第5話

弥生の別名は桃月。あたたかい陽ざし。春の風は柔らかな緑の中、烏のえんどうや仏の座の薄紫で埋め尽くされた土手を、しなやかに波打たせている。岩は姿見川の小高い堤の上に立ちながら、何処から流れてくるのか白い桃の花に纏われ付かれながら、幼子たちの水遊びを眺めていた。


「瀬を早み岩にせかるる瀧川のわれても末に逢わんとぞ思ふ…… 」岩はそっと口ずさむ。


童たちは浅瀬から赤まんまを乗せた笹舟などを流しては囃し立ている。泥蟹や川海老を突ついている。女児めごは草原を分けて穂着いた赤まんまや蓮華などを摘んでいる。やがて笹舟を追うのに飽きた男児なごも加わって、春の若草を探り出した。


田奈たんぽぽの綿がきらきらと宙を翔ぶ。童たちがはしゃぎながらそれを追う。岩は西日を眩しそうに掌を翳しながらその遊びを眺めていた。


「遊びをせんとや生まれけむ

 戯れせんとや生まれけん…… 」


椎の実の様なかんばせに、凛とした鼻梁を通して黛薄く、一重の瞬きと水蜜桃の如く淡く柔らかな頬。下唇だけは少し厚い。微笑うとその辺りの邪気が全て解除げじょされて華芳に包まれるが如くと言われた。


「速水のお嬢さまはかぐや姫も見惚れる美貌だ」とか「なんの女菩薩じゃろう」やれ「観音さまのようじゃ」などと人は褒めそやした。それほど速水家の一人娘於岩は麗しかった。


とは言え、十五、六の歳で嫁ぎもする世の中、岩は二十歳もとうに過ぎて婚期をのがしていた。

その理由と言えば、速水家の一人娘である於岩は婿を貰わねばならない立場であったからだ。

だがしかし、三十俵三人扶持の御先出筒組の貧乏同心の家に、婿入りする部屋住みは、酔狂でもそうおりはしなかった。


三十俵三人扶持とは、徳川幕府及び各家中における同心などの士分の俸禄の格である。直参の中に於いて、お目見え以下の御家人の基本的な家禄の格が、この三十俵三人扶持(あるいは二人扶持)で、三十俵を年俸として春二月、夏五月、秋十月の年三季に分けて切米(蔵米)を支給される。

春夏にそれぞれ四分の一ずつ、二分の一を秋に支給される。一俵は米三斗五升である。扶持取の扶持は食料としての扶助(あるいは合力)という意味で、毎月支給される米であるから、月給と言うことなのだが、男が一日に食する米は玄米で五合(月で一斗五升)と見積もって一人扶持(一人分)とした。

普通は米一石は十斗であり、それは百升であり、千合である。お目見え以上の旗本などは知行取であったりする。

中間や足軽などは十五俵二人扶持であり、最も下級の武士である供侍や箱持ちなどは三両一人扶持(いわゆるサンピン)であり侍扱いされぬ事もあった。

御先出組は、組頭与力など出役が付く事もある身ならいざ知らず、同心などは太平の世に出世の見込みも無い門番の勤め。筒組は火器の備えと砲具納屋の整備。それを同格同士で分け合う為に、扶持も目減りして活計は四苦八苦している始末。内儀の美貌如きで飯が食える訳ではない。


神君御用の先駆け衆の誇りのみで武張ってみても、札差に借金してまでもその日暮。袴着で御役目に向かうならまだましだが、普段での襤褸ぼろの様な擦り切れやつれた着流し姿は、穢多や非人にも舌打ちされる者もある。乞食にも領分があって、そんな身なりで角辻でお貰いをしようものなら、賤しき輩に袋叩きにも遭うのだ。

