第一章 ラフロイグのような人
「北国にもやっと春が来たね」
ここは、このあたりじゃ老舗のバーとしてちょっとは名の知れた琥珀亭だ。そのカウンターの奥のいつもの席で、私はほっこりした気分になっていた。
今日のお通しはバーニャカウダだったが、あいにく私はアンチョビが苦手だった。それを知っているマスターの尊が、私のために『うどの酢みそ和え』を用意してくれていた。その心遣いもありがたいし、もう『うど』が出回る季節になったのかと、思いがけず遅い春を感じ、すっかり嬉しくなった。
「お凛さん限定メニューですよ。ちょうど、うちの兄貴がうどを送ってくれたんです」
尊は私のことを『お凛さん』と呼ぶ。本当は凛々子という名前だが、そう呼んだのは死んだ琥珀亭の創業者である蓮太郎とその妻、遥だけだ。
「尊、私の好みがわかってるじゃないか」
いそいそと箸に手を伸ばす私に、尊は人なつこい笑顔を向ける。
「三年もお通しを出してたら、自然と覚えますよ。なにせ、お凛さんはほぼ毎日いらっしゃいますからね」
「尊がこの店で働き出して、もうそんなになるかね」
私の言葉に応えたのは、この琥珀亭のオーナーである真輝だった。
「早いものですね。なんだかもっと昔からいるような気がしますけど」
尊と真輝が結婚したのは去年のことだった。新婚さんという感じがしないのは真輝が初婚ではないせいだろうか。
いや、違うだろう。こいつらのことだから、最初から最後まで、ずっと穏やかな空気を醸し出しているんだろうね。
そんなことを考えながら、酢みそ和えを噛み締めたときだった。琥珀亭の扉につけられた呼び鈴が『カラン』とレトロな音をたてた。
「いらっしゃいませ」
尊と真輝が出迎えたのは、一組の男と女だった。
「いらっしゃいませ。どうぞ、空いているお席へ」
真輝がそう促し、彼らの脱いだジャケットを受け取った。二人はカウンターの中央に並んで座る。私に近いほうに女が。向こう側に男が腰を下ろした。
私は横目で彼らを見た。男は知らない顔だが、女は見覚えがあった。何度か他の男と来ていた気がする。だけど、そんな気がする程度のもので、どんな話をしていたか、何を飲んでいたかまでは記憶になかった。
「素敵なお店だなぁ」
そう言いながら琥珀亭を見回す男はいたって真面目な印象だった。
「そうでしょう?」
まるで自分の家を褒められたように嬉しがる女は、慣れた様子で尊からにこやかにおしぼりを受け取っている。
「何になさいますか?」
尊が男に訊くと、彼は途端に困った顔になってしまった。バーに慣れていないのだろう。
「えっと......」
言い淀む彼に、真輝が助け舟を出した。
「お好みでお作りしますよ。甘いのがいいとか、強いのがいいとか、この果物を使ってとか、なんでも仰っていただければ」
次いで、尊がにこやかにこう提案した。
「今日は新鮮なグレープフルーツがありますよ。それで何かお作りしましょうか」
「あ、じゃあそれをお願いします。金井さんはどうします?」
金井さんと呼ばれた女は即座に「ラフロイグをロックで」と言った。迷いのないオーダーだ。
ラフロイグと聞き、私は「ふぅん」と心の中で唸っていた。『ラフロイグ10年』は、私が知る中で最もとっつきにくいウイスキーかもしれない。蒸留所はスコットランドのアイラ島にあり、強烈なピートと磯の香りが特徴の酒だ。
ピートというのは泥炭ともいい、麦芽を乾燥させるために使うものだ。そのピートと、蒸留所に吹き込む潮風がもたらす香りは爽快で、なおかつ力強い。「正露丸の匂い」とか「病院の匂い」と評する人を数多く見てきた。好き嫌いのはっきり別れる酒だろう。だが、スコッチ好きならここに行き着くような気もする存在感のあるウイスキーだ。
ラフロイグをグラスに注いでいる尊の隣では、真輝が素早くグレープフルーツを絞っていた。
彼女は手早く『スプモーニ』を作って男に差し出した。カンパリというリキュールをベースにしたカクテルだ。こちらは炭酸とグレープフルーツの香りが爽やかで飲みやすい。
酒が出揃ったところで、彼らは乾杯した。
「いやぁ、美味しいですねぇ」
男が明らかに浮かれている。初めてここに来た緊張もあるだろうが、その頬が赤く染まっているところを見ると、傍らの女に惚れ込んでいるらしかった。
だが、女はラフロイグを一口飲んで、こう言った。
