14
トールシップが銀色の背をネアに向ける。尾はまっすぐに後方へと伸び、ほとんど揺るぎない。陽光を浴びて、きらきらと鱗が輝いている。
「お願いね、トールシップ」
告げると、そっとその背中に体を預けた。感触を確かめ、姿勢を安定させる。ペトラの腰に両腕を回して、背後から、
「準備いいよ」
「分かった。トールシップ! 私たちにもう一度、力を貸して」
鰭が空気を叩く音が響く。気力を振り絞るように強く、激しく。ふたりはふわりと浮き上がり、準備体制へと入った。イルマがこちらを振り返り、
「ブルーストームで先導する。大丈夫、訓練どおりに飛べばいい。なにも心配しないで」
蒼い閃光となって、物見窓から飛び出していく。飛空船の外部、少し離れた位置に静止して、ふたりに合図を寄越した。中空にあってもその輝きはひときわ鮮やかで、眩しい。
「ネア、行くよ。私のこと信じて。離さないで」
うん、と頷いた。額をその小さな背に押し付ける。それだけで凛々たる勇気が込み上げてて、ネアの胸を満たした。私たちはできる。なにもかも上手くいく。
「信じる。この空の誰よりも――信じてる」
飛翔する。格子の隙間をすり抜け、一息に空へと。
途端に世界全体が、静寂に支配されたように感じた。呼吸、空気の唸り、トールシップの懸命な羽ばたき――いくつもの音が鳴りつづけていたには違いない。しかし自身を取り巻くすべてが、とても静かだった。
目を見開いた。一帯を柔らかに照らし出す光、遥か下方で峙った雲、その隙間から覗く青さ。数多の空魚使いたちが愛してきた光景を、ネアは遂にして目の当たりにしていた。
ただ息を詰めるばかりだった。自分が風であり、光であり、空そのものであるような気がした。なにもかもが凄まじい速さで後方に流れ去ってゆくのに、同時にゆったりと停滞しているようでもあった。
信じられない。これが、ペトラやイルマにとっての空なのか。
雲の欠片が渦巻き、ちぎれ、漂い、消えてゆく動きを通して、ネアは風の形を見た。トールシップの鰭が、見事にそれを捕まえるのを見た。乗り手たるペトラが、そのいっさいを体で感じ取り、瞬時に指示を下していることを知った。
あらゆる感覚が混然とし、同時にすべてが鮮明だった。よく知っているようで、ちっとも分からない空――いつかのイルマの言葉が、脳裡に甦っていた。まったくその通りだ。どこまでも蒼い世界の真ん中で、今しも泣き出してしまいそうだった。
なにも分からなくたっていい。私は、この空が好きだ。それだけが確かで、すべてだ。
ネア、ネア、とペトラが呼びかける。
「あの先に――いちばん高いところに運ぶよ。船の天辺」
傾いた飛空船は、舳先を高く天へと差し上げていた。その角度はもはや、ほとんど垂直に近い。
船体がかろうじて空中に留まっているのは、主翼の下方にあるプロペラの功績だった。四か所存在する動力部のうち、三か所はすでに停止しているのが確認できた。残るひとつの回転もあまりに弱々しく、いつ力尽きてもまったく不思議ではない。
飛空船ホワールウィンドの底力を、ネアはひしひしと感じていた。風に煽られ、しきりに揺れ、傾きながら、それでもなお墜落に抗い、乗客と乗組員の命を支えている。とうに限界を超えているであろうに――。
「待ってて。もう少しだけ」
ネアがつぶやくと同時に、トールシップが鰭の角度を大きく変えた。ペトラの後ろ頭も低まる。
矢のように、弾丸のように、空気の壁を切り裂きながら、さらに加速した。飛空船の、銀色に煌めく表層に落ちた自分たちの影が、目まぐるしく形を変えながら駆けあがっていく。
舳先が間近に迫った。つるりとした卵状の表面部から、生き物の角を思わせる突起が伸びている。それが今は縦向きになり、ちょうど天を指す柱のように見えた。
「ペトラ、あそこに私を下ろして」
「了解。ぎりぎりまで近づくから――掴んで。思い切って飛んで」
トールシップが僅かずつ速度を緩めながら、柱の周辺を旋回するようにして距離を詰めていく。鰭を細かく動かして微調整しつつ、体勢を安定させた。ネアは左手でペトラの手を掴んだまま、右手を精いっぱいに伸ばした。
突如として、あいだに長々としたものが割り入ってきた。ネアは悲鳴をあげ、反射的に手を引っ込めた。大幅にバランスを崩したトールシップが、鰭をばたつかせながら旋回する。
体勢を立てなおす間もなく、相手が再び突進してきた。トールシップは身を躱さんとしたが、躱し切れなかった。鈍い衝撃に見舞われる。
あえなく弾き飛ばされた。回転する視界の隅に、飛空船の船体と、鮮血のように赤々とした生き物の影が映り込む。
「まさかあの仕掛けを見切るとはね。つくづく余計なことばかりしてくれるものだ」
嘲笑うような声が響く。ペトラが忌々しげに、「あいつ」
ようやくトールシップが正面へと向き直った。眼前の光景に言葉を失った。
クレイが跨っているのは、トールシップの数倍はあろうかという巨大な空魚である。〈黄金の雨〉最大級であるブルーストームと比較しても遥かに上だろう。これほどの巨体を持つ空魚を、ネアは見たことも聞いたこともなかった。
頭部は長くて平たく、角とも鰭とも襟巻ともつかない突起に覆われている。鱗は大半が角質化しており、あたかも全身を赤い鎧に覆われているようである。体が波打つたび、光を跳ね返して鈍く輝きを放っている。
やや高い位置から突き出した目は金色で、縦に切れ込みを入れたような瞳孔があった。き、き、とそれを小刻みに動かしながら、こちらの様子を伺っている。口が開閉するたび、ずらりと生え揃った牙が覗いた。
「驚かれるのも当然だ。これは我々が作り出した空魚でね。決して自然には生まれ得ない、特別な生き物なのですよ」
クレイが唇を歪め、肉食獣めいた尖った犬歯を剥き出した。パーティー会場では巧みに隠していたのかもしれない。何度となく口を開けて笑っていたはずなのに、この歯を目にした記憶がネアには無かった。
「邪魔だよ。そのでっかいのを退けてよ」
薄い灰色の瞳がペトラを一瞥する。は、とクレイは嘲笑って、
「それはできない相談だ。この〈真紅の王〉は、今からあなたたちの息の根を止めるのだからね。雲鮫に食われるか、あるいは船ごと落ちるほうが幸せだったと思うかもしれない。しかし、もう遅い」
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