第2話

卓を手が踊る。

手の甲を揺るがして広げた指が互い違いに動く。やがて指先が椀を認めて掴んで持ち上げる。

持ち上げた煮物の椀を鼻先まで近づけると、大袈裟なくらいに鼻の穴を広げて香りを嗅ぐ。それから顎から先に顔を背けると、何故か耳を欹てる様な仕草をする。何を納得したのか分からないが、頬を緩めて大きく頷くと、右手に持った箸を椀に近づけて煮しめの芋を拾って口に運ぶ。顎を引き舌の上の芋を支えて奥歯で押し潰す。ゆっくりとだが何度もすり潰してから喉に送る。


「美味いねぇ」


先ほどから目蓋は閉じたままだ。

「お待ちどう」

ことんと音がする。

眉を動かし首を傾げる。

箸を置くとその手がまた卓の上を探る。

「お盲らさん、あんたお按摩なさるのかい」

奥から出てきた店の女は、宅悦に猪口を握らせるとひさげの酒を注いだ。


ちょっとした重みも分かるのかあるいは器のぬくみか、宅悦はすぐさま猪口を口に運ぶ。

「美味いねぇ。美味い酒だぁ」

宅悦が大袈裟に言ってみせると女は笑った。


両手を持ち上げて突き出した後に指を動かす。

「按摩でげすよ。語り部や法師にはみえやしねぇでげしょ。のぅほほ」

「面白い人だねぇ。あたしゃ呼んだこたぁないけど、法師さまなんかより楽しい噺を聴かせてくれるって言うじゃないか。一度使わせてもらおうかね」宅悦は眉を小刻みに動かした。口許で笑う。


「ねぇさんは噺は好きなのかい」

「ああ、こんな所で働いてるからね。色んな話を聴くし喋るよ。愚痴なんかも聞くけど、やっぱり楽しい噺のがいいじゃないか」

「そりゃ違ぇねぇ」

卓の猪口を摘みひさげを探す。

「あいよ、ほら」

女は酒を注いでやる。

「いいのかい。わっちばかりに気ぃ注いでて」

「なに、小上がりの客には若い子がお呼ばれに行ってるのさ。気にしなくていいよ」

あと半刻もすれば店仕舞いの刻限。店にはもう小上がりのその客と宅悦しかいなかった。

「なら、そうだぁねぇ・・ついこの間の事なんだがね」

宅悦は先ほどまでの愛想を消して女の方に真顔を向けた。

「えっ、ああ、聞かせておくれ」

「あんた、名前は」

「あたしはハツだよ」

「ハツさんか。おハツさん、夜なんだ。もう四つは過ぎたろう。こんな時分だったよ、アレに会ったのは・・ 」間を置くと椀の中の小さながんもどきを一つ頬張った。


「わっちはその日、お馴染みさんから声が掛かったので、六つの鐘が終わらない時分に市ケ谷のやさを出たんだ。宅から客の旦那のお家まで大した道行きじゃあない。毎度知ったるまっつぐの通りだ。旦那の凝りを揉み解して、ちぃとばかし御酒ごしゅを戴いてお家を出た。『つきはじめの今夜は月明かりもないから気をつけてお帰り』なんて言われたけど、そんな事はわっちみたいな盲には関係ない。まぁ早く宅にたどり着くにこしたこたぁないんだ。夜中にまた声が掛かる事もめずらしくないからね。呼び状がとぼりに挟まってる事もある。盲に文が分かるのかって。知った相手は文に穴を開けてあるのさ。穴の開け方で何処の誰だか分かる按配だ。

ああ、帰り道での話だったな。このとおり杖頼りの身だ。店構えの出っ張りや火除桶にぶつかりたくはないから端っこは歩かない。通りの真ん中歩きゃなんてこたぁない。ぶつかりゃしないがこけるこたぁする。ちぃとばかしコイツをやり過ぎると、杖のおっつけが定まらない。あん時も杖の先っちょがやっこいもんを突いた手応えで、やれやれとその場で二つほど深い息を吸ったわ。それから杖で地べたを探るとどうも何かが触る」

