第7話

後日、境格之進から土屋直助国英の推挙を受けて、速水又左衛門は改めて席を設ける事にした。道場から新しい仲間が加わる事に、又左衛門と伊右衛門はそれぞれにあの日の事を思い出していた。


二年前、月の無い夜の事である。

昼間、赤木町の或る商家を探りを入れた後に、訊いておいた当の現場を確認に赴いた。

江戸に於ける今節の妖異騒ぎは東都の北西から西南、雑司ヶ谷、千駄ヶ谷、牛込界隈に偏って頻発していた。それには何かしらの理由があるのだろうと又左衛門は睨んでいる。


存糜爛。

いわゆる斑猫疽にかかって正気を失い人を襲う者たちは、月の出ない夜にしか現れず、明け方を待たずにして姿を消してしまう。幽霊の様に消えてしまうのか、何処かに隠れてしまうのかは定かではない。


斑猫疽に罹った者の身元はおよそ分かっているのだが、新月の徘徊者が皆すべて人を襲う訳でもなく、出くわした者たちもその恐ろしさのあまり、すぐに逃げ出してしまうので、同定出来るほどの容姿は詳らかではなかった。

ただ一件、この赤城屋の御新造一同が襲われた顛末の内、一同皆が存糜爛を目撃しており、無惨な姿の遺体も現場に遺されて番屋で処理もされている。


その後、その遺体は神楽坂横寺町の長屋に住む、独り身の年寄りお勝だと判明した。

お勝は長年居職の針子はりこをして細々と暮していた。

偏屈な訳ではなかったが、生来の性なのだろう、あまり他人と言葉を交わす気質ではなかった。

歳は七十は過ぎてはいただろうが、矍鑠かくしゃくとしていて足取りも確かだった様で、仕事の古着の手直しを受け届けに、一里ほどある弁天町の古着屋まで通っていたという。

宅には訪ねて来る者はほとんどいなかったが、長屋の住人とは朝夕の挨拶は交わしていた。

息子を大火で亡くしたらしく、お勝は息子の月命日には墓所と矢来の秋葉社に、必ず拝みに通っていたと隣人の正吉が語っている。江戸の庶人らしく神も仏も信心していた。


その正吉はある夜遅く、よたよたとした足取りで帰って来たお勝を見て声を掛けている。

血相がなく唇も青ざめて眸子まなこの動きも定かでない。倒れそうなお勝を宅に戻してやり水を与えた。本道の者を呼んだ方がいいと告げたが、震えた手首を振っただけで布団に潜り込んでしまった。それから二日三日お勝は宅から出て来なかったので、四日目、いよいよあやしくなって差配が覗いた宅にはお勝の姿は無かった。

長屋の者たちもいぶかしく思って心配になり、界隈を探しはしたのだが、お勝の姿はようとしれなかったのだと言う。


かたや赤城屋の御新造一行。


雑司ケ谷の鬼子母神へ参詣した後に、知り合いの炭屋へ寄って四方山を談ずるうち、気がつけば明るい内に宅へたどり着ける刻限を過ぎてしまったらしい。

赤城屋の旦那が心配して差し向けた幾人かの手代の内、運良くしん吉という手代が女主従と行き合い同道して帰途についたのだという。


武家屋敷の通りを抜けようかという最中、木戸まで三町かという辺りで、斑猫疽に冒され徘徊していたお勝と遭遇したのだ。

付き添いのお先の話によると、暗闇に漂う異様な臭気と佇む様な人影を危ぶんで、遠巻きにやり過ごそうと恐る恐る歩みを進める主従に、乱れた姿の女がおもむろに襲って来たのだという。気づけば女の側には倒れて動かない巷男の姿があったという。

