第6話
時を戻せば、於岩と小平が氷川社詣でをしている最中の事である。
主の境格之進と師範代の速水伊右衛門とが、道場の先行きの話も終えた頃合いに、一人の若者が訪ねて来た。聞き覚えのある声である。伊右衛門が主の代わりに道場口に迎え行くと、訪ね人は門人の一人である土屋直助であった。
「おお、直助」
「境先生に呼ばれて罷り越しました」
「さようか。我も先生に挨拶をしに参って、つい道場の話などしている内に、やくたいもなく長居をしてしまっている。先生は母屋の客間におられる」
「ええ、本日師範代が来られるのは、先生に聞き及んでおりました。その上でお声がかかったのです。途中、上総屋の芋田楽などをみつくろっている内にいささか遅参してしまいました」
「お、それは有難い。先生もお喜びになるぞ。芋田楽は先生の好物だからな。さ、母屋へ参ろう」
二人は道場を抜けて渡り廊下を越えて母屋へ向かった。客間の前まで行くと、主の格之進は午下りの耀りの中、庭先で辛夷の白い花を見上げていた。
「先生、土屋が参りました」
その声に格之進が振り返る。
土屋は廊下に跪くと師を拝した。
「おお、直助。呼び出してすまぬな」
「いえ、申し訳ございません。遅くなりました」
「構わぬ。今まで速水と話していたところだ。さて、では改めて話をしよう」
師に従って二人は客間に入った。
「土屋の上目録の件ですが、それに就いては門人の誰もが認めるところ。異存はないと思います」
「うむ、その件は元々師範代のそこもとの推挙があってのこと。儂とて異存はない。直助を呼んだのはその事とはまた違う件なのだ」
「また別の話…… 」
「まぁ、然程も関係ないとは言い切れないのだがな。上目録ほどの剣の技量を頼んでの事ではあるからな」
久邇蔭流剣術の境道場では錬士の位は紙切、赤目、中目録、範士が上目録で師範代、皆伝で師範であった。印可となれば他で道場の看板を掲げられる。立派に剣術の師匠だ。
元々、本流の相馬久邇蔭流では目録と皆伝そして印可しかなかったのだが、江戸の町道場として町人の門人も多い故に、意気向上の為に段位を増やしたのだ。
土屋直助国英は入門して二年、二十歳になる前に中目録を得ていた。それから四年で上目録はかなり早い昇格であった。
伊右衛門も入門して四年で上目録であったから異例の早さではあったが、先に田宮流居合術の素養が充分にあっての事なので、当然と言えば違いなかった。
直助は少し怪訝な趣きで師匠の格之進を見た。
直助の頭の中は近々行う目録昇上披露の事で頭が一杯だった。儀式そのものは何のことはないが、費用は基本当人持ちなので、裕福ではない御家人の次男坊としては工面するのに頭を痛めていた。剣技の腕を認めて貰えるのは武家に生まれた者としては嬉しい限りだ。が、その武士が何を一番悩むかと言えば金の工面だった。
「実はな土屋、本来なら巷人の儂から話す事ではないのだが、この度お前の剣の技量を見込んで、お役目に推挙したいと思うてな」
「お役目・・ですか」
「うむ、速水が先手組として任に就いている市中風説吟味改方に、土屋を加えてはどうかと思うてな」
「市中風説吟味改方・・・ 」
当の直助には今二人から聞く話は寝耳に水の話ばかりで戸惑うばかりであった。
「なんと、直助を・・土屋をですか」
「うむ、さして驚くほどのことではない。土屋は伊賀組同心だ。探索にはうってつけであろう」
「いや、伊賀組とて我ら御先手同様に今は何というか・・閑職の様なもの。御庭の仕事など遠い昔の事で…… 」
「ふふふ、伊右衛門も知った様な事を。そちはこの間まで浪人であったであろうに。いつから公儀の役手に詳しくなったのだ」格之進が目を細めて笑う。
伊右衛門は軽く狼狽する。
「いやそれは、役目柄に義父上殿から…… 」
「まぁそうであろうが、又左衛門殿とて全てを詳かにはしてはおるまい。伊賀組がお先手組同様なら何の問題ないではないか。土屋、伊賀組は皆が暇を持て余しておるのか」
