16
窓辺に身を寄せた仔鯨は、乗客たちの目にどう映ったことだろう。空飛ぶ小島に見えたという者も、別な飛行船に見えたという者も、あるいは幻と思い込んだ者も、いたに違いない。
誰もが口を揃えたのは、むしろ音にまつわる事柄だった。割れた雲のあいだから不思議な旋律が流れてきて、心に光を灯したという。混乱と諦めに支配されていた船内が鎮まり、誰もが同時に、穏やかに空に耳を傾けたという。
飛空船ホワールウィンドの乗客は、全員が怪我ひとつないまま、竪琴鯨のエデンソングによって救出された。浮遊用気体を完全に使い果たした船が墜落、大破したのは、その僅か数秒後のことだった。
涙ながらに抱き合う夫婦が場の大半を占めるなか、たったひとり、興奮の面持ちで近づいてきた人物がいた。ネアはいったん歌を中断し、エデンソングの肌を撫でてから、振り返った。
「お爺さん」
「長生きをするものだ。まだ信じられない。まさか人生を通じて捜して求めてきたものに、こうして命を救われるとは」
深い皺の刻まれた手が、ネアの小さな手を握る。老人は丸眼鏡の奥の瞳を潤ませながら、
「自己紹介がまだだった。私はロイネ。〈空都〉空棲生物総合研究所の研究員だ」
三人の少女と二匹の空魚、そして一頭の鯨がもたらした奇蹟に、〈空都〉の人々は喝采を叫んだ。一連の事件は大々的に報道され、空じゅうを賑わせた。訪れた記者たちを前に、最大の功労者、竪琴鯨の乗り手たるネアはこう告げた。
「私はただ、最後まで願いつづけただけです。決して誰も引き裂かれることなく、愛する人とともに家に帰れるのだと。一緒に戦ってくれた友に、祈りに応えてくれた相棒に、信じてくれたすべての人たちに、そして私に夢を与えてくれた天国の母に、感謝しています。人間も、空魚も、竪琴鯨も、この空を介して繋がっているのです」
〈黄金の雨〉にもむろんこの知らせは届き、街を代表してルーニーからメッセージが送られてきた。驚愕と感激の入り交じった文面の末尾には、彼女のサインとともにキスマークが添えられていた。代読したイルマは「あの馬鹿」と頭を抱え、聞いていたネアとペトラは顔を見合わせて笑った――。
事件から五日後、本来ならば飛空船での旅の最終日となるはずだった夕方、ネアとペトラは連れ立って公園を訪れた。〈空都〉の熱狂も一段落したのか、ふたりが並んで歩いていても騒がれることはなかった。久方ぶりに得られた、平穏な時間だった。
「ロイネ博士、寝る暇も惜しんでエデンソングの研究を進めてるみたい。研究室を覗いてみて、びっくりしちゃった」
「きっと本当に無我夢中なんだね。でもその気持ち、分かるな。私も飛んでるときは夢中だから。それにしても、あのお爺さんがロイネ博士だったなんて――私、髭で眼鏡の謎の老人としか思わなかったよ」
空棲大型種の研究に情熱を捧げてきた博士にとり、エデンソングとの出会いはまたとない幸福だったようだ。ぜひとも間近で観察させてほしいと懇願され、いったん研究所に預ける運びとなった。〈空都〉滞在中の宿こそ飛空船を所有する会社が手配してくれたが、エデンソングに関してはさすがに世話になるわけにもいかず、考えあぐねていた矢先の提案だった。ありがたく承知し、今は女三人と空魚二匹で報告を待ちながら、のんびりと観光を続けているといった次第である。
夕陽の落ちかけた空は、穏やかなオレンジから深い蒼へと、緩やかにグラデーションしていた。ちょうど昼から夜へと移行する狭間の時間。あと数分もすれば太陽の残滓は失せ、代わって公園じゅうの照明がいっせいに灯されることだろう。
「ねえ、ネア」小さな広場に至ったところでペトラが立ち止まり、呼びかけてきた。「飛空船のパーティーは駄目になっちゃったけど、いま、ここで踊らない?」
