第14話
肥後熊本藩細川家目白台御屋敷。
池端の樹林の枝で、凶々しい赫い眸の鳥がぎょおぎょおぅと啼いている。
邸の奥、御前の間は並々ならぬ妖気に包まれていた。
閉ざされた大襖越しに聴き入れば、カリカリとゴリゴリと硬質で面妖な音に加え、何かしら魔的な偈頌が低く太い
米田は苑の祭壇に於いて祭主から頂いた小匣を恭しく掲げ持ち襖の前に平伏した。
「御前様、お預かりしてまいりました」
その口上の直ぐ後、音声はピタリと止んだ。
襖が音も無くゆっくりと両に開いた。
御前の間は闇と靄に覆われている。
溢れ出る妖気が、無数の小蟲が湧き出る様に、米田のひれ伏す取次の間を覆い尽くすのに時間は掛からなかった。
差し出した小匣は誰が触るでも無く床を擦って御前の間に消えて行った。何かが一度だけ瞬いた。低い咆哮が腐臭と共に米田を覆った。
米田は震えた。
襖は閉じられた。
九日間、同じ事が繰り返された。
この邸にはいったい何が起こっているのであろうか。
そして一旬の後、
風が強く吹き出して重い雲が立ち込め始めている。闇が更に深くなる。
遠鳴りが聞こえた。
中奥、上段の間。細川家九代藩主従四位下越中守
今は隠居した前藩主
「父上の御様態は芳しくないのであろうか」
夜半の呼びつけられた当主は米田に訊いた。
「いいえ、決してその様な事は…… 」
「では息災でお過ごしか」
若い藩主は涼やかな声で米田是睦に尋ねた。
米田は元江戸家老。今は斉茲付き側用人であった。
「はは、御前に在られましては誠に御健勝の事。恙無くお過ごしで御座います」
「そうか。御目通りして無沙汰を詫びたいものじゃ」
「いや、それは…… 」
「叶わなぬのか」
そもそも現当主の斉樹が目白台の邸に来るのは隠居のご機嫌伺い以外にはまずない。この半年の間、それも遠慮する様に言い渡されていた。
が、この夜に急遽呼び出された。
寝たきりで意識もないとかなら、枕頭とまでいかなくとも近くで声を掛けるくらいはと思っていたところ、すこぶる健勝というのであらば無沙汰を詫びる挨拶を伝えたい。無体な希望ではないだろう。斉樹にとって米田の反応は解せないところだ。
「米田、父上は真に御順快なされて、今は心身御大切にお過ごしなのだな」
「はは」
「ならば何故にこの様に長く待たせるのだ」
「それに就きましては…… 」
その時だった。
「御成りに御座いまする」
松と瑞鳥の蒔絵に彩られた側襖の向こうから小姓の声が聞こえた。静かに開いた襖の奥から近習を従えた白綸子の夜着に墨色の羽織り姿の老爺が現れた。隠居の斉茲だ。
足どりが見るからに覚束ない。
斉樹は即座に上框の座を降りると、平に傅いて斉茲が上段に座するのを待った。
老体は座布団の前まで来ると南面して腰を屈めた。
米田がすかさず御前の軀を支える。
「父上、御健勝をお慶び申し上げます」
斉樹は息子として父の健やかなるを素直に喜び微笑んだ。
斉茲といえば斉樹が座している方に視線を向けていない。何故かしきりにしかしゆっくりと首を傾げている。
「うむ、無沙汰…で…あった」
「は、申し訳ございませぬ」
「よい。
「ご寛恕、この上なく有難き仕合わせにござります」
斉樹は居住いを直した。改めて父斉茲の
前に見た相貌は肉付きも良く艶やかであったが、今は頬骨が張り出して痩せこけている。眼窩も異様に落ち窪んでいる。だがそこにある双眸だけは、黄金色の異様な輝きを放っていた。斉樹は微笑を凍りつかせた。
文化七年に致仕して家督を斉樹に譲り隠居したとは言え、出家した訳ではないからその髪の調えは法体ではない。かと言って隠居髷にも思えない。
鬢脇はどこか粗々しく、何か糸の様な蠕虫が蠢いている風にも見える。米田が御前に向けて扇を仰いでいるので、そう見えるのだろうと思い、斉樹は視線を逸らした。
「米田が…何かとこ…の年寄りの身…を案じてくれての…… 」
斉茲は斉樹に見開いた眼差しを向けたまま、顎と唇を動かしているがなかなか言葉が出ない。斉樹は言葉を掛けずに父の次の言葉を待った。
斉茲は米田の差し出した湯呑みを口に運んだ。喉が一度二度動いた。とろりとした目つきを何度か瞬かせた。虹彩に
「こうしての……高麗の薬湯などを下に煎じさせて服ませてくれるのだ。お陰で日々健やかに過ごしておる」言葉が滑らかになった。
「それは何よりでございます」
そう言って斉樹は莞爾とした。
「して、時にこの度は…… 」
「うむ、細川家当代に、家中先々について、特に家宝について話しておきたい事と訊いておきたい事があっての」
