第九章 ホップ・ステップ・グラスホッパー!

「もう6月だねぇ」


 私は頬杖をついてグラスを煽った。琥珀亭のカウンターにある花瓶にはちょっと前までチューリップが飾ってあったが、今夜はオレンジの薔薇だった。


「そうですね。もう春は終わりですね」


 カウンターでは真輝がのほほんと応えてくれた。『春は終わり』なんて言いながら、春のひだまりのような笑顔をする子だよ。


 そんなことを考えていると、扉が開いて、呼び鈴の音と共に賑やかな声がした。思わず視線をやると、なんとも華々しい出で立ちの女の子が二人、お揃いの白い紙袋を持って入ってきた。


「あの、カウンターいいですか?」


 そう言ったのは長い髪をふんわりと結い上げた子だった。なかなかの美人だ。

 後ろにいる女の子は綺麗な艶のあるボブをしていて、きょろきょろ店内を見回している。二人ともシフォンのドレスにボレロを羽織っていた。


「いらっしゃいませ。どうぞ、こちらへ」


 真輝がにこやかに私から少し離れた席を案内した。


「すみません」


 髪の長い子が会釈しながら愛想良く言った。耳たぶから垂れるピアスが照明を受けてキラキラ眩しい。

 彼女たちは紙袋を足元に置き、嬉々としてカウンターに座った。


「何になさいましょう?」


 真輝がおしぼりを出しながら言うと、髪の長い子が元気よく言った。


「私、キューバ・リブレで。ねぇ、翔子は?」


 勝ち気そうな声で、隣にいるボブの子をショウコと呼んだ。


「えっと、私は甘いのがいいかなぁ。デザート足りなかったもん」


 こちらはおっとりした口調をしている。口を尖らせるクセがあるらしく、翔子は唇を前に突き出してのんびり答えた。


「本当に翔子は甘い物が好きね。だから私のデザートもあげるって言ったのに」


「だって、春菜も食べたかったでしょ?」


 ハルナというらしい髪の長い子が、ニッと笑う。


「まぁね」


 二人が鈴を鳴らすように笑った。そのやりとりを微笑ましく見ていた真輝が、話しかける。


「もしかして、結婚式だったんですか?」


「はい」


 春菜のほうが答え、翔子がにこやかに何度か頷いた。


「友達の結婚式の帰りなんです」


「そうだったんですか。ジューン・ブライドなんて素敵ですね」


 真輝はうっとりしながら、手元を動かし始めた。


 私はメーカーズマークを揺らしながら、ちょっと華々しい気持ちになった。そうか、六月といえばジューン・ブライドだね。春は終わったけど、誰かと誰かの毎日が始まるんだ。実にいいもんだ。


 ふむ、今日の酒は美味くなりそうな予感がしてきたよ。


「お待たせいたしました」


 真輝がそう言いながら、出来上がったばかりのカクテルを寄せる。春菜にはキューバ・リブレが、翔子にはホワイト・ルシアンが出され、一斉に歓声が上がった。


 春菜のオーダーした『キューバ・リブレ』はラムをベースにしたカクテルだ。ライムの入ったラム・コークと言えばわかりやすいかね。

 一方、翔子の飲む『ホワイト・ルシアン』はウォッカをベースにしたカクテルだが、アイスコーヒーに生クリームが乗っているような酒だろう。


「乾杯!」


 二人が同時にそう言い、一緒に「美味しい!」と足をバタバタさせた。以前から不思議に思っていたが、美味しいものや甘いものを口にして感激すると足をバタつかせる女の子がよくいる。あれは何で足をバタバタさせちまうんだろう?

