13

 ネアは鎖で吊り上げられたまま項垂れていた。やがて疲れ切り、目を閉じる。手足は痺れて感覚が失せ、とうに痛みも無くなっていた。

 ぱたりと警告音が鳴りやんだ。伝わってくるのは、すっかり弱々しくなった船の振動だけになった。いよいよ墜落が間近なのだろう。激しく揺れながら落ちていくものと想像していたが、現実にはそうではないらしい。あたりは胸苦しいほどに静かだ。

 瞼の裏側に、故郷の情景が浮かんでいた。〈空都〉に比べればちっぽけだが、それでも何物にも代えがたく美しい。赤茶けた屋根、石畳の道、堤防。街を濡らす雨――。

 ネア、とどこからか声がした。イルマのようにも、ペトラのようにも、母のようにも、また違う誰かのようにも聞こえた。目を開く。

 傷つき、疲れ果て、ぼろぼろかもしれない。それでもふたりは、まだ飛んでいる。愛おしい友人たちに告げられた言葉を、ネアは思い出していた。

「なにが起きても、最後まで考えることを止めない」息を吸い上げ、続ける。「帰ってきたら、何倍にもして返す」

 手首を動かし、鎖の状態を確かめる。少なくとも自分の力では、外すことも引きちぎることも不可能だ。誰かをここに呼びよせ、真実を知らせるほかない。しかし、どうやって? さんざん泣き叫んでも、どこからも反応は無かったのだ。叫び声以外に、遠くへ合図できる方法など――。

 はっとした。クレイはいったいどうやって、雲鮫たちに命令を下していたのか。

 習性に頼り切ったものではありえない。雲鮫たちの行動は不自然だと、あの老人が語っていたではないか。なんらかの方法で指示を出し、操っていたはずだ。でなければ、計算高いクレイがあれほど自信満々でいられたはずがない。

 必死に記憶を手繰る。窓際に立ち、こちらに背中を向けての彼の動作。すっかり煙草を吸っているものと決めつけていた。よくよく思い出してみれば、煙も見えず、匂いも感じなかった。実はあれこそが、雲鮫に指示を与える鍵だったのではないか。

 繰り返し口許に手をやっていたのは間違いない。なにかを咥えた状態で、遥か遠くの、しかも複数の存在に合図を送っていた――。

「笛だ」声に出した途端、胸に確信が満ちた。「私に手許を見せないようにしたんだ」

 連鎖的に、クレイの一連の動作中、ずっと耳鳴りがしていたことを思い出した。人間の耳ではまず捉えられない、特別な高さの音。しかしそれに伴う幽かな空気の振動を、自分は感じ取っていたのだ。

「だとしたら規則性があるはず。きっと一定のフレーズを反復してたんだ」

 耳奥の感触を、音の位相を、ネアは脳裡に甦らせた。これが雲鮫に攻撃を命じる波動。ならばそっくり反転させれば? 指示を打ち消し、鮫たちを止められるのではないか?

 目を閉じ、意識を研ぎ澄ませた。大丈夫だ。他にはなんの取柄もないけれど、耳の記憶には自信がある。慎重に取り出し、変換していく。

 完成した波動は――まさに歌だった。

「聴いて、雲鮫たち。あなたたちは、人間の敵じゃない」

 歌いはじめた。物見窓の柵の隙間から、旋律が空へと流れ出していく。さんざんに痛めつけられ、掠れた、ちっぽけな少女の声。しかしそれは風に乗り、豊かに広がって、どこまでも、どこまでも旅してゆくようだった。決して消えることなく、鮮やかなまま。

 不思議だった。誰かがともに歌ってくれている気がした。

 反応が、空に生じた。猛然と泳ぎつづけていた雲鮫が、徐々に速度を緩めはじめたのである。一匹、また一匹と動きを鎮静化させて、そのうち漫然と漂うばかりになった。群れ全体で申し合わせたように方向を転換する。

 雲鮫が飛空船から離れていくのと入れ替わりに、蒼い光が滑るように近づいてきた。ブルーストームに跨ったイルマが格子に取りつき、

「ネア! どうなって――」

 鎖に縛り上げられた異様な姿が目に入ったのだろう、彼女はすぐさま問い掛けを中断し、身を翻した。ブルーストームが鰭を震わせながら回転し、長い尾を振るう。瞬く間に金属の柵がへし折れ、落下した。生じた隙間から飛び込んできて、ネアの傍らに降り立つ。

「イルマさん、ペトラは」

 というネアの言葉が終わらないうちに、新たな風が起きた。そうとしか感じられなかったが、気が付けば室内にトールシップの姿が生じていた。ペトラが飛び降りてくる。汗にまみれ、服も髪も乱してこそいるが、目立った怪我は見られない。安堵した。

「ネア――」

「ペトラ、いったん下がって。ブルーストーム、鎖を」

 一瞬の衝撃とともに、手足が自由になった。支えを失い、床に崩れ落ちかけたネアを、ペトラの腕が抱き留める。彼女は涙ながらに、

「誰がこんなこと」

「クレイだよ、あの司会者。ぜんぶ、あの人の仕業だったんだよ」

「お化粧の?」

 頷く。ペトラはネアをますます強く抱き寄せながら、

「あいつが――ネアをこんな目に」

「ネア。ぜんぶと言ったね。どこまで? 知ってることを話して」

 イルマが近づいてきて、慎重な口調で問う。再会の感慨はむろんあるに違いないが、同時に冷静である。次なる手を打たんとする者の目をしていた。

 ネアは手短に、しかし細部を損なわぬよう、船内の出来事を語った。

「雲鮫たちが急に攻撃をやめたのは、ネアが止めてくれたからだったんだ。歌を聴かせたんだね。おかげでブルーストームがすぐにこの場所を見つけ出せた」

「クレイの見積もりどおりなら、墜落までほとんど時間が無い。ペトラ、今すぐネアと一緒に、トールシップで脱出するんだ。いちばん近い陸地に下りて、救援を――」

 冗談のようにゆっくりと、足許が傾いだ。イルマが素早く年少のふたりを引き寄せ、手近な柱を掴む。まもなく部屋に雑多に積んであった箱が、続いて素っ気ない金属の棚が、斜めになった床を滑っていった。次々と壁に衝突し、あるいは横転し、中身を飛び散らせる。

 茫然としながら、足を突っ張って落下に抗った。船が遂にして均衡を失い、力なく沈みはじめているのだ。

「ペトラ、ネア。行け」

「イルマさんは?」ペトラが縋りつき、声を荒げる。「逃げなきゃ駄目だよ」

「私は残る。ブルーストームと一緒に、乗客を救う」

「全員は乗せられない。間に合わないよ」

 そうかもしれない、とイルマは静かに応じた。

「最後の最後まで、できるだけ多く。全力を尽くしたと言えるように、〈黄金の雨〉に胸を張って帰れるように、私はやらなくちゃいけないんだ。必ず戻るよ。約束する」

 やり取りの合間にも、船の傾斜は増しつづけていた。壁面の窓が、いまや頭上付近に見える。青空を切り取って、荒れ果てた室内に穏やかな光を落としている――。

 ネアはゆっくりと目を閉じた。深く息をすると、顔をあげた。

「ふたりとも、聞いて。私に考えがある。私を、デッキまで連れていって」

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る