一同肝を潰す中、しん吉が女主従を庇い出たものの、得物も持たない身が逃げ腰で太刀打ち出来ずに、灯の点いた提灯を投げつけるのが精一杯だった。


あわや鬼女に襲われるすんでの間際に、武家姿の男らしき一人が何処からか現れて、旋風の様な技で鬼女を討ち果たしたのだという。

一瞬の出来事に一同は動顛しており、侍と思しき人物の行方を見守る事も出来ずにいた。

その後は、我に帰ったお先の喚き声に気がついた蕎麦屋と木戸番に助けられたのを、震えながら番所で聞かされたのだという。


顛末はほぼほぼお先に拠るもので、赤城屋内儀のお静といえば今は心を病んでおり、床の内で目は虚ろで気も遠く、口を聞けない日々を過ごしていた。


赤城屋の当代にしかと聞き及んだ些細を頭に、二人は夜の町に出た。

片町の番屋から足取りを逆に辿ってみる。

現場はさほど遠くない。まだ人通りのある時刻。暗い通りを提灯が行き交う。戸口から漏れ聞こえるさざめきも無くはない。

「この辺りであろう」

何の変哲もない江戸町屋の辻角であった。五町ばかしは表店が続くが、そのまま少し往けばすぐに武家路で、突き当たるのは江戸川堤だ。通りは真っ直ぐ北へ向かう。昼間ならそこからも土手が見えたはずだ。屋敷塀の路向かい右手は垣も無くやぶばかりで、叢雀むらすずめの宿になっていそうだ。藪には人は入れはしないが、傾斜になっていて下れば向こうは早稲田の田圃のはずだ。


二人は江戸川の橋の手前広小路に出た。

「さて、この先の道行きは雑司ケ谷へ続く。お主の道場の界隈、高田町だ。どうする、改めて辿るか」

「今夜はこの様に月明かり無き闇夜。ときも更ければ何かしら異変があるやもしれません」

「うむ、ではしばらくは夜陰を這い回るとするか」

暗闇の中を、物腰や靭い漢二人の跫音だけが、恬とした響きを繰り返す。


「しかし、斑猫疽に冒された者たちは、何故に闇夜に徘徊するのでしょうか」

少し間をおいて又左衛門が応える。

「その謎は未だ判ってはおらぬのだが、市中の夜半に人を襲う化け物の件は、新月の晩ばかりではないのだ」

「あ、月夜にも現れるのですか」

「人態の姿をした徘徊者は、およそ新月の暗闇に現れるのだ。そして出会でくわした者を襲おうとしておる。後々調べて回ると、当日に姿を消した者たちの顔貌や風体と合致する処から、斑猫疽に罹った者だと認められる。そして今回の一件からしてもそれは間違ってはいないだろうの」

「はい」

「それとは別の化け物騒ぎはある。闇夜とは限らずに人が襲われている。それもかなり惨い殺され方だ。鋭利な得物で殺られた傷ではない。そうだな、獣に噛み砕かれた様な無残な屍。熊などがいるはずもない江戸の市中で、いったい何に襲われたのか」

思案に少し歩みが弛む二人。

「これらは繋がりがあるのでしょうか」

「繋がりは判らぬ。が・・襲われ方からして別のモノの仕業であろうな」

「その化け物の姿を見た者はいるのですか」

「確実に見たとまでは言えない。それこそ風説の域なのだが、熊だの鬼だの黒い毛むくじゃら塊だの、身の丈二丈ののぺらぼうだのとのぅ」又左衛門は肩をすくめて苦笑した。

「在所ならともかく、市中で熊などは・・・二丈とはまた。見世物小屋で象と呼ばれる天竺の珍獣を見たことありますが、やっと一丈に届くかどうかでありましたが、それでも大きく感じました」

「晩秋ならば内藤町辺りで熊を見かけた百姓は多いと聞く。渋谷では関取ほどの猪が山嵐の如くに野を駆けているという」

「獣だと言うのであれば、その様な山野の近い鄙びた地所ならば、あながちないとは言えませんね」

「うむ、左様。ま、山野や里とは違いこの様な迷路の様な市中。一旦迷い込んだら獣は死に物狂いになるやも知れぬ。人の臭いを嗅げば猛狂い襲うても不思議はないの」

「なるほどなるほど」伊右衛門は首肯いた。

「獣であれば、筒組の出番もあるやも知れぬな」

立ち止まった又左衛門は、顔頬の横で長筒を構える格好をしてみせたが、伊右衛門には見えてはいない。察するだけだ。

ああ、磨いてばかりはいれないなと伊右衛門は顎を引いて目を瞑った。


又左衛門と伊右衛門の二人は、そんな話をしながら目白の御不動の前を越えて、反り上がる目白坂を昇って往く。時刻も深まり石灯籠の灯は消えている。御不動の境内の茶屋も閉まり人の姿はとうにない。坂を往き来する者もいない。

