第4話

秋茜あきあかね飛び交う中秋の雑司が谷。

速水又左衛門は相馬久爾蔭そうまくじかげ流の境格之進幹嗣の邸宅にあった。


又左衛門と境格之進とは昵懇じっこんの仲である。剣一筋で口も固く物事の見極めは知った仲では群を抜いていた。

旧知の久々の訪いに格之進はことほか喜んだ。

「どうも最近はからだが鈍ってならぬ。どうだ、久々に一つ手合わせ願おうかな」

「いやいや某などと……  」

「何を今更。わしの周りにはもう同輩で腕に覚えのある者はおらんのよ。この歳で他の道場の敷居を跨ぐ訳にもいかんだろう」

「境先生もまだまだ若いではごさりませぬか。きっと道場で毎日若者の鋭気を浴びておられるからで御座ろう。それに引き換え某などは日々衰えてゆくばかり。故にこの度もこの様なご相談に参った訳でござりますれば」

「うむ。であるならば・・どれほど衰えたか儂が検分いたそう」

「その様な戯言ざれごとを」

「ふふふ、そうよのう、うちの若者に又左衛門殿の古風を拝見させて戴くというのではどうじゃ」

この分だと境は引かぬだろうと又左衛門ははらを決めた。又左衛門としては遠慮してのやり取りではあったが、剣の鍛錬は毎朝毎晩に欠かさずに行っていた。

「分かり申した。一本という事で」

「有難し」


二人は道場に向かった。

廊下を渡ると多くの若い声が高らかに聴こえて来て、開け放たれていた道場の奥扉から、稽古の熱気が伝わって来た。

格之進と又左衛門が道場に入ると、その姿に気がついた師範代の男が「止めい」と声を上げて者々の稽古を制した。

皆はその場で一礼した後、二人が上座に坐するのを待って並び坐して居住まいを正した。


門人一同を見渡すと格之進は口を開いた。

「皆、励んでおるの。善哉である。此方に居られる御仁は知友の速水又左衛門殿。念流の達人である。念流は念阿弥慈音(慈恩)こと相馬四郎義元が応永の年に興した古流である。諸国行脚の間に印可を与えた弟子は十余人。その中には後に中条流を興した兵庫頭長秀の裔・中條判官満平、二階堂流の二階堂右馬助、真庭念流の樋口太郎兼重などがおるが、十四哲の一人・猿神前ましらかみさきというは我が相馬久爾蔭流の流祖であるのだ。我が流派も元は念流であるという事だ。奥義こそ違えど基本の技にはまず違いは無い。

本日は我れが一試合所望した処、心良く受けて下されたので、一本の立ち合いを皆の前で披露したいと思う」

道場に感嘆と期待の声が響いた。

境と又左衛門は顔を見合わせた後、黙礼して立ち上がった。門人たちはすかさず道場端に分かれ場を作る。


「田宮、木太刀を」

師範代の田宮伊右衛門は竹刀でない事にハッとしたが、達人同士の試技故、問題ないだろうと思い直してそれぞれに手渡した。

境には専用の黒塗りすぬけの木太刀、又左衛門には鍛錬用のやや重量のある赤樫の竹刀型。初め境は己の太刀を手渡したが又左衛門は断った。

又左衛門は二度三度振って按配を確かめた。それから境の顔を見て頷いた。


「では参ろうか」


二人して間合いの中、相対して蹲踞そんきょした後に青眼に構えた。その刹那、空気が変わる。気が横溢して迫と成る。お互いの気勢がどんどん膨らんで行き周りをも圧倒してゆく。

睨み合いはそう長いものではなかった。

境が上段に構える。と同時にするすると前に出た。境は退がらずに太刀を瞬息で振り下ろす。頭頂に来る前に又左衛門はッと受けて素捷く胴を払いに行こうとした。が、境はそれよりも捷く前に出て間を詰めて打ち込む隙を与えない。一瞬鍔迫り合い又左衛門を押した境が引き小手を撃つ。