「それは…… 」直助は口ごもる。公儀の御要人の警護などは太平の世に無用な事。諸藩に探りを入れるほど緊迫した事案があるわけもない。今となっては忍ぶ価値も無い伊賀者などは即ちただのあぶれ者の集り。増して跡取り以外は穀潰し。些かな情報ももたらされはしない。惨めさを思い返して口ごもる。
「まぁよい。儂とて市井の庶人、お上の御決まりなど爪の先ほどにしか知りはせぬ。その爪の先の事だけを、この度は又左衛門殿に相談されての。講武所剣技指南に於いては、祖の代から関わりが無いわけではないからな。剣客として人を検る目を買われたのだろうな。そうでなければ伊右衛門も速水家の人間にはなっていないであろう」
「はは、いや・・まことに…… 」
「速水」
格之進は続きを話す様に伊右衛門に促した。
「はい。では・・」肯んじて礼をした後、伊右衛門は直助の方に態を直して話始めた。
「市中風説吟味改方とは、御先手惣頭・鯨岡将監様が御年寄から拝命なされたお役目でな、火付け盗賊改方とは別に、江戸市中の怪しき出来事を案件として調索し吟味して、無用な風聞が立たぬ様に解決して納めるのを役儀としている。
実際に取り仕切るのは筒組頭・菱多左内様である。そして、我が速水家の婿入る前に、義父又左衛門が二年前より同心筆頭として実務の任を仰せつかっておる。今は我もその一員じゃ」
話を聴いて直助は目を瞠った。
「その様なお役目があったとは」
「探索なども任務の一つであるため、公にはしておらぬのだ。員の数も素性もな。筒組のみで堅めてもおらぬ。弓組もいる。お主は伊賀組同心じゃ」
「いや、私は慥かに伊賀組の者ですが、今節の世で忍びの様な役目が有る訳でもなく、武具を磨き撫でるだけのしがない端役ですよ」
「それは重々承知。我筒組とてそれは同じ事。先ずは改め方としては腕の立つ人員が欲しいのだ。その為には組内からだけでは選びきれぬのだ」
「それで私にお声が・・恐縮ではありますが・・境先生は何故にこの件にお関わりに」
「それは又左衛門殿と昵懇というだけでなく、公儀指南とは別に、武家の下支えのとして武技剣術の錬成を承っておるからの。我道場だけではないがな」生業目的だけで町道場を営む中でも、幾つかの名の知れた道場はお上のお声掛で、旗本御家人の剣術を指南している。しかしながら、本来役目向きに携わる事はまずない。
「引き受けてくれれば儂の面子も立つというもの」格之進が目を細めて柔らかく笑った。
「あのぅ、それで・・そのお役目には役料が出るのですか」
畏っている直助は上目使いで神妙な声を出した。
格之進と伊右衛門は顔を見合わせた。
「おお、無論出るとも。お役目なのだから役料はきっちり出る」と伊右衛門が言うと、
「うむ、存外にな。役に掛かった費えも別に出る。それに先ずは支度金が十両出る。各々の身支度も拵えてもらうのでな」と格之進が口添えした。
それを聞いた途端に直助の表情が朗るくなった。
「先生と師範代が私を信頼してお声を掛けてくださったものを、お断りなど出きようはずございませぬ」直助は改めて居住まいを正して言った。
「なかなか現金な奴だな」格之進は直助を見つめて頬を緩めた。
「有難い。礼を言う」伊右衛門はにじり寄って拳を握った。
「では又左衛門殿も加えて改めて席を設けよう」
直助が役付になる前に上目録のお披露目が先になるであろう。儀式事には何分費用が掛かるが、この度は昵懇の内輪から、充分な祝儀が直助にもたらされる事だろう。道場でも久々の式部故、主の格之進も寿ぎに心朗るくしていた。
(俺が公儀のお役に・・市中風説吟味・・町方火盗とは違う仕事とは一体…… )
一体どんな仕事なのか直助はつらつら考えている内に思わず口に出していた。
「して如何様なお勤めなのでしょうか」
問い掛けてきた直助の双眸を暫し見つめてから伊右衛門は答えた。
「存糜爛の始末だよ」
「・・ゾンビラン」
武道一辺倒、世の中の事には疎い直助であった。
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