12

 強く引っ張られた。成すすべもなく床を引きずられる。クレイが再び屈みこみ、わざとらしく顔を近づけてきて、

「まだ笑わない。では、こんなのはどうかな」

 鎖が回転し、ネアの脚を奇妙な角度に捩り上げた。痛みに息が詰まる。床を叩き、転がりながら、少しでも楽な姿勢を求めようとしたが、許されなかった。がくん、という衝撃とともに、すぐさま引き戻される。

「あなたは――なぜ――こんな」

 荒げた呼吸の合間に発する。クレイはせせら笑いながら、いったん鎖を手放した。大袈裟に両腕を広げてみせ、

「なぜ? 大勢を笑顔にするためですよ。言ったでしょう、私は人を笑わせるのが本業でしてね」

「飛空船の墜落を、本気で娯楽だと? 乗客が亡くなるんですよ。本や演劇の話じゃ――」

「そう、本や演劇の話ではない。そんな話は初めからしていない」

 低く鋭い声で遮られた。ネアの言葉が途切れると、クレイは恨みがましく、

「遊覧船の乗客――ぴかぴかの石ころで身を飾り立てた老人どもだ。パン一切れを求めて喘ぐ者の横を素通りして、考えるのは自らの楽しみばかり。会場を見回してみて、吐き気がしたよ。どいつもこいつも脂ぎって、信じがたい醜さだった」

「だから消してしまうべきだと? そんなの勝手です」

「勝手なのは承知だよ。この空では誰もが勝手なんだ。目的を達成するために他人を犠牲にするのは当然だと、私は他でもない彼らに教わった」

「お金持ちのお年寄りが事故で亡くなっても、なにも変わりません。空をよりよい場所にしたいなら、もっと別の方法がある。こんなことをしなくても、あなたの考えを伝える機会があるはずです。正しく声をあげれば――」

 途端に相手の表情が険しくなった。口調を乱して、

「声はあげた。何度となくあげた。街角で、酒場で、劇場で、私に行きうるあらゆる場所で、ひたすらに訴えつづけた。しかしなにも変わらなかったよ。それは奴らが、私たちから掠め取った金で豊かさを得ているからだ。変わるはずがない。まったく愚かだった。おかげで時間を無駄にしてしまった」

「クレイさん。大変な苦労があったことは、私でもなんとなく分かりました。そのうえで、もう一度質問させてください。この船の乗客が亡くなれば変わると、空がよくなると、あなたは本当に信じているんですか?」

 この問い掛けに、彼は迷うことなく、

「信じてなどいない。なにも変わりはしないだろう」

「では、なぜ」

 絶句しているネアの表情を、クレイの薄灰色の瞳が映し返す。彼は唇を開いて、

「すべて笑顔のためだよ。私は空を変えることを諦めた。せめていっときでも、人々に笑ってもらうこと――幼い頃からの目標に、いま一度立ち返ることにした。ただし今度は、規模をこのうえなく大きくして」

「飛空船を墜落させて、たくさんの人を死なせるのがそれに繋がるんですか? 私には理解できません」

 それはそうだろうさ、とクレイが応じた。

「誰も声に出して理解できるとは言わない。面と向かって問われれば否定する。悲しい事故はあってはならないと断じる。それでも内面では、自分とは無関係なところで、いけ好かない連中に不幸になってほしいと願っている。決して否定しえない、根源的な欲望としてね」

 笑っている。ネアの目にも、それが演技でないことが分かった。心底愉快そうな笑みだった。

「この船が落ちたところで、何日か新聞を騒がせるのがせいぜいだろう。空は変わることなく、貧者は飢えたままだろう。しかし自分たちを蔑ろにして、さんざんに利益を享受してきた連中が、不幸のどん底に落ちるのを見られれば? それで一瞬でも気を晴らす人間が、空じゅうにいるはずだ。決して公にできない、しかし確かな喝采を、大勢が心の奥底で叫ぶはずだ。それこそ、私がこの空に提供したい喜びなのだ」

 クレイが再び鎖を掴んだ。ネアの体を引っ張り、立ち上がらせる。その状態で、壁際の棚に備え付けられていた突起に輪を引っ掛けた。窓が、イルマとペトラが、雲鮫たちが、真正面に現れる――。

「これからが本番だ。人間が虐げられるのを、とくと眺めるがいい。そして、いつもどおり笑うがいい。無邪気で、無知で、だからこそ残酷な、おまえたち遊覧船の乗客にふさわしい娯楽で、最期のときを盛り上げてやる」

 言い終わるなり、クレイは窓へと向き直った。ネアに背を向けた状態で、ポケットに突っ込んだ手を抜く。煙草を吸っているように見えた。

 ややあって、雲鮫たちの動きが明らかに変わりはじめた。激しく牙を剥き出し、速度を増しながら、狂気じみた表情でペトラとイルマを追いはじめる。もはや狩りと呼ぶべき光景ではなかった。集団での嬲り殺しだ。

「やめて! こんなの――許されない」

 咽が張り裂けんほどに叫んだ。ははは、という声とともに、クレイの肩が上下する。

「そう、許されることではない。しかしおまえたちは耳を貸さなかった。だから私も同様にする。雲鮫たちはどうかな? 小娘の命乞いを聞き入れるかな?」

 咽の奥が詰まり、鼻孔がじんじんと痛んだ。耳鳴りがする。涙が頬を伝っていく。ネアは咳き込み、洟を啜り上げ、また届くべくもない叫びをあげた。

 クレイは必要以上にゆったりと、煙草を楽しみつづけた。口許に手を運び、長々と息を吐き出し、やがてこちらを振り返る。泣き喚くネアをしばらく鑑賞してから、また背中を向けて喫煙に戻る。

 たった一本がこれほどまで長続きするのかと思うほどの時間が過ぎたころ、不意に鐘の音が鳴りはじめた。耳に突き刺さるような、胸を搔き乱すような、やかましさと不穏さを併せ持った音色だった。

「さて、残念ながら時間だ。私は地上から、この船の終わりを見物させてもらうことにしましょう。あなたのお友達の奮闘は称賛に値する。最後の瞬間まで、乗客たちの目を楽しませてくれるつもりのようですから。なに、淋しがることはない。すぐに再会できますよ。もっとも、正常な位置に頭や手足がくっついている保証はありませんがね」

 哄笑を残し、クレイが部屋を出ていった。扉が閉じる音。

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