間合いを取った二人はゆるりとした足捌きでお互いの死角を探してゆく。死角というよりも呼吸の間を探っているのだ。二人に体勢の乱れがあろうはずがない。


一同皆が息を詰めて見守る。誰もが唾も飲めない。次の一手を見逃すまいと眸子まなこみひらいて動かない。ただ一人、田宮伊右衛門だけが太刀合う二人の気の流れを読もうとしていた。


それから暫くは裂帛れっぱくの気合いの応酬となり、それぞれに互いの手技を繰り出して鬩ぎ合いを続けた。頃合いを見て境が気合を納めると、察した又左衛門は元の位置までに戻り、お互いは太刀を斂めた。


又左衛門が立ち合いの場を退こうとした時、格之進は声を掛けた。

「又左衛門殿、すまぬがもう一番。この田宮と試合ってもらえぬか」

門弟一同がどよめいた。伊右衛門も顔を上げて師匠を見つめた。

「当道場の師範代・田宮伊右衛門は紀州田宮流居合術の皆伝であり、当流の覚えの筋も宜しい。一手試合おうて検分願いたいのだ」

「検分と申されても、それはそもそも御流の内で評定なさる事と」

「いやまぁ、そうではあるのだが・・お願いしたい」何やら格之進の含みのある物言いを感じて、無碍むげに断るのをやめた。

「では田宮殿と一手仕ろう」

田宮伊右衛門は又左衛門に向かって真礼で応えた。


伊右衛門には解っている。先ほどの試合は門弟一同に技や呼吸を悟らせる為の正に試技。本気の応酬ではない。気迫は本物ではあるが七割か八割の試合。故に勝負をつけずに終わった。


さて自分はどうすれば良いだろうか。


速水又左衛門ほどの念流の熟練者に、気を控えて試合に臨む訳にはいかない。失礼にもあたる。師匠の目論みは分かるところではないが、道場門弟の代表として選ばれた以上は恥ずかしい真似は出来ない。たとえ気を抜かれて立ち会われても、自分は本気で立ち向かうしかないだろう。


先ほどまで飄乎ひょうことしていた眸子が、構えた途端に鋭気が横溢した。鮮烈な撃ちが来るだろう。

青眼に構えた剣先が鶺鴒せきれいの尾の様に震える。又左衛門は微動だにしない。居合いなら後の先だろうが伊右衛門は風の様に動いた。はやい。打突も力靭つよい。初めそれは単調な打ち込みであったが、次第に技を繰り出した。息吹、風返し、野分、竜胆、鬼綱、霍飛、冥虚と自在に変化した。

先ほど格之進も使った攻め技ばかりであるが、間を持たず軽快豪爽に繰り出される捷さがある。


(なるほどの。そういう事であるか)


天稟てんびんだなと思った。だが鍛えてやらねばなるまいと思った。格之進が伊右衛門と仕合せた理由は分かった。


(まぁ隙はあるの)


向かってくる技に対して一つ一つ返し技を使って応じてみた。隙はあるのだがそれを突くと間違いなく対応してくる。誘いの隙ではないのだが常人なら返り打たれるだろう。


(天稟の才だな)


しかし…… 。


陽も陰り出し、開け放たれた格子窓から二匹の秋茜が迷い込んだ頃、伊右衛門が打たれて終わった。それも当流の技でであった。最後の最後で念流の太刀筋でない技だった。


「不覚でした」礼を済ませた伊右衛門が言った。

又左衛門はしずかに頷いた。格之進と目を合わせた。お互い微かに肯んじた。




翌日、伊右衛門は師匠の格之進に座敷へ呼ばれた。

「田宮、儂はお主には免許を与えた。ゆくゆくは印可も授けようと思うておる」

「これは有り難き幸せ」

「ま、その前に少し、速水殿の所に通って古流の筋を修練してみぬか」

印可を与えれば道場を離れて独り立ちするのも勝手。格之進は自分の元を離れる前に、また一つ剣の奥義を会得する機会を与えておきたいと思っていた。

そして、速水又左衛門の依頼にかなうただ一人の人物として、この田宮伊右衛門を送り出すのが最適であろうと踏んでいた。


それから暫くして師匠の命もあって伊右衛門は速水家に通う事になった。

日参しては一刻ほど稽古をつけてもらう。

木太刀の稽古故、時に烈しい打ち込みを食らって疲労困憊する事もしばしば。速水家の子女は初めは関わりなくいたが、やがてふた月もすると甲斐甲斐しく伊右衛門の手当てなどをする様になった。お互い心を通わせるに至るまでそう時間は掛からなかった。


