第五章 手折られたオレンジ・ブロッサム

 ある日、琥珀亭で飲んでいた私は、ふと腕時計を見た。時計の針は真夜中の十二時をさしている。客はみな帰り、残っているのは私一人だった。


「閉店まであと一時間か。もう一杯飲んで帰ろうかね」


 そう言って、グラスにメーカーズマークを注ぎ足してもらったところだった。

 扉が開き、一人の女が入ってきた。いつものように「いらっしゃいませ」と言いかけた真輝が目を見開き、彼女にしては珍しく大きな声を上げた。


「詩織じゃないの! どうしたの、こんな遅くに」


 どうやら真輝の友人のようだったが、その声には驚きが滲んでいる。あまり夜遅くに出歩くタイプではないようだ。

 尊とは面識がないようで、彼は「何事だ?」という顔をしている。


 真輝が驚いたのは、彼女が遅くに来店したからという理由だけではなさそうだ。シオリという女は明らかに泣きはらした目をしていた。化粧はしていたが、どんな厚化粧でもその膨れた瞼は隠せない有様だ。


「ごめんね、真輝。こんな時間に」


 彼女は微笑む。だが、寂しそうな笑みがかえって痛々しかった。


「とりあえず、座って。ひどい顔ねぇ!」


 真輝が心配そうに眉根を寄せた。彼女が腰を下ろすのを待って、夫の尊を紹介した真輝は、こう言った。


「尊、この子は私の小学校の同級生で詩織っていうの。幼なじみみたいなものよ」


 私はちょっと目を見張る。詩織という彼女が真輝と同い年には見えなかったからだ。そう、彼女はずいぶん疲れているように見えたからね。


「まずは何か飲んで。何にする?」


 いつも以上に優しい声の真輝に、詩織はふっと微笑んだ。心配されているのがわかるのだろう。


「どうしても『オレンジ・ブロッサム』が飲みたくて」


「わかったわ」


 真輝が頷き、ジンを取り出した。『オレンジ・ブロッサム』の材料はシンプルで、ジンとオレンジジュースの二つ。これをシェイクすれば出来上がりだ。


 尊がオレンジを絞っている間、真輝は氷をカクテル・グラスに入れ、バー・スプーンでくるりと回してから、アイスペールに戻した。こうしてグラスを冷やすんだ。やがて、シェイクされたジンとオレンジジュースが冷えたカクテル・グラスに注がれた。


 真輝の作った『オレンジ・ブロッサム』がカウンターに差し出されると、詩織はしばらくの間、じっとカクテルとにらめっこをしていた。焦れた真輝が話しかけようと口を開いたとき、詩織はグラスを持ち上げた。


 一口だけ含み、グラスはコースターの上に戻される。そして、彼女は小さな吐息をもらした。


「そうだわ、こういう味だったわね」


「一体、どうしたっていうの? 今日は本当に変よ」


「うん。今日はね、真輝に謝ろうと思って」


「なぁに?」


「私と主人の結婚式のとき、真輝は式場でこれを作ってくれたわよね」


「えぇ」


 オレンジの花の花言葉は『純潔』だ。それ故に、オレンジ・ブロッサムは結婚式の食前酒として人気があるのだ。


「せっかくカクテルを作ってもらったのにね、私たち駄目になっちゃったの」


 そう言うと、彼女がそっとグラスの縁をなぞった。


「離婚したの」


「そう」


 意外なことに、真輝は驚かなかった。むしろ、次の言葉に私は驚かされた。


「また旦那さん、壁に穴でも開けたの?」


 思わず眉をひそめてしまった。どうやら、癇癪持ちの旦那だったらしい。

 詩織は「いつものことよ」と頷き、こう付け加えた。


「すごく長いこと悩んでいたのに、決まってからはあっという間だったわ。呆気ないくらい」


「よく決心したわね。離婚したほうがいいって勧めてきたのは私だけど、でもそれがどんなに勇気のいることかはわかるつもりだもの」


 詩織が力なく微笑み返した。


「いつもは仲の良い夫婦だったのよ。いつでも笑い合って、お互いが居心地よくて、誰といるより自分らしくいられた。だけど、駄目ね。主人は外で何か抱え込むと、家の中で爆発させるの。たとえそれが『焦り』だったり『悔しさ』でも『怒り』に変換させるのよ。家に着いた途端、ほっとすると同時に思い出して、うまく発散できなくて壁に穴をあけたり、物を投げるの」