「......えぇ、とても」
見た所、女のほうはそれほど浮かれてもいない。男の体が女に傾いているのに、彼女は真正面を向いたままだ。
私はなんとなく男が不憫になってきた。
しかし、男は彼女の様子に気づかないまま、照れ臭そうに言った。
「金井さんが会ってくれて嬉しいです。まさか、一緒に飲みに出てくれると思わなかったから」
それを聞いた女は苦笑する。
「私こそ、まさか櫻井さんが飲みに誘ってくれるとは思ってませんでした。飲まない人だとばかり思ってましたから」
「はは。普段は飲まないんですけど」
背伸びをしてでも、酒好きの彼女に合わせたのだろう。
話を聞いていると、女の友人が男を紹介したらしい。会社は同じでも、部署が違うようだ。『こっちの部署はこうです』とか『そっちの主任はこうですよね』という会話が聞こえた。プライベートで会うのは今日が初めてらしく、食事をした後に来たらしい。
男がちょっとどもりながら訊いた。
「あの、金井さんはどんな人がタイプですか?」
思わず唇の端が釣りあがってしまった。まるで学生みたいで可愛いじゃないか。
女はちょっと困った顔をして、少し考えた後、こんな答えを告げた。
「ラフロイグのような人です」
あぁ、そうか。思い出した。
私の脳裏に、いつだったかの景色が甦った。彼女はあのときに風変わりな質問をされた女だ。
数ヶ月前のことだった。
あの夜は大雪で人通りも少なく、琥珀亭にもほとんど客がいなかった。私はクリスマスの演奏会の演目を思案しながら一杯やってたんだ。これでもバイオリン教室の主宰者なんでね。
「また今年もカノンを弾きたいっていうお弟子さんが多くてねぇ。どうしてみんな、ここまであの曲が好きなのかね」
「パッフェルベルのカノンですか? 人気ありますもんね」
「それはいいんだけど、少なくとも十年は毎年演奏してるんだよ。こっちは聴き飽きちゃったよ」
そんなことを尊に愚痴っていると、一組の男女が入ってきた。男は背の高い中年で、物腰の柔らかい人だった。そのとき同席していた女が、このラフロイグを飲んでいる彼女だった。
二人はぴったり寄り添い、親しげだった。まぁ、夫婦という感じはしないから、良い仲ってやつだろうと私はさして気にもしなかった。男があの質問をするまでは。
二人は楽しげに話していたが、不意に男がグラスを置いて、彼女に問いかけた。
「君はどんな酒が好きだい?」
そのときの彼女は無邪気に笑い、手にしていたラフロイグのグラスを持ち上げた。
「そりゃ、もちろんラフロイグよ」
「どうして? その酒は匂いもアルコールも強いのに。きつくない?」
男は意味ありげに、にやりと口の端をつり上げている。
「そうね、でも独特でクセになるし、ちょっと手こずるくらいのほうが面白いわ」
私は興味をひかれた。なかなか味のある答えをするじゃないか。
すると、何を思ったか男が愉快そうに笑い出した。
「なんで笑うの?」
女もつられて一緒に笑いながら、男の腕にしなだれがかった。
「あぁ、ごめんよ。君は俺をそういう風に見てるんだと思って」
「えっ?」
「あのね、どんな酒を好きかは、どんな異性を好きかって答えと同じなんだ。少なくとも、俺の経験ではね」
はは、これは面白いことを言うもんだ。
女が驚いたようにグラスを見つめる。やがて男に視線を移し、納得したように微笑んだ。
「......そうね。本当にそう思うわ」
彼女は愛くるしい顔立ちだった。綺麗というよりは可愛いタイプで、決して美人とは言えなかった。だが、そのときの顔は確かに美しかった。愛に満ちて、輝いていたとでも言おうか。
二人が雪の降りしきる街へ消えて行ったのを見届けた私は、思案の内容を演奏会の演目から彼らにすり替えていた。
男のほうが一枚上手といった感じだろう。女が無邪気に彼を愛しているのを、男は嬉しがり、そして誇らしく思っている様子だった。
それ以来、ラフロイグのような男はこの店に来ていない。そして今夜、女は違う男を連れてきた。
きっと、あの二人は終わったんだろうが、女の心にはラフロイグの匂いが染み付いて消えないままなんだろうね。
「ラフロイグのような人ですか?」
櫻井さんと呼ばれた男は、女の答えに戸惑いを隠せないようだった。
「金井さんは面白いことを言うんですね」
そうは言ったが、まるで意味がわからないという顔をしていた。
