第10話
シュッ
ストッ
どんどん「当たぁり〜」
紺地矢絣の女が小ぶりの粗末な太鼓を叩いて声を張りあげる。
男は矢を射た後、的を見据えたまま息を整えて静かに残心をした。
「旦那ぁ、一度も外したことないねぇ」
的をである。
男の手元の矢が無くなったので、隣にいた女はすかさず新しい矢の束を携えて持って来た。
黄櫨色の派手目な矢絣を着た女の白い襟首が汗ばんでいて妙に艶かしい。
護国寺門前、音羽町に数ある矢場の一つに与茂七はいた。馴染みの店である。
音羽護国寺は正式な名で言うと、神齢山悉地院大聖五國寺という。天和元年に五代将軍綱吉の生母桂昌院の願いにより創建された真言宗豊山派の大本山である。本尊は桂昌院が信心していた天然の琥珀で象られた如意輪観音菩薩で秘仏となっている。
綱吉が館林藩に封ぜられて以降当地に於いて、深く帰依していた上野国碓氷八幡宮の別当寺・大聖護国寺の住持・亮賢を江戸に招き、祈願寺の建立を命じたのが始まりである。
護国寺の寺名の由緒そのものは、真言密教開祖・空海が嵯峨天皇から東寺を与えられたのを、教王護国寺と名付けたからに他ならない。
護国寺本堂自体は豊島台地の上にあり、門前町は南よりやや東に向かって、関口台と小日向台に挟まれた狭窄な谷に通りが江戸川まで十町ほど続く。護国寺を京の清水寺に見立て、参道の音羽通りは朱雀大路を模したものとも言われている。音羽町が当時九丁目まであったのも京の街に一条から九条まであったからということだ。
そんな門前通りはかなりの賑わいで、土産物屋や茶屋、料理屋など繁華な店々が建ち並んでいた。
そんな中の一つ、馴染みの矢場に与茂七はいた。
暖簾に瓢箪の絵柄の書かれた瓢屋の間口は二間だが中は少し広くなって四間。元は冴えた朱塗りだったろう柱や梁の色は年季で薄く落ちている。
待合ってほどの間はなく、射場の後ろに毛羽だってくすんだ毛氈が敷かれた縁台が一脚あるだけだ。
奥行きは十間くらい。的までの距離はもっと短く七間半ほどだ。間口から射場と的場には屋根が有るが、矢道には採光の為に屋根も天蓋も無い。雨の日はまだいいが少し風が強ければ容易に的を狙えない事もある。まぁ遊戯なのだからそれほど真剣な客はいるわけではない。ほとんどの客は矢場女と戯れ合うのがお目当てなのだから。
「最近はどうだい」
弓の張りを何度か確かめた後、女の顔を見てそう言った。
「最近て・・何さ」女はつっけんどんに応えた。
「俺もまぁ当分遊びに来てなかったからな」
どこか不貞腐れ気味の女の表情に薄笑いを浮かべた。
女は後ろの卓に両肘をついて少し仰け反り気味にもたれている。
「ああ。しけてるね。昔に比べりゃ」
「昔って、おめぇは此処に来てまだ半年だろうに」歳頃は十八、十九。あどけなさを白粉と紅で隠しているが太い眉毛がどこか幼い。
「店は違えどあたしゃ音羽の人間だよ。仲町の生まれさ。子供の頃から界隈で過ごしてきたのさね。爺いから昔話も聞かされる」伝法な物言いで応える。
矢場の女は多かれ少なかれ漠連な連中だ。
こうした店の裏手には部屋が在って女は男を引っ張ってゆく。構えは矢場でも本来の家業は女郎屋みたいなものだ。だからもっと媚びた態度を客に示すのが商売上手というものだが、この矢場女けいは頓着していなかった。与茂七にだけそうなのかは分からない。
与茂七は女に八文を渡した。けいは銭を見もせずに手首を振って弄ぶとすぐに近くにいた店の小娘に渡した。
「けいはどんな字を画く」
「どんな字って。唐文字でかい。昔、手習で教わった字は、そうさね下に心がつく一字だね」
「心・・惠か」与茂七が当て推量で言う。