 私は目を細めて、実に嬉しそうにカクテルを飲む二人を目の端で見た。ここまで喜んでもらえると、バーテンダーとしても作った甲斐があるだろう。実際、真輝は少し照れたような微笑みを浮かべていた。


「それにしても結婚式、良かったねぇ」


 春菜がグラス片手にため息を漏らすと、翔子も「うん」と頷いた。


「私、両親に花束渡すところで泣いちゃったよ」


「私も。いいわよねぇ。結婚したいなぁ」


「春菜は彼氏いるからまだいいわよ。私はまず相手を探さないと」


「翔子は奥手だもんねぇ」


 ちょっと気の強そうな春菜と、ちょっとおっとりの翔子。性格が違うからこそ、うまくいっているタイプの友達らしい。


「ていうかさ、翔子は彼氏よりも先に仕事見つけたほうがいいでしょ」


 春菜が思い出したように言い、顔をしかめた。


「さっき聞いてびっくりしたよ。なんでいきなり仕事辞めるなんて言い出すの?」


 翔子が慌てて『違う』というシェスチャーをした。


「私の意志じゃなくて、会社の契約期間が切れたのよ。ずっと更新してきたんだけど、今回は更新はしないって言われちゃって......」


 おや、結婚式を夢見る話から急に現実的な話になってきたね。


「会社もひどいわよね、もっと早く言ってくれればいいのに。でもまぁ、良かったんじゃないの? 翔子、仕事に不満あったんでしょ? いつも愚痴ってたじゃない」


「そうなんだけどね。いきなり職を探せって言われても、自分が何をしたいかもわからなくて途方に暮れちゃうわ」


 困ったように笑う翔子に、春菜がため息を漏らす。


「だから、もっと早く転職しろって言ってたのに。こう言っちゃ悪いけど、アルバイト同然だったじゃない。ボーナスも燃料手当もなし、交通費と保険はついても時給制だなんて」


 燃料手当とは、いかにも北海道らしいもので、冬場の暖房で消費する燃料代として支給される手当のことだ。私みたいな自営業から見れば、燃料手当もボーナスももらえるだけありがたい話だね。


 それにしても、ずいぶんハッキリ物を言う子だ。片や翔子は困ったように笑っている。

 すると、話を聞いていたマスターの尊が翔子に同調した。


「わかりますよ。俺も前はそうでしたから」


 そうだった。こいつは大学を卒業してもやりたい仕事がわからないって悩んで、結局ここにたどり着いたんだった。


「えぇ? マスターもですか?」


 仲間を見つけて心強そうな翔子に、尊が頷く。


「俺はご縁があって、ここのバーテンダーになりましたけどね。あの頃は何をしていいかわからないし、やりたいこと......っていうか、自分にできることがわからなくて」


 そう言うと、彼は「はは」と笑う。


「あの頃はバーテンダーになるなんて夢にも思ってなかったんですよ」


「そうなんですよ。私も自分にできることってあるかなぁって自信持てなくて。面接が怖いんです」


 肩を落とす翔子に、春菜が励ますように言った。


「何言ってるのよ。あんたって大抵のことなら人並み以上にこなすじゃない。パソコンもできるし、気遣いできるし」


「でもね、就職に役立つような資格もないしね」


 そう言って項垂れる翔子は、さっきまで明るい声で結婚式の話をしていたとは思えない顔つきだった。


「春菜はすごいよ。自分に自信もてて、バリバリ仕事もして、ボーナスもあって......」


 すると、春菜が心外そうに言った。


「あら、自分に自信がもてないのは一緒よ。だけど、努力するしかないじゃない。私だって泣いてきたし、パソコン打つのだって指一本から始めたし。それにね......」


 春菜が叱咤にも似た声で言い放った。


「ボーナスをもらうのは、それだけの仕事をしているからよ。前にも言ったじゃない。満足な給料をもらうには、自分で行動を起こして転職して、それだけの仕事をこなさなきゃって」


「うん、そうよね......駄目ね、私ったら。いつも臆病っていうか、腰が重いの。なのにぬるま湯に浸かって文句ばっかり」


「そこまで言わないけど、勿体ないっていうか、歯がゆいのよ。翔子は絶対に仕事ができる子だもん。優しいし、同僚にも好かれるし。翔子にはもっと良い職場が絶対あるから!」