宅悦は表情も静かに、大して高揚も付けずに語ってゆく。

女は惹き込まれてとうとう宅悦の向かいに腰を下ろした。宅悦がのっぺりとした顔をするので酒を注いでやった。猪口をあおってにやりと笑う。


「それから……  」


「それから、そのやっこいもんを何度かつついて、布の様な物を引き摺ったのもあって、肌の柔さの感触が伝わってきたんだよ。盲でも按摩にゃ分かる」

「そりゃそうだろうね。地べたのそれは人だったのかい」

「・・・ああ、すぐそう思ったよ。でも切れっ端咥ぱしくわえたわん公だったりして、食いつかれたりしたくないから手は出さずに声を出したよ。『もうしもうし』てね。何度か声を掛けたが返事はない。仕方がないからまたブツをつついてみた。動きも呻きもしないから、はたくように探ってみた。どう診たてたって人の形だ。しゃがんでこの手で触れてみたんだ。縦から横にね。そいつの肌は地蔵に供えた冬場の餅より冷たくて固てぇ。さっきはやっこいと思ってたのにもう固てぇんだ。それから・・腰抜かしたよう。声もなく尻もちついて後ずさったわ。仏を触っちまったのさ」

「なんだい、おまえさん坊主みたいにツルッとしてるのに、仏さまが恐いのかい。あたしゃ子供ん時から長屋で幾人も見てるよ。今更死人くらいどうってことはないね」

「かもしんねぇが、死人が地べたを転がってりゃ、話は別なんじゃねぇのかい。そいつを触った時に、顔があってその下にはだけた胸があって腹があった」

「普通じゃないか」

「頭が有って胸が有って・・それを繋いでたもんがねぇんだ。首がねぇんだよ。たまげるじゃないか。なぁそうだろう」

「首を撥ねられてたってわけかい。お侍の仕業なのかね」

「そういうんじゃねぇんだ。ザックリと剥ぎ取られて感じだったんだよ。離れた上と下がかみあわねぇ。まぁ、動顚してるわっちも気がつかなかったが、報せた番屋で親分さんに後で聞かされた話さ」

「そりゃあ野良犬の仕業じゃないんだろう。やっぱりアレかい。例の……  」女は身震いをした。

「・・・かもしんねぇし・・まだ分かっちゃいねぇ、慥かに月夜じゃねぇ晩の事だからよ。まぁ、今夜は月も昇っているが、ねぇさんも気をつけた方がいい」

「わたしゃこの裏だからなんてことはないさ」

勝気なことを言ってはみたものの、身の縮む思いは反古ほごには出来なかった。


それからは取り留めもない四方山噺よもやまばなしで笑った後、店も仕舞で赤提灯の灯を落とした。

宅悦はおハツの愛想に送られて、市ケ谷の宅に足取りを向けた。小上がりの客は一足先に出ていた。


五町も行った処で風が強くなった。時よりすそをめくるほどの風になる。通りを右から左、路地から雑木の枯葉が飛んでくる。拾い残された馬糞が砂をかぶる。


宅悦は嫌な風だと思った。

止んだり吹いたり、横風ばかりではなく、出所も知れない突風が、何か獲物を拐う算段でもしているみたいに、合わさっては弾けて消えてゆく。


(これはいけない……  )


血腥ちなまぐさい。


上弦の月が嘲笑わらいはじめている。


(揶揄からかいなさるなよぉ)


どうやら奇し風は一足先に獲物に当たったようだ。風は血の臭いを四方八方に拡散していった。



(歩みが遅くて助かることもあるようだ)


呻き声が・・男の声だ。


首を傾げて耳をそばだてる。何かが飛び出して来るかもしれない。やや腰を落として杖を握って身構える。何か聴こえる。かすかな音だ。風に紛れて定かではない。定かでないが血腥い音だ。そこの角を曲がった処で何かが音を立てている。宅悦は少しずつにじり寄った。何となく相手の気配が分かる。人の気配とは違う。


