第9話


びょーーん


何かの音がする。


びょーーん


張られた糸を弾く音だ。梓弓を啼らしているのか。

そして人の気配。


「何奴・・・ 」伊右衛門は鶴松を見上げて誰何すいかした。

夜目遠目ではっきりとした姿までは分からない。

見ると物腰が武芸の心得ある挙動。

手拭いで頰被りした袴着の男が松の幹をするすると降りて来る。二人の背丈の高さで松から飛び降りた。動きに若さがある。

二人の佇む道の先で地面が音を立てた。強く地を踏む音。そしてやや小走りの歩調が近づいてくる。

伊右衛門と又左衛門はすぐ様其方に顔を上げて差物の束にに手を掛けて身構えた。


夜目に現れる人影。

彼の者は大きな弓箭ゆみを携えていた。


「お主」男の顔を見て伊右衛門はもう一度声を掛けた。

「私は・・それがしは淵田与茂七と申します 」

手ぬぐいを外した男がそう名乗った。


「・・・婿殿、これにて今一度火を点してくれ」又左衛門は若者から目を離さずに燧石ひうちを渡した。

「あ、提灯なら某が・・・ 」与茂七は弓箭を置くと手を背中に回して探り、帯に差していた小さな無文の提灯の握りを取って抜き、懐からは小さな蝋燭を摘んで出した。

「うむ、かたじけない」


伊右衛門の起こした懐紙の炎から蝋燭に火が灯る。

三人の輪の内の明かりがそれぞれの顔を照らし出す。


又左衛門は名乗った若者の身なりを見た。袴姿ではあるが上質上等の装衣には思えなかった。身分のある人物では無さそうだ。

「細川御家中の・・・ 」家人であるのか。

「いえ、私は公儀の御家人の倅でして・・お手前方は……  」

「左様でござるか。拙者は御先出筒組同心、速水又左衛門と申す」

「同じく速水伊右衛門でござる」

「あ、これは・・私、拙家の勤めも御先出。弓組でございます。とはいえ私は冷や飯食いでございまするが」

「あ、同輩でござったか。なるほど弓箭の技量は並々ならぬ腕前」伊右衛門は硬い表情を崩して言った。

「武田流をいささか……   」

「あ、なるほど、武田流は細川家の御家流」伊右衛門はちらりと白壁の向こうを見やる。

「細川流の弓馬騎射は御留流ゆえ御指南の竹原濤斎様に直々に御指導頂く訳には参りませぬ。それ故に武田流の基礎を、一門の竹原善十郎惟匡殿に御教授頂いておる次第で」

「うむ、お手前自身の事はまた改めて聴きたいのじゃが、今はこれ、只ならぬ妖異が出来しゅったい。我々二人は逍遥の間に遭遇した次第だが、思うに加勢していただいた淵田殿に於いては、元より先程の化け物を狙っておられた様にお見受けするのだが……  」又左衛門は己ら役目の素性を明かさずに、話の流れが如くに与茂七の行動に探りを入れた。

「なに、私も何か確かな当てがあっての事ではないのですが、化け物を討ってやろうと心して、ここ何日か界隈を探っておりました次第で…… 」

「ここ何日か・・何故に」化け物を何ゆえ御家人の倅が討つなどと。

「実は先月に同門の朋輩が人ならぬモノに襲われまして、無惨に命を奪われました」又左衛門の顔を見据え声にした与茂七の唇が微かに震えている。

「その者は弓の腕前なら私よりも上。が、しかし如何せん往時に弓を携えてはおりませんでした。本差の鯉口はきられ鞘から刀身が見えておりましたが、抜ききる前に絶命したのでしょう。つかには彼奴きゃつの握った手首のみが・・後は見覚えのある鞘と衣服や草履と……  」与茂七は同胞の無念さを思い出して俯いて嗚咽した。

刀から離れた処に肉体の部位が散在していた。鼻から上の頭部は無かった。顎と頸部は噛み砕かれた様子で、胸は押し潰され左腕は引きちぎられて肩から無くなっていた。臓腑は破られた腹の内には見当たらず、辺りに血の塊が散乱していたのだという。何がどうすれば人の身体がこうなるのか。

(ああ、百人組の忍野右善殿の倅の一件か)

慥かにその件は先月中旬、番所と南町から報せが届いて、又左衛門が即日検分していた。化け物相手の同胞への仇討ち。友への並々ならぬ衷情と、覚悟がなければ成し遂げられぬ事。襲った化け物と同定は出来ぬであろうが、執念が敵を引き寄せたのかもしれない。

(それは我らも同じではあるが……  )

ならばこの漢、使えるかもしれない。



「卒爾ながら、この矢に就いて尋ねたいのだが……  」

又左衛門は妖異を狩るに討ち余して握っていた箆を神の矢であるかの如くに恭しく差し出して見せた。

「あの鬼火、我らの刃は通じなんだが、お手前の矢は見事に妖しを撃ち砕き消除しせしめた。いったい如何なる相違で御座ろうか」

与茂七は真っ直ぐに見詰める年嵩の男、老齢にしては、精気鋭い眼差しにいささかたじろいだが、隠す謂れもない些細を話す事にした。

「霊水です」与茂七は頭首を垂れて畏まって言った。

「そこの目白坂下の御不動境内から湧き出る水が、霊験灼然れいげんいやちこだと聞き及んで、分けて頂き一晩の間に鏃を漬けておいたのです。よもやこれ程までに物怪もののけに験があるとは思いもしませんでした」

二人は合点がいった様に顔を見合わせた。

「して妖異そのものより先に鬼火を狙った意図は」

慥かに鬼火より化け物そのものの方が的が大きい。

「え、いや松の上の某からはアレが判然としなかったもので……  」実はただそれだけの事であった。が、どうも妖異のそのなりは普通の見え方をするのではないらしいと又左衛門は思った。



「淵田殿、役目柄申すのだが、今宵の事は内密に願いたい。騒乱の基種を駆逐するのが我々の役目。今はまだ人知れぬ事が肝要なれば」

「御役目・・・ですが、某も未だ本懐を遂げた訳ではありませぬ。某にとってはアレは敵同然。同胞の為にも討ち果たしたいと思っております。この事のみは勝手を許されたいのですが……  」

「それは殊勝な心掛けと・・しかし・・ううむ」伊右衛門が逡巡していると又左衛門が口を開いた。

「淵田殿。如何だろう、我々の御役目に加わって頂けようか」

その言葉に伊右衛門と与茂七は暫し呆然とした。

「え、あ、それは・・仇を討てるなら願ってもない事です」

「うむ、あの弓箭の腕は役に立つ」伊右衛門の顔を見て口許を緩めた。


市中風説吟味改方。未だ二人であった通称妖怪改に三人目の同志。初めて仲間が加わった。それが弓箭の使い手淵田与茂七であった。新たに土屋直助が加わる二年前の夜の事である。


「今宵はこれまでといたそう。戻るとするか。明烏が騒ぎ出す前に臥所に就きたいものだ」


三人は心許ない明かりを頼りに関口の目白坂を降って行った。今夜の奇怪な出来事をおのおの眸子の奥で巡らせながら。


細川邸の表門前、漢たちは去りそこは何も見えない闇夜に戻った。黙ったままの二つ在る松の何処かで、夜鷹が一声鋭く啼いた。壁に囲われた敷地の鬱蒼とした樹木が一瞬だけざわめいて止んだ。

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