 春菜のキツい口調は心配の現れのようだった。

 そんな二人を見て、尊が優しく翔子に話しかける。


「コツを教えましょうか?」


「え?」


 尊の一言に、翔子だけでなく春菜も興味津々の顔になった。尊が冗談めいた口調で二人の顔を見回しながら言う。


「二つあるんです。一つはね、面接の前に自分にこの仕事がつとまるかなぁって不安に思ったら、その職場にいる自分を無理矢理にでも想像するんですよ」


「想像、ですか?」


 呆気にとられる春菜に、尊が笑う。


「想像というか、妄想というか。やってみると、意外と勇気が出ますよ。『きっとこんな仕事するんだろうなぁ』ってことでもいいから、とにかく想像するんです。なんとなく自分が働いている姿が想像できたら、きっとその職場である程度はやっていけます。後は自分の努力次第ですけど」


 彼は力強く、翔子に頷いてみせた。


「自分でリアルに想像できることは、大抵叶うんです」


 口をうっすら開けながら、翔子が「そうか......」と呟く。

 春菜が目を輝かせて尋ねた。


「それで、もう一つのコツは?」


 尊がカウンターに両手をついて、こう言った。


「これは俺の友人が言っていたんですけどね。目の前の仕事を天職にしちゃうんです。天職に出逢える人なんて、滅多にいません。天職を探すより、その方が手っ取り早いでしょ?」


「でも......それって、難しいですよね」


 戸惑う翔子に、彼が勇気づけるように言った。


「それがね、簡単にする方法があるんです」


 尊がにこやかに続ける。


「さっき、翔子さんは『ぬるま湯に浸かって、文句ばっかり』って言ってましたよね」


「あ、はい」


「わかりますよ。どうしても嫌いなところとか、不満なところに目がいっちゃうじゃないですか」


「そうなんです。気がつけば誰かに愚痴とか文句ばっかり言ってて、相手もうんざりするってわかってるけど止められなくて。そんな自分が嫌いなんです。ぬるま湯から飛び出そうともしないまま、そこでぬくぬくしてるくせにね」


 すっかり落ち込む翔子に、春菜が言う。


「嫌いになんてならないよ。私も愚痴聞いてもらってるじゃない。だけど、心配はするんだからね」


 それを聞いて、翔子の顔がいくらか明るくなった。


「ありがとう、春菜......」


 良い友達じゃないか。尊も微笑ましく、彼女たちを見ている。


「ねぇ、翔子さん。今度の職場では愚痴を言いそうになったら、好きなところを無理矢理にでも数えるといいですよ」


「好きなところですか?」


「そう。頭の中ででもノートにつけてもいいんです。何でもいいから『いいな』とか『好きだな』ってことを見つけていくんですよ。家から近いとか、食堂が美味いとか、そんなことでもいいんです」


