第13話

─ 万劫年経る亀山の 下は泉の深ければ 苔ふす岩屋に松生ひて 梢に鶴こそ遊ぶなれ ─



広く美しい庭園であった。


江戸の北西は雑司ヶ谷に在る肥後熊本細川家中の広大な抱屋敷。敷地内はそのほとんどが庭園である。公儀お抱えの庭師もその造作には手を貸して作られた庭だった。

湧水と雨水で湛えられた大きな大泉池があり、南地肥後の樹木草花なども植えられている。鳥も遊び魚も游ぐ大らかで風光明媚な自然に配われていた。


敷地内東側には広く豪奢な邸屋がある。

大門は高田町界隈目白坂側に構えられ、そこには名を馳せた二本の老松が在って鶴と亀になぞらえて呼ばれている。

敷地西側、小笠原信濃守屋敷とを隔てる坂道はなぜか「幽霊坂」或いは「化け物坂」呼ばれている。坂道自体がそう広くもない上、両屋敷から伸びる樹木がつくる木下闇とさざめきが、行く者を怯えさせるのだろうか。


神田川と目白坂に挟まれた下高田町に在る細川家の抱屋敷は、五千六百坪という外様の藩にしては広大な敷地の下屋敷であった。上屋敷は曲輪内呉服橋御門内道三堀沿いに在った。現代の場所で言うと丸ノ内一丁目総武線ホーム側辺りである。


江戸屋敷というのは、諸藩参勤の為に公儀から拝領された屋敷がほとんどで、邸宅自体を指して言うのではなく敷地そのものを言う。何箇所かに分けて拝領され、大きな藩はおよそ上と中と下に分けられている。


参勤した藩主は在府中は上屋敷に常駐し、世継ぎや隠居した先代などは中屋敷などに住んでいる事が多い。当代藩主が登城する都合でお城に最も近いのが上屋敷とされる。

御曲輪を始めお城の周りの武家地は譜代親藩を中心に公儀役務常勤者の屋敷が犇めき合っていた。そこに外様ながら五十四万石の細川家の上屋敷も在ったが、文化三年の大火で消失している。


後々、城周りよりやや郊外に離れて拝領された敷地は広く、各家中下屋敷等として整えられた。政務や生活の場というより、対外的に特に将軍様の御成りに対して、家中の余裕と威厳を示す為に贅を凝らされていた。


そして諸藩の殿様も国元に存ずるが時の如くには、おいそれと遊山に出掛ける事の出来ない窮屈な江戸勤め。しかしながら多少なりとも寛いだ気分を味わいたい。退屈を慰撫するその為の庭でもある。


また火事の多い江戸、上中の屋敷が被災した時の避難所としても活用された。その為の郊外の広大な敷地とも言える。拝領されたとは言え敷地内はそれぞれ諸家中の域。どの様に作事して過ごそうと基本的には勝手。各藩競う様に贅を凝らした庭園を造り上げていた。

まして抱屋敷は幕府から拝領した敷地ではなく、自前で購った土地で純粋なる家中の領分。思う存分に贅を凝らせる事もできたのだった。



細川家目白の屋敷。湧水を活かした泉池は清い水を漫漫と湛え、金銀紅白山吹鼈甲と錦の鯉が鷹揚に鰭を遊ばせている。調えられた樹木と起伏と巌をあしらえられた小丘築山から観る広壮雄大な景観は、さながらお家三代網利公が造り上げた肥後水前寺庭園の様である。


そんな中、邸宅から離れて奥まった一角に、深林鬱蒼として調え手を施していない箇所が在った。

雑木と笹の藪、巌から崩れた細々こまごまとした瓦礫も年季で苔むしている。小虫も多いので鳥たちの恰好の餌場でもあるようだ。

人が分け入る事が全く出来ない訳ではなかったが、庭にしてはあまりにも自然じねんとして険しい。林は小山の斜面となっており、苔むす湿った岩場も多く、ちょっとした渓谷の様にもなっているのだ。


しかしながら、そんな森林の中に一つの四阿あずまやが在った。

日の本の作風というより、道観然とした唐風廟の様な佇まいの草臥れた堂である。四辺は遮蔽された壁は無い。吹き抜けである。

堂は年季で黴臭い。が、その中には場違いの様に桧で出来た真新しい斎壇が築かれていた。

壇は三段。

斎壇は堂の北西側に設けられている。

一枚の奇岩の前である。築山とは思われない自然の小山の崖下にそれは在った。丈は二丈ほどの高さ。その前に立つと今にも此方に倒れてきそうな傾きで突き出している。苔に覆われた姿で岩肌はほとんど分からない。緑苔は瑞々しく小虫が無数に這っている。

巌は閉じ切らない岩戸の様で、左西側に一尋幅ほどの洞穴が深く玄い闇を覗かせている。穴の正面には斎み竹が設えられていた。穴の両脇に立てられた青竹を柱にして張り紙垂しでをあしらえた注連縄を渡らせてある。何匹かの血朱いくちなわが巻きついている。どうやらジムグリの様だ。