 おやおや、ずいぶんと子どもっぽい男だ。

 尊はそれを聞いて、露骨なほど眉間にしわを寄せた。彼にはそういう行動をする心理が理解できないのだろう。


「それって、DVですよね?」


「そうなんです。頭ではわかっていたんですけどね。癇癪を起こすとき、彼はセーブがきかないんですよ。自分でもどうしようもなく、止められないんですよ、自分を」


 文字通り、頭に血がのぼるわけだ。


「そのくせ、癇癪の後は『ごめん』って言えないで、それでいて『捨てないで』って顔をして黙っているの。それを見たら何も言えなくなかった。それに、両親から愛情をもらわずに育ったのも知ってるから、きっとそういうのも影響してるんだろうって考えちゃって」


 真輝の大きなため息が琥珀亭に響いた。


「前から言ってるけど、それって、DVから抜け出せない典型的な例なのよ」


 真輝は以前から相談を受けていたらしい。ピシッとした声で詩織に言い放つ。

 詩織は「そうね、頭ではわかっていたわ」と、頷いた。


「だけどね......私には絶対に手をあげなかったから、認めたくない自分がいたの。癇癪は怖いし、彼の機嫌が悪いとビクビクしていたわ。でも、確かに愛情もあったのよ。だからずっと苦しんできたけど、先月ね、癇癪が起きた後で、思い切って相談機関に電話したの」


 尊がやや驚いたように、訊いた。


「相談機関なんてあるんですか?」


「えぇ、配偶者からの暴力に悩む人が相談できる窓口って結構あるのよ。たまたまコンビニにカードが置かれてるのを見つけてね」


 詩織は自嘲気味な笑みを浮かべた。


「私だってわかってるわ。たとえ私に手をあげなくても、これがDVだってことくらい」


 私は彼女がやたら「わかってた」と繰り返すのを黙って聞いていた。それは認めたくなかった気持ちの現れだと苦々しく感じながら。


「あの日は家に主人がいたから、『コンビニに行く』って嘘をついて、町内を歩きながら携帯で相談機関の人と話したの」


 彼女は『オレンジ・ブロッサム』で喉を潤し、力ない声で話を続けた。


「夕暮れの中でね、担当してくれた人が穏やかな声で話を聞いてくれるのよ。話すうちに、涙がポロポロ溢れて止まらなかった。見ず知らずの人にはっきりと『あなたが辛いと思っているなら、DVですね』って言われてね、認めたくなかった事実をすんなり受け入れることができたわ」


 そして、真輝に目を向け、切ない顔をした。


「ほら、友達は私をかばうじゃない。だけど、客観的に言われたら諦めがついたの」


 真輝が唇を噛み締めた。詩織は腫れぼったい目で、そんな真輝にそっと笑う。


「話しているうちにね、癇癪が怖い自分と、主人を愛している自分と、更にもう一人の自分に気づいたわ。私、単に独りになるのが怖かったのよ。相談機関の人は答えなんてくれない。『あなたの決断次第です』って言われた。だから私、その夜は離婚しなかった。それから数週間待って、主人がいつも通りのときに話し合ったのよ。離婚したほうがいいんじゃないかって」


「それで、旦那さんにはなんて言われたの?」


「主人はね、いつもは離婚したくないって言ってたけど、あのときだけは私の態度に何か違うものがあるって感じたみたいで。『そうしたほうがいいかもしれない』ってふっきれた感じで言ってくれたの。癇癪のときにヤケになって『どうせ、離婚したいんだろ。だったら離婚しよう』って言っていたのとは違ってね、納得した声だった。だから決めたのよ」


 私は口を挟まずに、メーカーズマークを呑み込んだ。

 離婚っていうのは、結婚よりもパワーがいる。そう言ってたのは誰だったかな、などと考えながら。


 真輝が静かに尋ねた。


「それで、旦那さんは今どうしてるの?」


「まだ一緒に暮らしてるわ」


「えぇ?」


「家が見つかるまではいるみたいよ。今のアパートの名義は私だから、主人が出て行くってことになってるんだけどね。壁の修理代はもらったから、後は良い物件がみつかれば、すぐにでも引っ越すみたい」


「そうか、物件探しって問題もあるのね。そうだとしても、離婚したのに一緒にいるって変ね」


 納得しがたいらしく、真輝が唇を尖らせた。


「友達のところにでも転がりこめばいいじゃない。また癇癪を起こしたら、離婚の意味がないじゃないの」


「大丈夫よ。あの人ね、離婚して以来、癇癪を起こさなくなったの」


 詩織は乾いた笑いを浮かべた。


「不思議でしょ? 結婚や離婚なんて、たった紙切れ一枚の契約なのにね。夫婦じゃなくなったら、どんなに怒っても壁にあたらないのよ。きっと、夫婦ってことで甘えていたのね」