 尊が腕組みをした。


「例えば、この店で言うなら『いろんな人と出会える』とか『お酒に詳しくなる』とか......」


 そこですかさず、私がチャチャを入れてやった。


「奥さんと出逢えたとかな」


「からかわないでくださいよ!」


 慌てふためいた尊に、二人の女の子がわっと笑う。


「マスター、顔が真っ赤ですよ」


 翔子がやっと白い歯を見せた。尊が咳払いをして誤摩化すと、こう言った。


「まぁ、要は好きなところを見つけるのが上手になればいいんです。そうすれば、きっと気持ちが違いますよ」


 春菜がニヤニヤして言う。


「それって恋愛でも同じかも。恋してるうちはそうだもんね。仕事に恋すれば、恋愛上手になるかもよ。マスターみたいに」


 また尊の顔が真っ赤になった。妻の真輝は隣で笑いを堪えている。

 春菜も翔子も、腹の底から笑っていた。

 やっぱり、女の子には笑顔が一番だね。そう思ったとき、尊が言う。


「翔子さん。職場でもその笑顔をずっと忘れなければ大丈夫ですよ。女の子の笑顔は資格よりも大事なときがありますよ」


 おやおや、尊は私と同じことを考えていたらしい。私はにやりとして、黙ってウイスキーを喉に流し込んだ。


 グラスの残りが少ないことに気づいた真輝が「何かお作りしましょうか」と訊ねた。二人は顔を見合わせて真輝にこう言う。


「お任せで」


「かしこまりました」


 真輝はそっと微笑み、冷蔵庫から生クリームを取り出した。他にもライムとジンジャー・エールを取り出すのが見える。

 真輝が材料をシェイカーに入れてシェイクすると、二人は頬を染めて「わぁ、バーに来たって感じ」と喜んだ。


「どうぞ」


 真輝が春菜に銅製のカップに入れた『モスコー・ミュール』を差し出した。ウオッカがベースになっているカクテルだ。

 一方、翔子には緑色のショートカクテル『グラスホッパー』が出された。こちらはリキュールがベースになっている。


「あ、さっぱりしてて美味しい!」


 モスコー・ミュールを飲んだ春菜が喜んでいると、その隣で翔子がほわぁと口許を綻ばせてグラスホッパーを軽く掲げた。


「こっちはチョコミントみたいな味がする」


 二人は互いのカクテルを味見して、顔を見合わせて笑う。

 その様子に、真輝が微笑んだ。


「翔子さん、その『グラスホッパー』はバッタを意味するんですよ」


「そうか、緑色をしているもんね」


「転職、きっとうまくいきますよ。バッタにあやかって、次のステップに跳んでいけますから」


「ホップ、ステップ、グラス・ホッパーね」


 酔ってきた春菜が笑う。


「なにもバッタみたいに自分の身長の何倍も跳べって言ってるんじゃないんだから。人間なんだから三段跳びで良いのよ」


「走り幅跳びみたいに?」


「オリンピックを目指せって訳じゃないからね。ちょっとでもいいのよ。少しずつ勢いつけて、ちょっと思い切って跳べばいいんじゃない? 仕事も恋愛も」


 翔子がにっこりした。


「ふふ、そうね」


 そして、グラスの脚をそっと指でなぞった。


「私、今ならぬるま湯から思い切り跳べる気がするわ」


 ふと、春菜がカップを持ち上げて、真輝に訊ねた。


「こっちの『モスコー・ミュール』はどんな意味なんですか?」


「こちらは直訳すると『モスクワのラバ』なんです。元々はジンジャー・エールではなくジンジャー・ビアで作る強いカクテルなので、ラバに蹴られたように強い酒って意味もあるんですよ」


「よし、じゃあ私がラバの足で翔子の背中を思いっきり蹴ってあげるわ」


「蹴るより押してよ」


 翔子は呆れたような顔をしたが、ふと春菜に笑みを向けた。


「......いつも、ありがとう」


 すると、春菜が笑う。


「お互い様よ。知らないのね。私がどれだけ翔子に助けられているか」


「そう?」


「そうよ」


 二人は黙ったまま視線を交わし、酒を飲んだ。


 あぁ、いつかの私と遥みたいじゃないか。私は彼女たちのやりとりを見て、思わず真輝の死んだ祖母を思い出した。


 私の想い人だった蓮太郎と結婚した彼女は、無二の親友だった。儚げに笑う、粋な女だったよ。優しくて、温かくて、それでいて弱かった。私も春菜のようによく発破をかけたもんだ。


 明日にでも墓参りに行こうかと、私はメーカーズマークの香りを嗅ぎながら、人知れず笑う。

 きっと、あいつは草葉の陰から笑うね。『お盆はまだ先よ。相変わらずせっかちなのね』ってね。真輝にそっくりな声でさ。

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