どうした祭祀なのであろうか。天津神や国津神を祀る神道での祭壇なら、普通は米などの五穀や果物、御神酒、真新しい供物が供えられているはずだがそうした物は無かった。

僻穀へきこくしているのだろうか。


正面は五芒の机宅。その中央には各辺に黄色い御幣みてぐらが置かれている。純白では無い神道純粋の御幣などまずない。文字と文様が朱筆で書き込まれている。これらはどうやら霊符であろう。陰陽霊符か。どの符も違った文言形だ。幾つかの画には眼眸が見える。口舌にも見える。獣の角にも見える。奇しい意匠。かろうじて読める文字は独特の篆書体で書かれた「急急如律令」という文言だけだった。


吹き抜ける微風に思い思いにひらひらと翻っている。文字は揺れる黄紙の揺らぎに合うことなく微妙にずれて蠢いて見えていた。

五芒の内には細川九曜紋が象られた布が敷かれており、その中央に置かれている崑崙の脈が象られた翡翠の香壚から、ほんのりと白檀香が香ってくる。


四隅の太く鞏固きょうこな朱塗りの柱は、土台から二尺ほどの高さでくり抜かれていて、その孔の内側には尺を超える高さの絳とした太い線香が、燻し焚かれて烟りが撚り絡む様に揺蕩っている。

神道と道教の儀式の祭具が混ざっていて渾沌としている。同じ場所にてそれぞれ祭祀を執り行っているのであろうか。

儀床と斎壇の四隅には御幣が掲げられているのだが、そのどれもが純白ではなく丹の様に朱い。

やはり神道の祭式ではない様だ。どちらかと言うと醮に近い。大陸支那の道教の建醮祭式が取り入られてみえる。


一瞬、影が動いた。


儀床の左右に篝火が点った。


昼の明るさも落ちて辺りは翳りを増してきた。

突如、ごろごろと音を立てて重い鈍雲が現れる。沼底の泥土が魚泳に湧きあがる様に。

岩戸の奥、洞穴から冷たい気が這い出てくる。


にちゃりにちゃりと何やら粘度の高い音が聴こえてくる。

その音の方を見やる。

脂分水分の失って節くれた人らしきものの指が、岩戸の縁を掴んで力を込める。右手左手と腕が現れ身を乗り出す前に顔貌が現れた。

振り乱れた頭髪の合間から覗く面構えは、沼藻の様な濃緑で目鼻が見当たらずのっぺりとしている。ただ横に線の如く薄らとした亀裂が無数に有る。髪の隙間から白い妖蛆が一匹二匹と這い出て来て面をのたうちだす。やがて亀裂の一つが開くと青黒いねっとりとした太い舌が現れて蛆虫をさらった。別の亀裂が脈動する様に開いては閉じる。食餌の愉悦を味わっているのか。が、突然すべての亀裂が見開いた。すぐさま舌が突き出されると宙をまさぐる様に動き出す。餌の臭い。

禍々しい妖気だけを醸しだしている。

もっと身のある物を、美味い物を、人を、生命を、更なる愉悦を、魂を喰いたい。そうした慾望の臭いを撒き散らしている。


が、斎み竹を越えられない。

妖異は焦れて掠れた喉声で咆哮する。

その強力な結界を拵えたのは誰なのであろう。


斎壇の前にはいつの間にか人影が現れていた。三つの人影。

儀床に最も近い人影は高烏帽子してあかい祭服を纏っている。手にしている鈍色の祭具はどこかしら仏門の三鈷杵に似ている。後の二人は黒子の様な姿で脇後ろに腰を落として傅いている。首を垂れている顔貌は分からない。


祭主は真っ直ぐに前を見据えて祭具を段に置いた。

代わりに御幣の附いた緑葉の枝を振った。抹香の香りが辺りを漂う。どうやらしきみの様だ。江戸には地生しない。仏事によく使われるが神事にはふつうさかきが用いられる。櫁には毒性が有る。


主は聴き取れぬほどの声で祭文を唱え始めた。

低く太い。


櫁を大きく振るとそれを二つに分けた。傅いた者どもは主の左右から近づき、恭しくそれを受け取るとそれぞれ篝火に差し入れた。

櫁が白い烟りをと臭いを醸し出す。煙は焔に煽られ一度渦巻いたが細い線となって祭壇を廻り洞穴に吸い込まれてゆく。二人の人影も烟りと共に吸い込まれてゆく。

陽は落ちた。空はまだ明るい。岩戸も廟もすでに昏い。祭文は続く。篝火だけが辺りを照らしぱちぱちと音を点てている。主の声は続く。烟りに乗って洞穴に吸い込まれてゆく。


岩戸の内から咆哮が聞こえた。喘ぎ声だ。


祭具が震えだす。


やがて黒い者たちは戻って来た。

何かを浴びた様にぬんめりと体が濡れている。

その一人は手に小匣を携えている。奇しい刻印の施された鈍色の匣だ。主はそれを受け取ると黄色い霊符を貼り付けた。


「これを御前に」


絳服の施主は小匣を、控えていた武家装束の漢に手渡した。年配のその漢は細川家家老の米田是睦だった。


主は立ち去る家老を見送ると祭壇に向き返り、一際大きな声で祭文を唱え祭鈴を振り鳴らした。


雷鳴が鳴る。


空は晴れた。星宙だ。


黒い人影二つは失せている。


灯は消え辺りは底闇と鎮む。


火眼金睛が独りにやりと嗤う。





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