二人はそぞろに歩いている様でも、辺りの様子には相当に気を配っていた。暗闇に関口の御屋敷町が続く。


歩みの分からするとそろそろ通りは広がり、左手には肥後国御家中細川越中守下屋敷門前辺り。

鶴と亀の大きな二本松が在るはずだがまだ見えない。太い幹の老松が二本。こちら側からだとまずは鶴の松。天に向かって高く聳える堂々とした姿。それこそ鶴が首を空に持ち上げて喉を鳴らしている様な容姿。その向こうには大地を覆うつもりの様な横に伸びた幹と枝振りのどっしりとした松。日中に望めば日向で甲羅干しでもしているかの如くの好々爺な亀にも思える。昼間でこそ神々しく威武堂々した武神の様な二本松ではあるが、暗闇の巨木は目の当たりにすれば、突如怖ろしい巨怪に立ち塞がれた心持ちに誰もがなるに違いない。


深々と更夜に向けて深まりゆく闇の静けさ。ざりざりと二人の跫音だけが行方を報せる。いったい誰に向けて。聴く者などあるのか。


黯澹に気配がする。


瞬を待たず同じく立ち止まる二人。

気配というものを、日々、武を研ぎ澄ましてきた二人には容易に感じる事ができた。それもその気配の雰囲気を幾類かに嗅ぎ分けられる。まぁ、殺気ならば剣の技量優れた者であれば嗅ぎ分けられる。怒気ならもっと単純だ。そしてまたもう一つ、人が普段の営みの内に遭遇する事の稀な気配。


邪気・・・


やがてそれは邪なる意識が洩らす瘴気となる。

薄ければ人を混迷落としめ濃ければ即ち生気を絶つ禍つ気配。その圏域に遭わなくとも感応する技量をこの二人は既に会得していた。


「ありゃあ、何だえ・・・ 」故にこののんびりとした戸惑いの声とは別に、腰の落とし着きにはどこにも油断の一つも無かった。


暗闇に青白い鞠が上へ下へと踊っている。

ゆらゆらとゆらゆらと、所在なさげな振る舞いの様でいて、見る者を誘う様な揺らぎは己の虚ろならざる実態を見せつけていた。

提灯の明かりなんかよりよほど明るい。永遠に続く無明の闇の中であれば頼りたくなる明るさだ。


「鬼火・・そうでしょう、あれは」伊右衛門が応える。


初めは二つばかりだった。

一町ばかし先の暗闇で並んで浮き沈みしていた青白いそれは、一つ二つと次第に仲間の数を増やしていく。

増えてゆくから明るさも増す。明るいのだが妙に冷たい。燃えているわけではないのだろうか。


「ううむ、面妖な」又左衛門の眉が吊り上がる。


このまま無尽に数を増してゆく様に思われた鬼火は今は八つ。ゆるりくるりと何かを中心に巡り踊っている。

くろ橡色はしばみの土が盛り上がる。何かが土を盛り上げる。幾つものかわらほどの塊りに割れてその亀裂から苅安色の光が漏れ拡がる。するとその円柱なる空間だけは、周りの闇より薄く熨斗目花色のしめはなの陽炎の如く揺らいで、宙に光る粒子を吹き上がる。その中に何やら人の影がかそけく揺らぐ。邪気はそこからだ。


影。


だがそれは未だ上背半身。顎を上げて天上を仰いているかの如く。影の中の窪みが切長に開く。白い窪み。いや、灰濁しているか。その奥の小さな眼球は三白眼で、眼差しは何処を捉えているのか判らない。眸子まなこは軋む様に小刻みに震え、やがて箍がはずれた様に奇しく動転して白眼を失う。

あぉぉあぉぉと喉を鳴らしてもがいている。そして開いた顎の裂け目から飛沫を幾つか吐き出した。

どうやら手首から先に見えるもの。地に落ちた後に、産み落とされた生き物が己の脚で立とうする様に、掌を下に指を蠢かせている。そしてそれらは親とでも見定めた様に上背に向かってにじり寄ってゆく。

その間に本体は周りの鬼火から何かを吸い寄せている。

瘴気なのか精気なのか玄い影の様な薄っぺらい姿が、段々と厚みを持って実態の様に成ってゆく。生気を得ているのだ。そして上背に寄り集まった手首から腕が生え伸びて、体を支えて埋まった半身を抜け出そうとして震えていた。


(いかぬ。あれは顕わにしてはならぬもの)

それを見てとった二人は顔を見合わせて頷いた。

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