今頃になって聞いてくるなんてどんだけ薄情な男なんだと思った。が、こちらも名を聞くきっかけにはなった。
「旦那も名まえ、教えておくれな」
「ふふ、俺ぁ与茂七ってんだ」
「よもしち様かぁ」少し浮かれ声で呼んでみた。
「様はよせやい」弾いていた弓を戻して言う。
「でも・・身なりはともかく、髷からするとお武家だろ」と言って惠が顔を近づける。
「あん、ああ、しがねぇ身分だがよ」弓を弾く。
「あはは、見りゃ分かるよ。よれよれのお召し物だものね。差物もしないで根っからの遊び人なんだね。親は泣いてんだろうね」そんな惠の憎まれ口を聴いて力の抜けた与茂七の矢は的を外した。
「おめぇみたいなのに言われるとは思わなかったぜ」
呆れ顔で一度は惠の顔を見たが、すぐに次の矢をつがえて新しい的を射た。
どんどん「当たりぃ〜」
「旦那、やっとうはきらいなのかい」
「あん、まぁどちらかというと弓のが性に合ってるかな。だから此処に来てる」
「ふーん」女遊びじゃないって事か。
惠はまじまじと与茂七の顔を見た。
歳は二十歳代半ばだろう。少しえらが張った無骨な輪郭だが眉も目元もキリッとしていて鼻筋も通っている。凛々しい顔つきだ。ここいらに来る遊び人のぼやけた顔が多い中、与茂七は男前と言えた。見惚れた自分が恥ずかしくなって、惠は暫し下を向いて足元の砂を草履で弄んだ。
「そういやさぁ、ここいらの夜もとんと物騒になって。どっからやって来るのかあの化け物の騒ぎで」気を取り直して話し掛ける。
「ん、ああ、存糜爛か。ありゃ病いだと聞くぞ」
「病人が夜中にひょこひょこうろついて人を襲うのかねぇ」
「倒れてるヤツは爛れてはいても人のなりしてるというぜ」
「それは知ってっけど、山犬にでも襲われたみたいに形のないのもあるって聞くよ。噛まれるってより喰われているんだと。人でなくやはり化け物の仕業じゃないかね」
「なるほどな。病人なら人を襲うそんな力無ぇか。おめぇの言う通りかもしんねぇな」
その相槌が惠は嬉しかった。
「町方も『夜はうろつくな』と言うばかりでさ。下手人の目星ついてんだか…… 」声を張って言った。
「おめぇ随分と知ったこと吐かすな」与茂七が笑う。
「旦那衆が夜にうろつかなきゃ、あたしらの商売あがったりじゃないか。病人でも化け物でも構わないから、さっさと片付けてもらわないと、あたしらおまんま食えなくなって日干しになっちまうよ。あ、その前に今度はあたしらが夜な夜な襲ってまわるか、あーははは」
若ぇのに豪気な女だと与茂七は思った。
ただのすれっからしなら、年端もゆかぬ頃から半端者に嬲られて目つきが濁る。決して男に気を許したりはしないのも、艶笑の中でも眉の動きとかで分かる。矢場女なんかのほとんどはそうだ。若手も姐御の媚態を倣ってどんどんと客の惹き方を覚えてゆく。
「ねぇ、旦那。話なら裏でゆっくりしようじゃないか」惠は小首を傾げて島田に刺した珊瑚の紅い簪を直した後、与茂七に流し目を送った。
惠もそんな女たちの一人なのだから、しっかり働き方を覚えてはいる。だから同じ様にやってはみせる。が、その流し目には初心さが残っている。
「そうだな。俺もおめぇを気に入ったが、ちと用を思い出した。また今度にしよう」
「え、なんだい。つれないねぇ」
惠は最後の最後で少し拗ねてみせた。
お愛想ではなく本当にがっかりした。
与茂七は惠にお捻りを渡して矢場を出た。
惠は店の前まで小走りに追いかけてきた。
「ちょいと、与茂七の旦那。今度はたんと遊んでおくれよ」寂しさを忍ばせたその声の主はやはり幼く思えた。
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