第3話
それは病いと思われた。
病の末の気狂いと思われた。
実際のところ、東都江戸の闇夜に初めて現れた怪しき徘徊者に、腕を喰われた女が半月後には軀のいたるところを爛れさせて死んだ。病床についていた女を介護していた連れ添いが、やがて身を爛れ壊れさせて正気を失った。そして新月の夜に歩み出て通りをよたよたと徘徊して人を襲った。
襲われた者は皆どこかしらを噛み付かれ肉を喰いちぎられていた。逃げおうせた者の幾人かは
巷の庶人は色々と噂した。瓦版屋や読み売りも面白おかしく書き立てた。そしてこの狂人たちのあり様に名前が付けられる。
「
この初めての事態は文化八年秋の話で、今節文政の世になるまで時節を空けても小規模に繰り返されていた。が、「江戸煩い」で死ぬ者ほど頻繁なわけでもないのだが、やはり得体が知れない怪異は江戸の人々を不安にさせていった。
この件に始末を着けるのは町奉行の役割となっていたが、夜の現場であることが多く、町方より火盗改めの探索方がかち合うこともしばしばあった。
その内、老中寄り合いでの評定により、火付盗賊改預りの沙汰が降りて、当分は探索や始末が為されていたが、時の老中首座にあった青山下野守は、めぼしい成果が上がらぬ状況に業を煮やして、若年寄支配として新たに妖異と怪賊を調索して吟味する役目を設けた。
正式な役名は「市中風説吟味改方」とした。
時を待たずして御先手組惣頭がこの任に当たる事となった。
今節の御先手の内、筒組二十組を束ねる筆頭組頭・菱多左内は出役として市中風説吟味改方を承った。探索の実働部隊である。
同役の専任同心は組内から数人を選出する心づもりであったのだが、役目柄極めて腕の立つ人物を選びたかった。しかし現状の筒組内には剣技や闘術、捕り方に秀でた者は数少なかった。
当初、手始めの人員は各組から一人二人ほどと目論んでいたのだが、未だ数人しか選べず他は目星も付いていない有様で半年が経とうとしていた。
その間にも妖異こと存糜爛は幾度か江戸の町を騒がしている。
左内が同組与力増田兵衛の推挙により同心・速水又左衛門を内々に呼び出したのは今から三年も前の秋の事。昨今の秋雨には珍しく、番傘を叩く音も烈しく、袴の裾もしたたかに濡れたのを又左衛門は覚えている。菱多宅に着くと替えの袴を用意された心遣いに、至極恐縮したのも覚えている。左内に言わせれば「新調したばかりの畳が汚れる」との計らいでしかないと、
「今宵、お主を呼び出したのはお勤めの話なのだが、今のところは内密に願いたいのだ」
「畏まりました。して、この老体に務まる向きとは如何様な」
仄暗い客間で相対した左内は湯呑みの茶を一口含み喉を潤してから続けた。
「この度、若年寄御差配により御先手組惣頭配下としてお役目を賜わる事に相成った」
「これはお目出度きこと。してそのお役目は」
「うむ、これじゃ」
左内から差し出された「下」との一文字が記された奉書を、又左衛門は恭しく受け取り礼を拝した後に披見した。
「市中風説吟味改方…… 」
「表向きはな、昨今に多発する江戸市中に於ける怪しき案件を探索して、事の次第を探り庶民の生活を安寧に導くお役目という事だ。御老中下野守様御言葉としては『妖異怪賊改め』であると聞かされた」
「御老中・・下野守様・・青山下野守様」
「うむ、そのお役名ちと憚りがあるとして、若年寄の京極周防守様が、無難な役名にお直しになられたのだ」
「・・なるほど。つまりは市中で噂の存糜爛の真偽の解明でしょうか。あれは火付盗賊改方が担っていた案件と聞き及んでおりましたが…… 」
「町方や寺社方も公事勘定吟味で手一杯ではある。火盗にしても元々の役目案件が殊に増えている最中、海のものとも山のものとも分からぬ事案に煩わされるのは、唯々難儀といったところなのであろう。頭の井上殿が事もあろうに稟議を挙げたと聞く」
「激務でござりますれば…… 」
「なれどこのまま放っておく訳にもいかず、改めて評定がなされ、御老中青山下野守様の直截の御沙汰により、新たに役義を設けられた次第」
「それが妖異怪賊改方・・されど妖異と申されましても、巷の伝聞、にわか記文に
「慥かに
「しかし動顛の内に襲われた者も、何日か後には何やら瘧の如くに震え、熱を発して玉のような汗をかき、肌を冒されたと聞き及んでおります。小虫の様な痣、そう斑猫が肌を這いずり跳び動くが如くで『
「なかなか
「『妖異』は分かり申しましたが『怪賊』とは」
「近頃の鼠小僧、弁天小僧の事であろう。徒党組まぬ一人仕事の盗っ人は、容易に尻尾を掴む事ができぬ故に、何か手妻などの手腕を用いているともとれる。巷人の話に依ると妖しの術を活かしているとも」
「なるほど、故に怪賊と」
「さて、我ら御先手をこの新たな役柄に担わされたのも、番方所以と心得たが、さりとて鋭士を任に当てるにも儂にはお主の他を見知せぬ故にの」
速水又左衛門が念流の達人であることは組内で知らぬ者はない。六十を前にして未だその太刀筋に衰えはない。
「与力様方々を差し置いて私の様な者が仰せつかって良いものかどうか」
「与力には与力本来の役目があるよってにの」
「はは」
「分かっておる。主も暇を持て余しておる訳ではないと言うのであろう。ふふ、まぁしかし
「畏れ入ります」
又左衛門は軽く目を閉じた。暫くは黙ったまま眉を寄せて思いを巡らせていた。そして目を開けて左内を見やると静かに言った。
「相分かりました。多少の間を頂ければ」
「任せて良いのだな」
「ただし、捕り方始末方は組内のみとはいかぬものと心得願い申し上げます。惣頭様にもお伝え願い奉ります」
「だろうの。相分かった」
この様な仕儀により、御先手筒組同心・速水又左衛門は市中風説吟味改方、通称妖怪改めの筆頭同心となった。
先ずは改め方の人員の選抜が最初の任務となる。
だがしかし、左内が申す様に組内から手練れを見繕うとなると容易ではなかった。三十人ほどしかいない増田筒組に於いて、腕が立ち物事に聡く仕事の敏い者は思い浮かばない。太平の世で番方とはいえ御家人は生活が困窮しており、武芸や学問に精を出す余裕など無い暮らしの中で、とうの昔に心得を無くしてしまっていた。筒組二十組に於いてもどれほどの適任者がいるものか。手練れは弓組十組からも探し出さねばならないであろう。あるいは武門の者ばかりとはいかないかもしれない。
又左衛門にしても、たかだか三十俵三人扶持の貧乏御家人ではあったが、爪に火を点す暮らしの中でも、祖父や父母は剣技を磨かせに道場に通わせてくれて、四書五経や儒学書などの文献書籍を手配して勉学にも勤しませてくれた。家督を継いだ後の人脈も、そんな技能知識が随分と役に立ったのだ。近隣の道場とはほとんど顔見知りとなっていた。弓組にも知り合いがおり、百人町の鉄砲組にも見知った者がいる。学問の師匠筋を当たる事もできた。
先ずは改めて組内の手練れを吟味の上、弓組にも当たってみるつもりでいた。
それから昵懇の町道場、雑司が谷は高田四ツ家に在る境道場に当たってみることにした。
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