15

 猛然と突っ込んできた。ずっと遠くにいたように思えたのに、次の瞬間には目の前に迫っていた。間合いが――圧倒的に広いのだ。

 大口を開けたクリムゾンキングの向きが、突如として変わった。その横っ腹になにかが衝突したのを、ネアはちらりと認識できたのみだった。一瞬の隙をついてトールシップが急上昇し、その懐から逃れる。

「なにが特別だ。空魚は、そんなふうに使うもんじゃない」

 ヴェールのような鰭を靡かせながら悠然と、そして目の覚めるような速度で泳ぎ上がってきたブルーストームが、再び相手に体当たりを見舞った。同時に体を回転させ、尾を鞭のようにしならせて打ち据える。

「イルマさん」

 身を乗り出しかけたネアに、彼女は素早く視線を寄越して、

「ここは私たちが引き受ける。おまえたちは、自分のするべきことをしろ」

「掴まって」ペトラが叫び、同時にトールシップを急旋回させた。ブルーストームの横を擦り抜け、一気に飛空船を目掛けて駆け下りていく。

「舐めた真似を――」

 主と同調して、クリムゾンキングが咽の周辺の鰭を震わせた。高音と低音が複雑に折り重なったような、遠雷にも似た音が発される。勢いよく頭部を突き上げたかと思うと、まっすぐにブルーストームに躍りかかった。

「ネア、行こう。イルマさんとブルーストームが負けるわけない。〈黄金の雨〉で最高のコンビだもん」

「うん」

 腰に回した両腕に力を込める。ペトラは体を前傾させ、

「私たちは最高から――四番か五番目くらいかも。でも今は、なんだってできそうな気がする。気がするだけかもしれないけど、別にいい。だって、これが私の勇気だから」

 再び飛空船の舳先へと至った。手を伸ばし――掴んで、乗り移る。風に煽られたが、どうにか足許を確かめて安定した姿勢を保った。船は先ほどよりもさらに傾斜を増している。ネアは声を張り上げて、

「ここなら、きっとうまくいく。ありがとう、ペトラ」

 ペトラは親指を突き上げて応じた。笑って、

「私には分かる。ネアはこの船のみんなを救う。英雄だから。私は知ってたもん、最初から」

 あらゆる感情が同時に込み上げてきて、しばらく言葉を発しえなかった。空中で視線を交わしながら、ただ短く、

「見てて」

 頷いたペトラが身を翻す。その向こうで、赤と青の空魚が互いに絡み合うようにして争っているのが目に入った。ブルーストームの舞うような動き。相手の行動を先読みし、行く手を阻み、素早く一撃を見舞っては離れる。圧倒的な体格差を物ともせず、互角以上の戦いを見せている。

「ペトラ。トールシップ。イルマさん。ブルーストーム」

 順番に名前を呼び、それから彼方へと視線を転じた。どこまでも透明な蒼。光。聳え立つ白雲。奇蹟を呼ぶにはうってつけの、この上なく美しい空。

 ゆっくりと胸元に掌を当てた。空とひとつになるように、深々と呼吸する。

 これは祈りだ。しかし同時に、確信を抱いてもいた。あなたはきっと、応えてくれる。

「今度は私たちの番だよ、エデンソング」

 唇を開き、旋律を紡ぎ出した。〈天使の息吹〉で何度となく繰り返した歌。亡き母の残した歌。高らかに、そして物語るように、ネアは自身の声を空の果てへと響かせた。

 入道雲のなかで眠り、風とともに泳ぐ、伝説の生き物。ふだんあなたがどこにいるのか、私はまだ知らない。あなたの体は大きすぎて、〈空都〉へ向かう列車には収まらなかった。それでもあなたは私の思いを察して――こっそりすぐ近く、私の声が聴こえる場所にまで着いてきているんじゃない? 空に境界はない。あなたが望むなら、どこからだって飛んでこられる。

 やがて遠くに聳った雲が、扉が開くようにふたつに分かれた。そのように見えた。単なる風の悪戯でないことを、ネアは知っていた――だってあのときと同じだ。エデンソングと出会った、あの明け方と。

 透明な響きが、ネアの耳に届いた。煌びやかな、そしてどこか懐かしい声。ずっと昔から知っていたような、あの声だ。

 ふたつの旋律が重なる。共鳴し、広がって、一帯を満たしていく。

 空に音楽が生じた。

 同時に上方で、トールシップが激しく旋回を始めていた。彼の目は捉えたのだろう――空を渡って近づいてくる、仔鯨の姿を。

 高い位置に浮かんだまま、トールシップは鰭を震わせて合図を繰り返していた。それはまさに、弟を導く兄の仕種に他ならなかった。恐れるな。俺たちはここにいる。おまえを、皆が待っている。

 大空の彼方から響く声が、さらに高まった。勇気に満ちた、力強い歌声。

 不思議だね。歌を通じて、ネアはそう語りかけた。

 私は人間で、あなたは鯨。出会うはずのなかったふたりで、お互いに分からないことだらけ。それでもこうして声を重ねれば、通じ合える。この空のどこにいても、繋がっていられる。私はあなたの、あなたは私の、かけがえない相棒だから。

 ブルーストームの放った一撃をまともに受け、クリムゾンキングが大きく仰け反った。首元の僅かな空間、鎧のような赤い鱗と鱗の隙間に、イルマが銃口を向けた。ペトラが老人から託された、あの短筒に違いなかった。

「おやすみ」

 麻酔薬は過たず、クリムゾンキングの咽に命中した。途端にじたばたと身悶え、出鱈目に回転し、痙攣を始める。必死にしがみついていたクレイが遂にして空中へと放り出され、落下していく。

 ブルーストームの尾が狙いすましたかのように動いて、巧みに男の体を受け止めた。瞬く間に絡みつき、拘束する。がっくりと項垂れているところを見ると、意識を失っていると思しい。いっぽうのクリムゾンキングも麻酔が効きはじめたらしく、暴れ方が次第に緩やかになり、やがて動きを止めた。

「やったよ、ネア」

 トールシップに跨ったペトラが、遠くで叫び声をあげた。泳ぎ寄ってくる彼女たちの後方には、確かにエデンソングの姿がある。優雅に歌いながら、深い蒼の光を放ちながら、やがてネアの目の前に至ると、その広々たる背中を差し出してきた――。

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