第3話

 例の運命の人。

 私は、このカフェで働く前は、星間旅行の宇宙船のアテンダントだった。しかし十年ほど前、宇宙ゴミスペース・デブリを避けるための急発進で天井に頭をぶつけて脳震盪のうしんとうになり、一部の記憶が欠落してしまった。発展した医療技術をもってしても、脳の記憶に関する問題を解決することはできなかった。事故から一ヶ月ほど休んで復帰はしたものの、同僚の顔と名前を思い出せず、気まずい思いをすることが多くなり仕事を辞めた。

 毎晩、目が覚めたら失った記憶を取り戻せないかと期待するけれども、やはり記憶の穴が埋まらないまま朝を迎えるたびに落胆する。だから、眠るのが怖い。

 狭い1LDKの部屋に置いている暖炉風ヒーターの上には、事故の前から飾っていたフォトフレームをそのままにしている。そのうち、どうしても誰だか思い出せない女性の後ろ姿の写真がある。ショートカットの小柄な女性で、地球の青空を背景にジャンプしているようだ。年齢はわからないが、二十代後半ではないかと思う。しかし手がかりは、うなじのホクロくらいだ。

 朝が来るたびに彼女の背中を見つめるけれども、何も思い出せない。家族や知人も彼女を知らないというし、携帯のアドレス帳の連絡先に片っ端から連絡してみたけれども、彼女らしき人物には当たらなかった。

 このカフェで働いているのは、もしかすると彼女に会えるかもしれないという微かな期待を抱いているからだった。地球から帰ってきた客は、必ずこの通路を通る。自分は彼女を認められなくても、彼女は私に気付いてくれるかもしれない。そう思いながら、もう十年が経っているのだけれども。


 私は、昇藤さんの期待をこめた視線を背中に感じつつ、フロートを秋さんのところに持っていった。

 彼女は相変わらず文庫本を読み耽っている。

「お待たせいたしました」

 秋さんは、窓の外に浮かぶ地球と、フロートのグラスを見比べてから、私を見上げた。あまり表情豊かな人ではないが、今は微かに微笑んでいるように見えた。

「ごゆっくりどうぞ」

 すると、彼女は、ぽつりとつぶやいた。

「綺麗ですね。クリームソーダもいいですが」

 言葉を交わすのは、これが初めてだった。しかし、私はうまい返答を思いつかなかった。

「では、また次の機会にぜひ」

 お辞儀をする。と、ポケットから白い紙片が落ちた。さきほど昇藤さんから取り上げたものだ。

「あっ、すみません」

 慌てて拾おうとしたが、ちょうど秋さんの足元に滑り込んでしまったので、手を伸ばすのは憚られた。彼女は座ったまま身をかがめてカードを拾い上げてくれた。

 ドキリとした。彼女のうなじにはホクロがあった。

十字屋じゅうじやとおる……店長さんの連絡先ですか?」

 彼女は私の胸元の名札とカードに書かれた文字を見比べながら、今度は、はっきりと微笑んだ。

「誰かに渡す予定だったんですね」

「えっ、あ、いえ」

 私は返されたカードを受け取ろうとしたが、無意識のうちに押し返していた。

「……持っていてください」

 何を言ってるんだ、私は。しかし、もう遅い。秋さんは不思議そうな顔で瞬きを繰り返していたが、カードを読んでいた文庫に挟んだ。

「あっ、アイスが溶けてしまうのでどうぞ。お邪魔してすみません」

「ふふ、氷が入ってるから大丈夫ですよ」

 彼女はそう言って、アイスをひと口すくった。口に運んで、味わっているのか少しだけ目を閉じてから、「かおるです」と名前を教えてくれた。

「また明日、クリームソーダを食べに来ますね。秋の間は、月にいられるので」


 厨房に戻ると、昇藤さんが早速、肘鉄を食らわせに来た。

「名前を聞き出せましたね! 私のおかげでしょ? ね?」

「あー、はいはい、地獄耳だな本当に」

「あーあ、私もこういうヤキモキする恋がしたかったなぁ〜」

「もうちょっとお喋りとお節介が何とかなればいいんじゃない?」

 まったく失礼ですね、と言いながら彼女はエプロンを外した。午後八時、彼女は上がりの時間だ。

「ねえ店長、私にクリームソーダを作ってくれません?」

「いいけどスペシャルじゃなくていいの?」

「それはさんざん味見しましたからねえ」

「わかった」

 彼女は作業台に頬杖をついた。

「次に薫さんが来てクリームソーダを注文したら、こう言ってくださいね。『月が綺麗ですね』」

「漱石のあれ? なんで?」

「今日のスペシャルメニューはアイスを地球に見立てたでしょ? 次はバニラアイスを月に見立てたらいいんですよ」

「こじつけっぽいなあ」

「なんでもいいんですよ、こういうのは。言ったもの勝ち。はい、練習どうぞ」

「やらないよ」

「私の言うことは聞くほうがいいですよ?」

 上目遣いだ。きっと若い頃は、これで男子諸君を射落としてきたのだろう。口うるさい彼女だが、黙っていれば、なかなか可愛らしい人である。密かなファンと思われる客が数人いることが分かっている。

「あ〜はいはい、月が綺麗ですね」

「棒読みじゃないですか。まあいいですけど。じゃ、お先に失礼します」

「お疲れさま」

 

 店長が他の客の注文を取りに行っているところを見計らうと、昇藤は薫の席に近付き、小声で話しかけた。

「やーっときっかけが出来たね。透さんは、ほんとヘタレだからなぁ」

 薫は彼女の悪戯っぽい笑顔を見上げながらレモンソーダの残りを飲んだ。それから目を伏せた。

「咲ちゃん、良かったの? いつもいつもアドバイスをくれるけど、ほんとはまだ……」

「私たちは別れたんだよ。私は他の人と結婚した」

「本当のことを教えてあげてもいいんじゃないの?」

「忘れたほうがいいこともあるでしょ? あの時あの瞬間、心が通じ合っていた、私はそれでじゅうぶん。友人の恋を応援する楽しみも、いいものよ」

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クリームソーダ on the Moon 陶守 美幸 @miyukisuemori

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