文政異聞・四ツ家坑談

蕗畠 遼

第1話

ーーー石、草の葉、知る者のないとぼそ。岩、草の葉扉。なかんずく、忘れられた相貌。生まれたままの姿でひとり寂しく、我々は流浪の身となった。胎内はらうちにありし頃、我々は母のかんばせを知らずして、母親の肉体の囚われの身から我々はこの地の筆舌に尽くしがたき牢獄へやってきた。


我らの誰が同胞はらからを知っていただろう。我らの誰が父の心を覗き見ただろう。我らの誰が永遠とわ獄舎ひとやから釈放されただろう。我らの誰が永久の異邦人まれびとの境遇と孤独から解放されただろう。


ああ、悲嘆にくれる風に乗って彷徨う魍魎がかえってきた。御使みつかいよ、故郷を見よーーー


トマス・ウルフ『天使よ、故郷を見よ』

 



よくよく見れば提灯だった。


昏い道をふらふらと近づいて来る一つの明かりに二人連れの女主従はホッと安堵した。


雑司が谷に在る炭屋の惣兵衛の店を出たのが六つの鐘が鳴る半刻前。秋の夕暮れはつるべ落とし。目白坂を下って、女の脚で関口のお不動様辺りに着く頃には、日もとっぷりと暮れていた。


音羽の通りのすぐ先にある神田上水と江戸川の橋をそのまま渡って左に折れ、松坂町を通って古川町に向かうのが、赤城明神の門前町にある自宅に戻るには手っ取り早かったが、この辺りは早稲田田圃も近く、やぶやすすきの野っ原が多くじめじめしてどうにも薄気味悪い。

虫の声もうるさく、薮蚊が絡んでくるのも煩わしかったので、女主従は今ならまだ人通りのある上水の広小路をすぐに左に曲がった。

牛込の御家人町沿いの続く少し歩みのかかる道を選んだ。


「お静さま、足元お気をつけくださいまし。風で落ち葉なども多うございます」

「ええ、ええ、お先。今宵は新月。月明かりがないのがこんなにも心細いとは。さぞ旦那さまは心配なさっておいでだろうに」

「さようですよ。あんなに万年青おもとの話などをなさらなくても…… 」

「みみずくの吊るし飾りを買って帰るだけが・・ついつい、惣兵衛のご内儀の育てている万年青があまりに立派で。でも、そのおかげで一つ分けていただけたのですから」


お先は風呂敷に包まれた鉢植えの万年青を大事そうに抱えている。存外に遅くなったのは、これのせいで急ぐこともままならない事情もあったのだ。


「もう少しですよ。ここまで来たら、三町も行けば築土片町の木戸が見えるはずです」


お先がそう言って道の先を見やった時、何かしら明かりが点の様に見えて、やがて少しづつ大きくなって近づいて来た。


たしかに一つの提灯だった。歩調あゆみに合わせてゆらゆらと左右に揺れている。

その提灯の持ち手の顔はまだ分からない。姿はどうやら男の着流し姿の様に見える。藪から小さな蛙が跳び出してきたが、男の雪駄がそれと知らずに踏みつけた。


「お静さま、お迎えに参りました」

「その声は・・しん吉なの? ああ、ありがたい。お先と二人で心細い思いをしてました。さぞ旦那さまは怒っていらっしゃる事でしょう」


赤城屋のご新造である静は迎えに来たのが手代のしん吉だと分かると、お供のお先とともども安堵した。


赤城屋は上州大間々の上質な絹糸で織られた上等な反物たんものなどを扱う問屋であった。名を馳せた大店おおたなではないが、寛文の頃から六代続く老舗であるのはこの界隈あたりでは赤城屋くらいのものだった。


赤城明神の門前町に店を構える前は、江戸店の初代が板橋宿で表四間の店を始め、二代目の時に国許くにもとの上州商人の多い牛込に店を移した。

もじり織りの薄手で涼しい絽の羽織りは、蒸し暑い江戸の夏には大層な人気となった。桐生きりゅう産の絽の生地は良質だったので、扱いのある他の問屋よりも赤城屋は大いに繁昌した。


その後、何度かの大火に見舞われたが、一族奉公人共々商いを支えて絶えることなく続いてきた。

三代四代と店はさらに繁昌し、江戸詰御屋敷の奥や旗本の御内儀、大店の旦那衆御新造方々の覚えもよく、五代六代と身代は本家一族以上の隆盛を極めて、国許の誉れと讃えられた。

ついには日本橋の通り町に十間店を構えるのもそう遠くないだろうと、羨望の眼差しを浴びるまでに赤城屋はなっていた。


そう言われるまでにはなっていても、歴代の旦那の気質は慎ましいもので、当代の藤右衛門も豪奢な暮らしをするでもなく、華美音曲に溺れることもなく、驕ることなく商いに精を出している。


そんな謹直な亭主の連れ添いであるお静も、派手は好まず質素に奥を仕切って、息女を養い育てて所帯を慎ましく支えた。


娘は、桑名御家中の江戸中屋敷にて二年の奉公勤めあげて、この秋に婿となる同業の結城屋の三男坊と祝言を挙げる手筈となっている。静もやっと肩の荷が降りるといったところであった。