ほんに組同心などは、商人に頭を下げて手内職を分けて貰うしかないのだ。職人と変わらない。貧困層なのであった。


その様な同心身分の速水家にやっと婿入りする者が現れた。それは二年前の事。

勢州浪人田宮伊右衛門は、江戸に出て来てからはよしみの者のツテで、雑司ヶ谷は高田四ツ家に在る久邇蔭流剣術の境道場に入門した。

元来の素質に加え途切れない日々の稽古修練の末、先達よりも早くに免許を皆伝したが、それより前、道場主の境格之進にその腕前を買われて、目録の頃より道場の師範代となって今に至る。伊右衛門は紀門田宮流居合術の免許皆伝でもある。


伊右衛門と岩に馴れ初めなどあろうはずがない。

速水家は四ツ谷左門町の組屋敷で境道場は雑司ヶ谷の四ツ家高田町。

御家人と片や伊勢亀山郡から流れてきた浪人がそう容易たやすく昵懇になるものではない。

しかし、伊右衛門を見染めたのは岩の父又速水左衛門その人であった。


婚礼は今のように自由恋愛の末の儀礼ではない時代。お互いの意思などより家と家の繋がり関わりで設える儀礼であった。まして片や浪人。


更に言えば、岩の父による婿探しは家督の事もあるのだが、如何やら御役目の儀に関わる大事である様子で、何処の誰でも構わないという事ではないらしい。

それこそ岩の若い頃には、御家人株欲しさの中店の次男坊三男坊からは引く手数多であったのだが、又左衛門は多額の持参金にも目もくれずに断り続け、頑なに武家の血筋を求めて探し今に至っていた。なのに遂には浪人を婿殿に…… 。

境道場の師範代をしていた田宮伊右衛門は、師匠の勧めで念流の達人速水又左衛門の元で新たな剣技の修練を始めた。稽古をつける内に、又左衛門も当節の若者の中で群を抜く剣の腕前であることに瞠目していた。

まぁ、惚れたのだ、伊右衛門に。

娘の岩が惚れる前に父親の又左衛門が惚れたのだから仕方ない。それから程なくして当の本人たちも気持ちを通わせるに至るに時間は掛からなかった。二年前の丙子の年の事である。



そして今年、文政元年戊寅(つちのえとら)

本日は伊右衛門夫婦の媒酌人たる境道場御主境格之進幹嗣に、妻於岩の懐妊の挨拶に来ていた。

が思いの外、道場の今後の事で話が混み合ってきてしまったので、女の口を挟む余地もなく遠慮した岩は、小者の小平を連れて氷川社にちょっとした遊山に出ることにしたのだ。この日は社の縁日で賑やかだった参道を娯しんだ岩も、今は景内の人混みにも疲れて土手に涼みに来たのだ。


芥子坊や唐子髷の児わっぱ等は、芹やなずなふきとうを思い思いに摘み終えると、岩を囲む様に周りに集まって来た。

「おやまぁ、たくさん採れたのぅ」

岩は二、三の頭を撫でてから、袂から鴇色とき帛紗ふくさを取り出して、中の懐紙にくるんでおいた綿のような小粒の砂糖菓子を、一人一人の口につまみ入れた。皆、その甘さに口元を緩め目を見張ってお互いの顔を見合わせた。