「え?」声を洩らし、歩み寄る。そういえば――確かにそんな話をした。ネアは小さく笑いながら、「あれってダンスパーティーだったっけ?」
「違ったかも。でもいいじゃん、細かいこと言わなくても」
むくれかけたペトラに歩み寄り、ネアはそっとその手を握って身を寄せた。漠然とした知識を総動員して、それらしい格好を作る。片方の腕は高く上げ、もう片方でそっと相手の肩を抱く。声を潜め、秘密めかした調子で、
「こんな感じ?」
「うん、そんな感じ」
ペトラが満足して微笑んだので、ネアも笑みを返して、
「じゃあ行くよ」
踊りはじめた。とはいえふたりとも、基本のステップさえ知らない。実際にはただ、手を繋いでくるくると回っていたのみだった。ときに躓き、ときに膝をぶつけそうになり、やがて抱き合ったまま揺れるばかりになった。優雅さとは程遠い。しかし、ネアもペトラも気に留めなかった。ただ――なにもかもが愛おしい。
「ネア、見て」不意にペトラが耳元で囁く。「あれ、星かな? こっちだとこんなに近く見えるの?」
顔をあげ、息を詰めた。ゆっくりと明滅を繰り返す無数の小さな光が、視界をいっぱいに満たしている。よくよく見れば、小刻みに旋回している。
「空魚だよ、ペトラ。飛空船で見たでしょう? すごく小さな」
「空魚? あれぜんぶ?」
ペトラの問い掛けに応じるように、光の粒子が動きを激しくした。いっせいに高度を下げ、じゃれるようにふたりの周囲を泳ぎはじめる。きらきらと瞬き、近づいては離れ、離れては近づき、絡まるように――。
「ネア、ペトラ」
ブルーストームを駆ったイルマが、唐突に飛び込んできた。驚いて体を離し、向き直ると、その背後からもうひとつの人影が現れた。老人――ロイネ博士が眼鏡の位置を直しながら、
「驚くべき事実が明らかになった。エデンソング、そして君の声に関することだ」
「私の?」
と首を傾げたネアに、博士は例によって熱っぽい口調で、
「そう。君の歌声には、人間の耳ではおよそ知覚できないほどの、特別な高音が含まれている。鯨はそれを空気の振動として理解、記憶し、真似たのだと考えられる。両者が共鳴しあうことで、人間と鯨とのあいだでの、一種の意思疎通が可能になった」
「なんだかよく分かりませんけど――私とエデンソングのやり取りはたぶん、そんな感じなんだと思います」
「重要なのはここからだ。この数日で記録した鯨の声、君の声、そして飛空船における共鳴、これらを数値化して分析し、また空じゅうの音の波動と突き合わせたところ、とある仮説が浮上した。端的に言えば、この空の、我々が今まで予想もしなかった場所に、鯨たちの楽園があるかもしれないのだ」
今度は思わず、ペトラと顔を見合わせた。ややあって博士を振り返れば、彼は勢い込んで、
「君たちの協力が必要なのだ。次回の調査飛行に、ぜひとも同行していただきたい。我々が乗り込む飛空船の名は――」
「〈果てしなき冒険〉」イルマの声が重なる。彼女は微笑しながら、「私は休暇を延長しないと。おまえたちは?」
「行きます。一緒なら、どこまでだって」
手を握り合い、ふたり同時に叫んだ。頭上を飛び交っていた空魚たちが、再び空へと散らばっていく。その軽やかな羽ばたき。その数多の輝き。ネアは無限の彼方に向けて、高らかに歌いはじめた。
この空では、どんなことだって起きる。私たちは、何にだってなれる。
竪琴鯨の伝説 下村アンダーソン @simonmoulin
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