それにしても今夜は人の通りが少ない。まだ料理屋も店を閉める時刻ではない。


一町ほど向こう、道行みちゆきの先の商家の軒先。灯りの消えた立木灯篭の陰で、何やら人影が揺ら揺らと動いている。暗くて判然とは見えない。


辻君と云われる夜鷹も、場所柄をわきまえずこんな武家地に近い通りで春をひさぎはしない。こもも御座も抱えている様にも見えない。それが少しづつ近づいて来る。それにしても足取りが怪しい。腰の曲がった年寄りなのか背筋を張った影形ひとかたではない。その項垂こうべたれ屈み具合は、どちらかというと度を過ぎた酔客よっぱらいの足取りに思えるのだが、何にしても関わりたくはない。


「しん吉・・お先…… 」静は胡乱気に思う以上に妙に寒気を感じていた。

でももうすぐ町木戸。そこまでたどり着ければ灯の燈った番屋がある。二人の随身つきそいがあればそう大事にもなるまいと、静は改めて気持ちを気丈にした。


三人は静々とその人影を遠巻きに歩んでゆく。もうまさに通り過ぎる間際に、三人は異様な臭気を嗅いで眉をひそめた。


その刹那、彼の人影が振り向いた。


狂女。


縮れたおろし髪は曲り腰で地に届くまで長く、肩も乳房も露わに、汚れて破れて乱れた襦袢姿の年増女が、低い唸り声をあげている。痛めた足を引き摺る様に肩先に斜に歩む。


その足元には血潮で濡れ輝くはだけた着流しの男が横たわる。すでに事切れて動かず声もない。


わひわひわひわひわひわひわひわひ

音なのか声なのか……


わひわひわひわひわひわひわひわひ


しかしそれは静たちに向けて放たれている響きにも思える。顔、首、腕。皮膚の上を何かくろい蟲が走り蠢く。その這いずり動く音なのだろうか。


静は狂女から目が離せなくなっていた。

「お・・さ、き・・あれ・・鬼、夜叉…… 」

見開いた眼子まなこの瞳孔が凍結した様に動かない。


狂女の眼窩がくらく窪んでいる。蒼白い顔貌かんばせに闇のあな二つ。


ぼうわうわうわうわうわうわうわう


その奇眸きぼうの奥は地の底に続いている様な唸り声を挙げはじめた。


うろろろろろろろろろろろろ


口元からどろり。


どろりとした液体しるが途切れることなく地面に垂れて拡がってゆく。それは血糊の様だった。所々に肉の切れ端が混じって脈動する管の様な血の汁だった。


「ひっ!」


羅刹女の様な姿に動顛したお先は、抱えていた風呂敷包みを落とした。中で鉢が激しい音を立てて割れた。そのままのけ反る様に一、二歩後退り真後ろの静の身体にぶつかる。


しん吉は蒼白い顔つきで震えていたが、それでも気丈に女主従の前に二人をかばう様に進み出た。


血汚れた鬼女は、跛行の割には素早い足取りでしん吉に襲いかかった。腕を掴まれた。顔に冷たい飛沫が飛ぶ。

「ひぃっ」しん吉は恐ろしさのあまり提灯を女に投げつけた。ぶつけられた感触に怯んだのか、微かな温みにたじろいたのか、女は歩みを止めて一瞬身体を強張らせた。


その間にも静は震える袖で顔を覆いながらその場に屈みこむ。昼間見た鬼子母神の恐ろしい憤怒の形相を、思い出さずにはいられない。

自分には五百人の子供がありながら、人間の童を拐って喰らう訶梨帝母かりていも。恐ろしき鬼夜叉。羅刹女。この世のものではない霊鬼に遭ってしまった自分たちはきっと助からない。

それでも必死に「南無・・ 」と唱え続けた。


その時、


脇の通りから一人の男が滑る様に顕れた。


鬼女が翻る。


痩身のおとこ。暗がりで姿の委細は定かでないが、武張った銀杏髷月代からして武家の某かだろう。腰を落として長鞘を水平に直して掌は柄を握っている。すでに鯉口を切っていた。鞘から露の様にひかりがほとばしる。月明かりも無いのに刀身が綺羅と輝く。


鬼女はそれに反応したというより、他の感覚で感応している様子で侍に対峙した。


ぼうわうわうわうわうわうわうわう


両腕を肩並に上げて拡げながら威嚇している。

つんのめる様にして侍に襲いかかる。

だがその緩い動きは、どうぞ切ってくださいと言わんばかりで、漢は一で右手首を斬り上げ、二で左二の腕を落とし、三で首を撫でる様に斬り落とした。呆気ない。そん、そん、そんと音がしただけだった。

漢は懐紙で刀身の血を拭うと素早く鞘に納めた。

主従三人は未だ地べたに這いつくばっていた。

男はそれを流し目で一瞥した後、無言で闇の中に消えていった。


ただ一塵、風のなか誰の声か聞こえくる幽かなうたいがあった。


ーー ほとけはつねにいませども、うつつならぬぞあわれなる ひとのおとせぬあかつきに ほのかにゆめにみえたまふ ーー



残されたのは気の失せた命三人と、斬り刻まれたおれた鬼女と襲われた男。半刻後、店仕舞いをした夜泣き蕎麦屋が通りがかって、慌てふためいて番屋に駆け込んだ。

お先は店の者に一部始終を語り終えると、その後は日々思い出すと怯えて震えて暮らしている。静も先も未だに床から起きられずにいる。あれ以来、しん吉の行方は分からないでいた。

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