第12話

「旦那、着きましたぜ」


着いてみて与茂七は驚いた。長屋でこじんまりと本道の看板を掲げている貧乏医者だとばかり思っていたのだが、尾扇の宅は寺町の雑木林の一画に、まるで寺の庫裡の様な佇まいで在った。敷地は町与力宅くらいの広さはあるが門や囲いの垣塀はない。構えは古びた建て付けで、板葺きの屋根には枯葉が積もっている。埃っぽい廃屋と思われても不思議ではない佇まいだ。

西日が下がり辺りが薄く暮れなずむ。雑木を塒にしている山鳩や鴉の声がなんとも裏寂しい。


「平太よ、尾扇ってのは町医者に違いないのかい。他に素性は」

「まだ詳しくはわからねぇんですがね、長屋にもお役人とこにも往診には出かけますからお医者には違いねぇんで」

「歳は」

「まだ爺いまではいってねぇですよ。三十路も後半でしょうね。女の出入りはねぇみたいなんで、独り身かもしれやせん。下働きの親爺と見習いみたいな若造が居るっきりで」

「評判は」

「少し取っつき難いみたいですが、診立ては悪くねぇみたいで。ちいとばかしの患いなら薬でピタッと治しちまうみたいで」

「ほほう」

「診立て料や薬代はお武家や商家からはきっちり取るらしいですが、貧乏長屋住まいの連中からはちいとばかしのお食の糧で済ましてるようです」

「そりゃなんとも貴徳な質だな」


人気もなく深と閑まった夕暮れの雑木林。

それでも時より山鳥の啼く声が聴こえてくる。

一匹の三毛猫が軒下をのっそりと横切る。

人の気配の様子を窺っていたが、尾扇の宅から人が出てくる様子もなく、この様子だと埒があかないだろう。

「平太、参るぞ」

頃合いを見計らって訪うと肚を決めていた与茂七は、平太に目配せをして言った。

「へい」


「申し申し、お頼み申します」

暫くすると、何時壊れてもおかしくない様な古い板扉がズリズリと開いて、作務衣姿の男が出て来た。鬢に白髪の混じった背の低い初老の男だ。下働きの男であろう。

「どちら様でしょう」

「私は御先出同心淵田家の下の者でございます」

男は少々胡乱げな眼差しで平太を見た。

「どないなご用件でぇ」

「手前共の主がお務めの御用で先生にお伺いしたいのですが」平太の話に男はちらりと後ろの与茂七を一瞥した。お務め御用を聴く様な風体ではない与茂七の身形を少々訝ったかもしれない。

「・・少々お待ちぃを。今、主人にお伝え致しますぅよって」京訛りの男は軽く会釈をすると奥へ引っ込んだ。

開いたままの入り口から薄暗い屋内を覗くと、広い土間に置かれたむしろの上に乾いた草木が束ねて置かれている。その向こうの板張りの上がりの床で、白い作務衣姿の若い男がごろごろと薬研を挽いている。未だ西日で仄かに明るい向いは、五尋分はあるだろう全面が障子戸だ。おそらく採光の為なのだろう。

障子戸一つの前に、此方に背を向けて座っている男は、文机の上の綴じ本を紐解いている様だ。老爺が「先生ぇ」と声を掛けると、痩身に白衣姿で束髪の男は本を手にしたまま振り向いた。この男が尾扇という本道医であろう。

先生と呼ばれた男は外の二人へ視線を送ると、おもむろに立ち上がってかまちを降りて近づいてきた。

「主の尾扇でございます。どうぞお入りください」

「失礼仕る」

招かれた二人は礼をして敷居を跨いだ。

やはり土間は広い。むっと香ってくる生薬草根の匂いで一瞬咽せそうになった。

「こちらへ」二人は奥の畳の部屋に案内されたが平太は遠慮して外で待つ事にした。


六畳ほどの畳間。年季物の畳は赤茶けて井草の匂いも既にしない。何があるわけでもない部屋で互い棚と床の間がある。

床の間には一幅の墨絵図が掛けてあった。

墨の濃淡だけで描かれているその画は、殆どが塗りつぶされている暗い絵で、薄墨で描かれた輪郭無くぼやけた何者かが、闇の様な暗がりでもがいている様な、何かに襲いかかっている様な、有様定かでない絵とも言えない画だった。

およそ風雅とはかけ離れた不気味な絵図なのだが、妙に惹き込まれて目が離せない。

「それは曾我蕭白そがしょうはくという絵師の『深潭圖しんたんず』です」

間をおいて改めて現れた尾扇が絵図を眺めていた与茂七に言った。白衣は解いていた。今は上品な黒八丈を羽織っている。

不佞ふねいが未だ京にて修行を重ねていた頃に、昵懇の方からお預かりした一幅です。蕭白殿は神州津々浦々と流浪の御仁でござって、これは宝暦の頃に江戸から戻った後に、勢州にて描かれた物と聴き及んでおります。今は何処でどうしておられるやら…… 」