或る日。

いつも通りいつもの八つを過ぎた時間。

伊右衛門は速水家の門をくぐった。

三間先の正面の玄関には向かわず、いつも通り左手の竹矢来の格子戸を開けて庭先に向かった。

この時刻なら又左衛門は南側に耕された畑で大根や豆、葉物の手入れや収穫をしている。伊右衛門もたまに手伝わされる。そして帰りには採れたての泥のついた菜を持たされる。昨日は稽古終わりに瓜と茄子の漬け物を出された。汗をかいた軀に塩の効いた冷えた糠漬けは堪らなく美味であった。当家の子女である於岩が三日おきに漬けるのだと言う。糠漬けは漬ける者によって微妙に味わいが違う。於岩が漬けた野菜の味は今まで味わった漬け物より、一段と美味しいと伊右衛門は感じた。


庭に廻って畑の方を見やると人の姿は無かった。

少しして、伊右衛門の立っている背ろ母屋の縁側に於岩が現れた。

「あ、これは伊右衛門様」

伊右衛門の姿を認めると於岩はあかるく声を掛けた。

「や、於岩殿。お邪魔しております。先生は…… 」

「父は本日所用がありまして与力の増田兵衛様のお邸宅へ出掛けております」

「そうでございましたか」

「時間までに戻れそうもないとのことで、申し訳ござりませぬが、本日はご自身で中伝の三艘の形稽古を練成なさってほしいと申しておりました」

「左様であれば半刻ほどお庭を拝借して構いませぬか」

「それはもう」

「かたじけない。於岩殿は私に構わず御家内をお仕えなされてください」

「はい・・では…… 」

縁で膝を着いていた岩が奥へ退くと、伊右衛門は持参した木太刀を取り出して、ゆるりと素振りを始めた。


四半刻、伊右衛門は形稽古をして汗を流した。

やがて頃合いを感じた於岩が奥から白湯さゆを入れて現れた。

「伊右衛門様、どうぞお使いなさって下さいまし」

於岩は白湯の載った盆を縁に置くと紺色の手拭いを伊右衛門に差し出した。

「於岩殿、お心遣い痛み入ります」

「なんの、この様なことで……お白湯をどうぞ。汗が退きますよ」一通り汗を拭った伊右衛門に於岩は茶碗を載せた掌を柔らかく差し出した。

暫時しばらく於岩を見つめた後、伊右衛門は於岩の心尽しを受け取って喉を潤した。

「美味い」飲み干した伊右衛門は改めて於岩の顔を見て微笑んだ。於岩ははにかんだ。


その後も伊右衛門の通い稽古の日々は続いたが、於岩とお互い懸想するのにさほど時間は掛からなかった。



「田宮殿、当家の人間にならぬか」

又左衛門の言葉に伊右衛門は当惑した。

それは……

「岩の婿になってもらいたいのだ」

襖の向こうの於岩は俯いて顔を赤らめた。

「私で宜しければ……  」

驚きに思案あぐねてわずかに俯いていた伊右衛門はやがて顔を上げ、又左衛門の双眸を見据えてやっとそれだけを口にした。

「うむ、かたじけなくも有り難い。ついては当家の役儀についてなのだが、ここに認めておいた。内密故。よくよく慮して改めて返答を貰いたい」

又左衛門は書き付けた奉書を伊右衛門の前に差し出した。

速水家の役儀が公に出来ないとは一体どの様な仕事なのであろうか。いささか怪訝に思った伊右衛門ではあったが、この時は於岩と夫婦になれる事と又左衛門に認められた嬉しさのが優っていた。

程なくして伊右衛門と於岩は祝言を挙げた。

文化十三年、丙子ひのえねの事であった。

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