(喰ろうてやがるな……  )


怪しきものの慾望が血にけぶって渦巻いている。

俵の様なかたまりが倒れた男に覆いかぶさって小刻みに動いている。ぬめぬめとした腸腑ちょうふを引き摺り出して、血を啜り音を立ててかぶりついている。

一塵、宅悦の背中から塊に向かって風が向かった。塊の動きが止まる。裂けた窪みから腹腸はらわたが剥がれる。血がどろりと垂れ落ちる。二つの光がこちらを見ている。凶々しい光だ。刺す様にこちらを見ている。


(やれやれ。わっちにどんな因果があるってんだ)


塊の怒気がこもった荒い息使いが宅悦を威嚇する。見えやしないが、まともなモノじゃないのは気配で伝わる。化け物には隠気ってものが纏わりついている。陽魂の生き物を憎み喰らう浅ましい魍魎もうりょうの類い。

どうせ逃げても追いつかれる。覚悟を決めた。

宅悦は地べたを突いていた杖を胸の前ではすに構えた。


一瞬、塊が後ずさって縮こまった。

跳躍した。

宅悦との四間ほどの間合いを難なく超えて、血汚れたさるすべりの木肌の様な腕を伸ばして、掴みかかってきた。

その腕はやり過ごし、杖を化け物のからだの中心辺りをしたたかに突いた。だが相手の勢いに押されて宅悦は背中から転んだ。転びながらも膂力で杖を押し上げて、化け物を後方に弾き飛ばした。しばし這いつくばったが痛手はない。


化け物は道向かいの家の庇まで吹っ飛んで地べたに落ちた。双方すぐさま起き上がり向かい合って身構える。食餌を邪魔された化け物の怒気は凄まじい。戦意は衰えない。一方の宅悦の殺気も並々ならぬものがある。江戸の夜更に荒ら神が二体向かい合っている。


宅悦は化け物の長く伸びる四肢を用心した。きっと腕だけじゃないだろう。案の定幾つかの蔓の様な触手が宅悦に向かって伸びてきた。

一本二本は身を躱してやり過ごし、三本目の触手が宅悦の腹を穿つ瞬間、ばさんという音をたてて地面に落ちた。


面の前で構えた杖がきらりと光った。


仕込み杖の刃が鋭い光輝を放っている。


宅悦は片頬を引きつらせて北叟笑ほくそえんでいる。


が、化け物はたじろぐ訳でもなく敏捷ににじり寄って来る。どうやら跳ぶことは出来ても走る足脚は持ち合わせていない様だ。

襲い来る触手を宅悦はことごとく斬り落した。

化け物はえた。斬られた傷の痛みにというより、忌々しさに怒声をあげたのだ。


次の瞬間、軀ごと宅悦に突進してきた。避けている暇はない。待てば後ろの壁に叩きつけられる。横に薙ぎ払えば飛ばされるだろう。ならばこちらも向かって駆けるしかない。

化け物の勢いはその軀で弾きに来ているはやさだ。

止まりはしない。

その頭はもう宅悦の顔の前まで来ている。しかし、その間にはきらりと輝る刃があった。宅悦はその身体を下に潜らせて行く。宅悦の上で化け物は自らの勢いで鋭刃に真っ二つに裂かれていく。


さりりりり、ばさり。


地べたの上で二つに分かれた醜怪な塊があちらこちらの肉を痙攣ひきつらせている。が、やがてそれもおさまって動かなくなった。


宅悦は身を起こして立ち上がると首を振ったり回したりして辺りの気配を伺った。殺気が失せたのを認めると仕込みの杖に刃を収めた。

フッと動きを鎮める。

殺気はないが気配はある。

背後の表店の屋根の上を見えもしないのに仰ぐ。屈んでこちらを見ている人影が一つ。それはすぐに音もなく消えた。


宅悦は首を直すと北叟笑んだ。

「やな渡世だなぁ……  」

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