よくよく言葉を聴いてみれば、なるほど尾扇は京訛りと思える節がある喋り方だった。

「よく見れば何やら書も認められている様ですが、はっきりとは読めませんね」

「それは・・古天地未剖、陰陽不剖、渾沌如鶏子、溟涬而含牙。及其清陽者、薄靡而為天、重濁者、淹滞而為地、精妙之合摶易、重濁之凝竭難。故天先成而地後定・・天地開闢の事でしょうかね…… 」

そう言われても与茂七にはこの画の意味は分かりかねた。

静かに襖が開いて先程の老爺が茶を運んで来た。

「どうぞお気楽に御座りなしてください」

尾扇が与茂七に上座を薦めた。

一礼の後互いに改めて膝を折って座した。

「某は市中改の淵田与茂七と申します」

「市中改・・とは町方の…… 」

「町奉行方では御座いません。評定方下役みたいなものです」そこはひとまず適当にお茶を濁した。

「そうですか。畏れ入ります。しかしながらお上のお務めにしては、その、お武家にしてはお姿が…… 」

「特段、隠密とかではないのですが、御用も風評の聞き検分の立場として、本来は身を明かす事はしないのです。内々にお願いします」

「左様で御座いますか。して本日はどの様な」

「某は斑猫疽罹患の者の話を聞いて廻っております。先生方に佐吉なる大工が厄介になっていると聞き及びまして、実情を検分致したく参った次第で御座います」

「佐吉さんなら先程帰しました」

その言葉に与茂七は唖然のかおを隠せなかった。

「帰した・・とは」何ゆえに。

「治りましたので此処に居る理由も無いので帰したのです」尾扇はさらっと言ってのけた。

「治った。治ったというのは斑猫疽がですか」

与茂七は身を乗り出した。

ふうです」

「・・ふう」

「そうどす。佐吉さんは斑猫疽では御座いませなんだ。瘧でもない。少々、頭風づふうで熱を発してはおりました。それなりの薬湯を与えて手前共が四、五日看病しておったのです」

「なんと。しかし佐吉の長屋で存糜爛騒ぎが有りその後に当人も不調をきたしたと」

「それは聴き及んでおりましたが、不佞の診立ては佐吉さんは頭風で間違い御座いませぬ。頭風には熱冷ましの投薬と養生が肝要。ただそれだけです」尾扇は淡々と診立てと処方を述べた。

「左様でしたか。佐吉の件は分かり申した。では今までに、尾扇先生は斑猫疽に罹った節のある者を診立てた事はございましたでしょうか」

「此処方に訪れた者では御座いませぬし、担ぎ込まれた者もおりませぬ。ただ、不佞自身は火盗改様役宅に呼ばれて、牢屋にて検分した事は御座います」火盗改に呼ばれる程なら、そこらのちんけな町医者ではないという事だ。当時は医者に免許が要る訳ではなく、勝ってに名乗って庶民を診る事は出来た。が、やはりヤブは相手にされず、袋叩きにされたりしょっ引かれたりもした。

「では、斑猫疽の病状はご存知という事ですね」

「はい、如何にも」

「それは一度だけなので御座いましょうか」

「二度でしたか三度でしたか。ただ検分した医者は不佞一人ではなく、他に二人ほど居られたと記憶しております」

「何かお役に尋ねられたのでしょうか」

「それはそうどすが、お答えして良き事ではないと存じますんやけど…… 」

「ああ、」

「お役なら改同士、お訊ねならはってもええんとちゃいますか」

「ええまぁ」

「不佞の口からは憚りおりますよってに」

「いやこれはごもっとも」

少しはぐらかされた感じではあったが、火盗改での件は執拗に訊く訳にもいかない。

「では、斑猫疽の病状の事、巷での伝えて聞く症状については、尾扇先生はどの様にお考えでしょうか」

「病状…… 」

「巷では障りであると」

「瘧についてはおよそ鬼の障りとされております。せやから町の人は赤いお札を頼りにしはります。病気や思うておりませんやろ。見えぬ鬼にうて鬼に触られて鬼に呪われる。せやさけ医者の診立てや薬で治る思うておりません。お江戸の町の人は加持祈祷か、お札の霊験を信心してはる」