まぁ、そうだろうね。答えをはぐらかされたと思っても仕方のない答えだ。けれど、あのときのやりとりを知っている私や尊には、彼女の本当の答えがわかる。ある意味、残酷だね。肝心の櫻井さんには決して届かない答えなんだから。
女が寂しげに笑う。彼女も私と同じように感じたらしい。
それからも、彼らの会話は世間話の域を出ないままだった。
時折、彼女はこっそりバッグの中の携帯電話に目をやる。きっと、あの男からの連絡を期待しているんだろう。
だが、その期待は淡いまま消えていくばかりらしかった。彼らが店を出る直前に、もう一度バッグを覗き込んだ彼女の顔がそう言っていた。
櫻井さんと金井さんの二人が出て行った後、私はすっかり空になったグラスにメーカーズマークを足してもらった。
あぁ、今夜の酒はなんだか辛いね。うまくいかないもんだ。演奏会の演目も、男も、女も。
翌日にもなると、私は金井さんと櫻井さんのことをすっかり忘れてしまっていた。あの夜以来、二人とも琥珀亭に姿を見せなかったからだ。
ところが、二週間程した頃だった。あの金井さんが琥珀亭の扉を開けて入ってきた。今度は独りだ。
尊はおしぼりを渡すと、にこやかに「ラフロイグにします?」と訊いた。だが、彼女はぎこちなく微笑み、首を横に振る。
「いいえ。今日は......スプモーニを」
尊は笑顔のまま「かしこまりました」と答え、グレープフルーツを取り出した。その瞬間、あいつの右眉がちょっとだけ上がったのを私は見逃さなかった。おやおや、あいつも私同様「意外だな」と感じたようだ。
金井さんは、カウンターに真っ赤なカンパリのボトルが置かれるのを、ぼんやりと見ていた。その顔を見れば、何かあったんだろうとは察しがつく。いつも決まってラフロイグを頼む女がスプモーニを飲みたがるんだから、なおのことだ。
私はあの夜にスプモーニを嬉しそうに飲んでいた男を思い浮かべた。櫻井さんという人は真面目そうで、あまり女性と接したことがない様子だった。必死に慣れない酒を飲んでいた健気な姿を思い出し、なんとなく切なくなった。
スプモーニを飲み、金井さんはなにやらずっと思案していたようだった。
そのうち、彼女のバッグの中で携帯電話が震える音がした。慌てて電話を手にした彼女が、すうっと目を細める。そして躊躇しながら、指で操作し始めた。メールでも読んでいるのか、彼女の視線が携帯電話に釘付けになる。
あのラフロイグのような男だろうか。それとも、スプモーニの男だろうか。
彼女の口許が弛み、そしてキュッと結ばれる。それはこみ上げる笑みを押さえるためなのか、それとも覚悟を決めた仕草だったのかはわからないけれど、目には穏やかなものが光っていた。携帯電話に何か文字を打ち込んでいる。言葉を選ぶように、ゆっくりと。
やがて、送信を終えたらしく、彼女は携帯電話をバッグにしまいこむと、またカウンターのスプモーニに向き直った。その顔は晴れ晴れとして見えた。
そして、彼女は尊にこう言ったんだ。
「マスター、今からもう一人来ますから」
「かしこまりました」
「......まだグレープフルーツ、あります?」
尊が力強く頷いて見せる。
「もちろんですよ」
尊と真輝も察したらしい。彼らは目配せをして微笑んだ。
私はメーカーズマークを飲み、頬杖をついた。もう少しであの真面目そうな男が頬を染めてやって来るだろう。それが我が事のように嬉しかった。
ラフロイグの匂いが好きな彼女が、スプモーニで満足できるのかは疑わしい。だが、そんなことは二人にしかわからないことだ。スプモーニのほろ苦い甘さに幸せを見出すかもしれないし、彼女は思い入れで好きな酒が変わるタイプかもしれないしね。
ただ言えることは、あのスプモーニの男の誠実さにでも女はほだされたんだ。それはそれで良いじゃないか。
私はニッとしながらポケットから煙草を取り出した。ハイライトの辛い煙を吐き出すと、メーカーズマークを口に流し込む。
春は出逢いと別れの季節なんて使い古された言葉は言わないが、誰かと誰かの始まりに立ち会えるのは幸せなことさ。
あぁ、今夜の酒は美味そうだね。ちょっとほろ苦いけどさ。だが、それも悪くない。そう、悪くないさ。
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