屈んだ岩は児らの持ち寄った春の食草を選り分けていく。

「皆お聞き、これはこの芹と似てるけど匂いがしないでしょう。根の形も違う。どくぜりだから気をつけなきゃいけませんよ」

わっぱ等は囲んだ輪を狭めてにじり寄り、岩の掌の一握りの青菜をのぞき込んだ。押され前にてつんのめる何人かを、囃し立ては笑う幼い声に岩もつられて笑った。


「ご新造さまぁ、そろそろ旦那さまも御屋敷にお帰りになる時分でごぜぇますよー」

速水家の小者の小平が土手の上から声を張り上げて岩を呼んでいる。

岩は一度ちらりと振り返った後、手元に目線を戻して、皆にそれぞれちょうどいい塩梅の分量の草々を分けている。

そうこうしているうちに小平が側まで下りて来て「どうなさいやした」と訊いてくる。

しかし直ぐに合点して残りの青物を抱え込んだ。

「小平、口もとにきな粉がついてますよ」

あっと低い声をあげて小平は舌で己の唇をまさぐった。岩は目を細めて笑う。

「小平、重かろう。少しは持ちますよ」

「なんの、これでも若い頃からの御武家の随身。折助おりすけ呼ばわりもされる賤しき小者でやしたが、たんと鍛えておりましたので、こんくらい屁でもございやせん」

「お前にはほんに苦労かけます」

「とんでもねぇ。これがわっちのお勤め。おおっと、ちぃとばかし風が強くなりやした。春も終わるとはいえまだ肌にはこたえまさ。お腹に障りがあるといけません。さ、早う早うまいりやしょう」

二人は土手に設えた高間のきざはしを避けて、遠回りだが船着場近くの緩やかな荷車坂を昇って、姿見橋の方へ向かった。

岩は一度土手下の川面の方を振り返った。

もう誰もいる訳でもないのにはしゃぐ様な声が聴こえる。川辺りを渉る風のなか、飛ばされた綿毛だろうか、きらきらと夕暮れに輝いている。

「遊ぶ子どもの声聞かば

 わが身さえこそゆるがるれ…… 」


岩は腹をさすりながら微笑んだ。



宿坂の通りを氷川社の参道を左手に登ってゆく。小店や茶屋も旅籠も多く中々の繁華な通りだ。が、それも参道に近い界隈だけで、元々は田畑の広がる百姓地。そろそろ七つの鐘が鳴る。夕暮れ時を過ぎれば蝙蝠が飛びまわり、烏が騒ぐだけで辺りは物寂しい。

南蔵院のつづれを曲がって、砂利場の坂に主従が掛かった時に、向かいから侍が一人降りてくるのが分かった。

「ありゃ御主人さまでごぜぇますよ」

小平のその言葉に、心細さを朗るくして岩の歩みもはやくなる。

「旦那様、旦那様」

さらに岩は小走りに駆け寄ろうとする。

「これ於岩、この様な危なげな坂道を不用意に」そう言いながら、亭主の伊右衛門は大手振り大股で岩たちに近寄った。

「まだまだそんなに心配なさらなくとも、岩ならこれくらいは大丈夫で御座います」

「それが油断と言うもの」

「武家の娘なれば… 」今まで莞爾としていた目元を岩は引き締めた。

伊右衛門は苦笑するしかない。

「於岩、実はな今宵は境先生の御邸に厄介になる事となった。時分も時分、これから四ツ谷の宅まで戻るのはいささか労だでの」

「わたくしならばお気遣いなさらなくとも」

「いや先生のお心遣いを無駄にするわけにも不可ぬだろう。我らが恙無つつがなく祝言が挙げられたのも先生の肝煎きもいりがあっての事。まぁ、何事もな…… 」

「ええ、分かっております。扶持の薄い当家で、手内職などをせずに済んでいるのも、旦那様が境様の道場で師範代のお役を頂けているお陰。有難い事です」

「うむ。では小平、すまぬがお前は宅に戻って御義父殿にこの伝え文を渡して伝えておいてくれ、夫婦共々今宵は戻りませぬとな。すぐに了解してくれるはずだ」

「へい、その様にお伝えいたしやす」

「お前も気をつけるのだぞ。近頃は色々と物騒だからな」

此処何年から、ただ事ならぬくらいでは済まぬ怪し事が、江戸の夜を騒がしているのは小僧でも知っている。

「へい、分かっておりやす」

小平は軽く頭下げると元来た道を戻って行った。牛込の方から帰るのだろう。

「あれ、小平・・摘み菜を皆な持ちいった。土筆つくしも煎れば今宵のお酒のアテになるものを…… 」と岩が言ったところで声は届きはしない。健脚の小平はすでに米粒より小さい。


伊右衛門は苦笑するばかりだ。

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