胡乱気な加持祈祷者もまた江戸には多く居た。霊験などありはしないから、同じ所に長居は出来ない見窄みすぼらしい歩き験者で、門付の芸人のがまだ身なりは良かった。

「先生も斑猫疽は瘴癘しょうれいではないとお考えですか」

「さぁ、今はまだなんとも。ただなんやろな、昔からの事でもなく、しかしながら江戸ではもう何年も前からの事なのに、江戸ご城下だけの事で諸国には散見してませんやろ。広まる気配もないのんは如何なる理由があんのんか」

「なるほど言われてみれば左様ですな。やはり障りなので御座いましょうか。鬼を鎮め祀り触らねば、やがて斑猫疽は江戸の町から無くなるので御座いましょうか」

「一介の町医者に分かりようがありません。しかしながら、幾度か社寺に於いて祭文の儀や加持祈祷が為され、亡魂の回向も執り行われたと聴きますが、鬼障霊障が消除しょうげした様には思えませぬ」

与茂七も思い起こして腕を組んで沈思した。

「物事には根源がありますやろ。医者はまぁそう考えます。人々は因果を信じております。何かが起きるには始まりの何かが必ずおます依ってに」

「原因ですか」

「この江戸の何処かに因縁が潜んでおるやも知れませんな。それが何や判らんと、無闇に神仏に頼っても叶いませんやろな」

「先生は蘭方には」

「いや、不佞の医療は内科本道のみです。蘭術の心得は御座いませぬが、知り合いは幾人かおります」

「蘭医方は斑猫疽の診立てはまた違うのでしょうか」

「そりゃ違うでしょうな」

「蘭医方は人の腑分けもすると聴き及んでおります」腑分けとは解剖の事である。

「斑猫疽患者のご遺体どすか。どうですやろ。存糜爛は未明には消えて無くなると聞いておりますから」

「尾扇先生、またお伺いして宜しいで御座いましょうか。今度は同僚連れになりますが」

「はて、なんや何んぞあてにありますのんか」

「あ、いやいや、先生が何か怪しいとかでは御座いませぬ。先生の知恵と洞察に感服致しまして」

「なんのない」

「また後日改めまして」

「そうどすか。えろうはばかりさんどした」尾扇は莞爾としてそう言い、座ったまま腰を曲げて挨拶したが見送りはしなかった。

その横柄さには何処となく与茂七は可笑し味を感じかえって気持ちが和んだ。


与茂七は尾扇宅を後にした。

とっぷりと日が暮れている。樹々の合間を飛び交うのは蝙蝠だろう。月が昇り明かりで雲が渡るのが見える。扉を出るとしゃがんでいた平太が傍に寄った。

「どうでした」

「どうやら佐吉の件は俺等の早合点だった様だ」

「えっ、それはまた…… 」

二人は林から寺の境内に出た。無尽灯に明かりが燈っている。虫の音。人の姿はない。

無口のままの与茂七の表情は知れない。

が、こんな感じは何時もの思案顔に違いないと平太は思った。

「旦那、どうかしやしたか」

「うんいやまぁ、これといって怪しい訳ではないんだがな」そうらやっぱり。

「この後、佐吉は如何します」

一応、確認はしておくべきだろう。

「とりあえず当たりはつけて探っておいてくれ」

「へい」

「腹が減った。蕎麦でも手繰ってくか」

もうすぐ音羽の賑わいが近づいて来る。



「先生ぇ、どないしますのんや」

湯呑みを下げに来た下働きの藤兵衛爺が訊ねた。

「どないて…… 」尾扇は惚けた顔つきで応える。

「あん人たちはまた来よりますで」

「ああ、せやろな。そう言うてたわ。せやけどウチん方来てもどないもならんやろ」

「煩わしさかい、なんぞキツいの張っときますか」

「あんた、そないイケズな事せんといても。アレは人に使うもんちゃいますんやで」

「左様でございました」たしなめられて苦笑気味の藤兵衛が部屋を出た後、すっと立ち上がった尾扇は、床の間の前に寄って蕭白の書画をじっと見つめた。改めて画を探る様に観る双眸はどことなく冷たく険しい耀りを放っている。


尾扇は作業場に戻った。既に日は落ちて蝋燭の灯明を幾つか点してある。隙間風に焔が揺れる。

「それはそうと、アチラさんの様子はどないです」尾扇は弟子の熾圓しえんに訊いた。

「天門は変わりなく未だ乾いたままでおります」

「そうどすか。まぁ、そろそろですやろ。檀に隠気は昇ったまま。にえを以って湿らす算段はとうに出来てるはずや」

ばしますか」

「式など打つてもあん人の繩張しまに触れた途端に叩かれて仕舞いや。此方が知られてまうよって辞めとき」

「そうでしょうか」

「古都の陰陽さんを舐めんことや」

尾扇は遠い目をした。

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