「と申しますれば…… 」
「知っての通り儂は宇土から本家細川を継いだ身。本流ではない。つまりは秀林院殿嫡流が祖ではない」
明智光秀が娘の玉、後のガラシャは
細川家。細川氏としての家系の流れは長い。
清和源氏の嫡流で室町期では守護大名あったがその後一度は零落した。
江戸期の細川家は戦国の世で盛り返した細川藤孝(幽斎)を祖とする。関ケ原での功により小倉藩を戴き後に加増されて豊前から肥後に移って五十四万石の大名として今に至る。
宇土六代藩主・
宇土藩祖・細川立孝は熊本藩祖細川忠利とは異母弟の為にガラシャとは血の繋がりが無い。
「ガラシャ様はな、西方浄土より尊きお方が遣わされた覚者で在られたのよ」
西方浄土。阿弥陀経に謂う極楽浄土の事である。故に仏土である訳だが、ガラシャはキリシタンとして唯一の神に帰依している。浄土と天国はまた違うものである。
が、斉茲或いは細川家中では、ガラシャを西方に在る伴天連の国々の神が治める黄泉の國の使徒と崇めているのかも知れない。
「さて、ガラシャ様の事は家中の伝書で如何様にも知る事は出来る。当代である其方もな」
「はは」
「だがの、その浄土への道はこの細川屋敷からも通じておるのだ。これもガラシャ様の御導きよの」
「浄土への……この屋敷からでございますか」
斉茲の薄い嗤笑が口元からもれる。
「しかしな、その道もガラシャ様の珠の導きがあっての事なのだ」
斉茲は謂う。神君開府以来天下泰平と思えた世の中が、昨今に於いて怪しげな者どもが跋扈する様になったのも、幕閣の賢しらな面々が恣意的に御政道を乱している故であると。このままだと江戸はおろか、国許果ては三百余州が惑乱しかねないやもしれぬと。
大藩とは言え親藩ではない細川家が幕閣に登壇はある事ではないだろうが、己が家中を護る事は成さねばならぬのだと。
「仰せの通りに御座います」
老御前の説をひとくさり傾聴して首を垂れた。
斉茲はじっと斉樹の後ろに眼差しを向けたまま暫くは押し黙っていた。斉樹の後ろの遥か漠野を望んでいるかの如くに。その漠野にも細川家の主人が居るのであろうか。
斉茲の双眸が妖しく耀るのを斉樹は気がつかないでいた。
「ガラシャ様縁の宝珠が宝玉として伝えられている。伝来の目録には記されてはおらぬがの。つまりは口伝。しかし、家中の何処に有るのかは今は分からぬ。国許にも見つからぬ」
珠には霊力が有るのだと謂れている。多大なる活力を秘めた輝石であり、時を見通せる力であるとか、生きたまま浄土へ渉れる力だとか、口伝故に今では定かでなくなっている。
「しかしその様な話は当家の史書には見当たりませなんだ」当家の事蹟については、当代の務めとして斉樹もよくよく研鑽は積んでいた。故に困惑が言葉として出てしまった。
「だから口伝と言うておろうに」
白眼を剥いて苛々と応ずる言葉には怒気が含まれていた。
「斉樹よ、生い先短い年寄りの世迷言と思うてか」
斉茲の双眸は滑りながらも異様なほどの輝きを放っている。そこに強い執着が窺える。
「時は大事じゃ。
「近うへ来よ……斉樹よ近うへ」
雷鳴が轟く。
斉茲の影が一瞬巨大に映し出される。
斉樹の耳の中に斉茲の掠れ声だけが呪詛の如くに低く流れていく。
斉樹の
突如の雨が激しく瓦を打ち叩く。
「よいか餓邏赭珠を見つけ出すのじゃ、斉樹。細川家安泰の為にもな」
「御意」斉樹はぎこちなく平伏した。
斉茲は憔悴した相貌を伏せると同時にゆるりと右手の甲を一度振った。斉樹にもう下がれという事なのだろう。
「御当主様、御前はこれにて……」米田は斉樹に平伏した。
「恐れ入りまする」斉樹は退出した。
「なんという事だ……」斉樹は思わず呟いた。
玉の様な冷や汗が噴き出している。
雷鳴が轟く。
斉樹は己の居る取次ぎの間の天井を
大悲胎蔵生曼荼羅。中央に主尊な大日如来。それを囲む様に八葉に如来と菩薩が配されている。胎蔵界曼荼羅は大日如来の慈悲の基、空間を表している。仏の姿は憚れているが細川九曜紋は正に胎蔵界曼荼羅からきている。それが紋の由来であった。
しかし…………
雷鳴が轟く……
「なゔぁぐらは…… 」斉樹は虚ろな双眸のまま呟いた。
何かが坑道の闇を踠き這いまわる。
月星の明かりの無い
明日は朔である。
赫い眸の鳥が羽根を濡らして飛び去った。
声だけを残して。
文政異聞・四ツ家坑談 蕗畠 遼 @miijyo
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