を思い出して辛いんです」
「それはそうだろうさ。でも、いつか胸の奥にひっそりと眠りにつくもんなんだよ、そういう痛みは。少なくとも、今ではないがね。今のお前に必要なのは泣いて泣いて、ふっきれることかもしれないよ。それと、少しの強い酒かね」
私は、ちょっと離れた所に立っていた尊に手招きする。
「尊、美智子に何か強いウイスキーをおくれ。嫌な事をふっとばすパワフルなのをね」
尊は静かに微笑むと、にっこり頷いた。彼が戸棚から取り出したのは闘鶏の絵が描かれた『ファイティング コック 6年』というウイスキーだった。
『ファイティング コック 6年』は私が所望した通り、アルコールの強いバーボンだ。荒々しいワイルドな味の中に、まろやかさも確かにある。だが、ガツンとくる酒だと私は思う。残念ながら終売になってしまっているから、このボトルがなくなればこの店からも姿を消すことだろう。
美智子は琥珀色の酒を揺らし、香りを確かめた。一口含んで「樽の匂い......」と言った後、こう付け足す。
「まるで、あの人みたい。若々しくて、ワイルドなくらい強い」
彼女はそっと目の前に置かれたボトルを手に取った。
「ここに描かれているのって闘鶏ですよね」
「そうだね。そういう名のウイスキーだからね」
「この絵はまるで私みたいです。周りが見えずに、一人で興奮してもがいているの」
すると、尊がカウンターに手をついて、美智子に話しかけてきた。
「美智子さん、闘鶏のトレーニング方法ってご存知ですか?」
「いいえ」
「目の前に鏡を置くんです。すると闘鶏は鏡の中の自分と戦いだすんですよ。これがトレーニングになるんです」
「鏡の中の自分ですか......」
「そう、ひたすら自分と戦うんですよ。でも、その結果、彼らは強くなるんです」
どうやら尊は私たちの会話をしっかり聞いていたらしい。最後の一言にはいかにも彼らしい、さりげない励ましが滲んでいた。
私はそっと美智子の手からボトルを取り、目の前に据えた。
「若々しい酒だね。全てはこれからだっていうような、希望とパワフルさを感じる酒だ。美智子にぴったりじゃないか」
彼女は尊と私が言わんとしていることをうっすら感じ取ったらしい。嬉しそうに、目を細めて笑った。
「ありがとうございます、先生。それに、尊さんもありがとう」
深呼吸し、彼女は頷く。
「いつか、彼のことをネットで見ても心が締め付けられない日がくるって信じます。それには自分が戦わなくちゃね」
「その意気だよ。パンドラの箱は無駄じゃなかった。人間に火をもたらしたんだからね。お前にも、きっと何か大事なものを残すはずだよ。それこそ、何か別のものに火を灯すかもしれないね」
これを聞いたとき、彼女の幼い顔に、強さがうっすら滲み出た。初めてバイオリンを習いたいと言ってきたときと同じ顔つきだったよ。
その後、彼女はしばらくボトルを見つめていたが、急に一人で笑い出した。
「何が可笑しいんだい?」
笑顔にほっとしながら私が問うと、彼女は困ったように眉を下げた。
「だって、先生。これ、海外で頼むとき、勇気がいりますね」
「どうして?」
「コックってね、英語のスラングで男性器のことなんですよ」
戦う男性器......。その場にいた誰もが、頭の中にその言葉を浮かべただろう。一斉に、皆が笑い出した。
「お前、ウイスキーに失礼なことを言うんじゃないよ」
「先生だって、笑ってますよ」
いつもの冗談好きな美智子の顔が見れた。私は心から安堵しながら、彼女の肩をぽんと叩く。
「美智子、自分は大事にしなさい。子どもは宝だ。男の賭けなんかで授かるもんじゃないよ。まずは男に流されない強さを持つことだね」
「えぇ。反省してます」
美智子がバツの悪そうな顔をした。恐らく、この子は寂しがりやで弱い。だけど、だからこそ誰かのために強くなれると信じているよ。
彼女はパンドラの箱に残ったものを『彼と繋がっていたい希望』と言った。だが、それは未練だ。いつの日か、未練が姿を変えて本当の希望に変わればいい。
パンドラの箱を開けた女は子を残し、その子はゼウスの大洪水を生き残ったはずだ。パンドラの箱を開けたからって、全てが終わったわけじゃない。
希望を胸に足を踏み出さなければならない。それを学んだだけのことさ。これからは、闘鶏のように自分と戦って生きていけばいいんだ。
我ながら説教くさいとは思ったが、最後にそんな話をすると、彼女は子どものように微笑んだ。
私は心底、彼女の幸せを願ったよ。なにせ、私の可愛い弟子だからね。
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