 彼女は残りの『オレンジ・ブロッサム』を綺麗に飲み干した。そして、しんみりと呟く。


「私たちも結婚したときはオレンジの花が咲いたように輝いていたはずなのにね。花はいつか散るとわかっていても、やりきれないわ。私たちはいつから枯れ始めていたのかもわからないの」


 すると、尊がそっといたわるように言った。


「それでも、また咲きますよ」


「えっ?」


「きっと、また詩織さんの『オレンジ・ブロッサム』は咲きますよ。今度は違う人の枝でね。だって、オレンジの花は枯れるけど、また咲くものだからね」


 それを聞いた詩織が口許を緩めた。


「そうかしら? そうだといいけれど」


 そして、空になったグラスを指でなぞる。


「私、主人が意地を張って『離婚する』って言っているうちは頑張れました。だけど、あのふっきれたような『離婚しよう』って言葉を聞いたときに、『あぁ、終わったんだな』って気づいてしまったんですよね。それまでは壁の穴を見るたびに、心までえぐれたようでした。でもそのとき以来、壁を見ると心にもポッカリ穴があいたように感じてしまうんです」


 尊が深く頷いて、こう提案した。


「詩織さん、もう一杯飲みませんか? サービスですから、是非」


 彼女が無言で頷くと、尊は一杯のカクテルを作り、カウンターにコースターを添えて差し出した。


 彼が詩織のために作ったのは、鮮やかな『テキーラ・サンライズ』だった。『テキーラ・サンライズ』はその名の通りテキーラがベースで、オレンジ色の酒の底に真っ赤なグレナデン・シロップ、つまりザクロのシロップが沈むカクテルだ。


「こちらは『テキーラ・サンライズ』と言ってね、『オレンジ・ブロッサム』と同じくオレンジジュースを使うカクテルです」


 尊と真輝が見守る中、詩織はそっと一口含んだ。


「......甘くて美味しい」


「このカクテルは俺の先輩が好きなカクテルなんですけどね、『日の出』を意味しているんですよ」


 尊が静かに微笑む。彼の言う『先輩』とはかつて琥珀亭で修行していた暁という男のことだ。

 暁は長年、真輝を恋い慕っていた。同時に真輝の夫となった尊の良き先輩でもある。彼らは今でも友人として親しく付き合っているようだった。


「詩織さんはね、枯れて終わったんじゃないですよ。日の出みたいに、これから何かが始まるんです。そう思いたいじゃないですか」


「ありがとう」


 詩織は微笑む。その笑みにはさっきまでの切なさはなかった。今やっと、彼女は心の底から笑っている。


「真輝は良い旦那さんを持ったわね」


 真輝が目を細めた。


「詩織はまだ出逢っていないだけよ」


「そう思うことにするわ。だって、私はまだ日が昇ったばかりだものね」


 私はハイライトを取り出し、静かに火をつけた。今日の煙草はいつもより辛い味がする。

 そうさ。人生は短いようで長いからね。人生は長いようで短いと思うかどうかは、気の持ちようさ。心の中で、そう彼女に語りかけながら、螺旋を描いて漂う紫煙を見ていた。


 詩織は何度も礼を言い、店をあとにした。

 彼女が扉の向こうに姿を消してしばらく経つと、尊がため息まじりに言った。


「かばう訳じゃないけど、多分さ、旦那さんも詩織さんを愛してはいたんだよな」


 真輝が心外だと言わんばかりに眉をつり上げる。


「そうは思えないわよ。だって何も悪いことをしていない詩織に、怒鳴りまくって暴れるのよ?」


「ほっとするからこそ、家で暴れるんだろ? 言い換えれば、詩織さんの傍が唯一、彼が心から安らげる場所だったんじゃないかな? 外ではがんじがらめでも、きっと詩織さんの前では無防備でいられたんだ」


「そんなの、ただの甘えだわ」


 キッパリと切り捨てた真輝に、尊はこう付け加えた。


「うん、そうかもしれない。きっと、彼女は妻である以上に、母親になってしまったのかもしれないね。でもね、きっと最後の『離婚しよう』って言葉は、彼女を思ってのことだと思うよ。自分だって離れたくないだろうに、自分の安らぎよりも彼女の幸せを願ったんだ」


 真輝は不服のようだった。なにせ、幼なじみにあれだけのことをした男だから許せない気持ちが強いのだろう。


 でもね、私は尊の言葉に頷いていた。

 きっと、その男は愚かなほどに不器用だったんだろうさ。オレンジの花をそっと見守ることができず、愛しいあまりに手折ってしまったんだ。やりきれないものだ。


 私は胸に残った切なさを洗い流そうと、メーカーズマークを飲み干した。氷のカランと乾いた音が、やたら虚しく聞こえたよ。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る