第1話-3-

 保存されるべきエネルギーを無視し、物理法則すら凌駕りょうがせしめるその力は、人類に更なる混乱を呼び起こしたものの一方で救世の女神ともたたえられた。

 

 だが、あまりに異質な性能の他にただ一つだけ、天にまします神様は問題を残しあそばされていった。


〈ヴァリアブル・フレーム〉を扱えるのは、この世で女性のみなのだ。

 

 闘争に向いているとは言い難い女性が、〈ヴァリアブル・フレーム〉の担い手となるとは。

 

 神様は救いの手を差し出すものの、底意地の悪いひねくれた性格のようである。

 

 もっとも、〈ヴァリアブル・フレーム〉を纏える者が仮に男性だけだったとしても、腕力や屈強な体格はさほど必要ではないだろう。


〈シング〉との戦闘は、単純な腕っぷしで片付けられる次元ではないのだ。

 

 ところが、ここに少しばかり特殊な一例が存在する。

 

 向井アラセ――こいつだ。

 

 彼は心身ともに健全な――まあ、健全かどうかはこの際どうでもいいが――十七歳の男性でありながら、〈ヴァリアブル・フレーム〉を意のままに使いこなすことができた。

 

 そうでもなければ、こんな風に〈シング〉と追いかけっこなどしたくてもできないだろう。


「しつこい奴だな、アイツはよ! つーか、こんな街中で、一体どっから出てきやがった?」

 

 ビルの壁面スレスレを滑空するアラセは、深紅の〈ヴァリアブル・フレーム〉に身を包んでいる。

 

 背部から鉤爪のように伸びた三基のスラスターが、最大出力で爆炎を吐き出し、彼の身体をひたすら猛進させていた。


「今は余計なことを考えるな。集中しろ、アラセ。追いつかれるぞ」

 

 吾輩の諫言に、アラセは反発心の如実にょじつに現れた口調で、


「分かってるよ! だから、逃げてんだろ!」

 

 言いつつ、肩越しに敵を一瞥する。

 

 視線の先で、空飛ぶ巨大芋虫は、その体躯に見合わない機敏な挙動を披露していた。

 

 さながら、天翔ける竜のごときだ。


「こんなことになるなら、朝っぱらから電車なんて使わなきゃよかった」

 

 アラセは、憎々しげとも弱々しげとも取れる吐息をつく。

 

 その瞳が、ビルとビルの合間を縫うように伸びる路線へ注がれた。

 

 鉄橋の上に敷設されたレールとそこで停車中の電車が鎮座ましましている。

 

 無傷ではない。

 

 少なくとも天井に穿たれた大穴は、数分前にアラセが付けたものだ。

 

 走行中の電車から無理やり外へ出るため、仕方のない損傷である、とこいつはのたまっていた。


「妙な女には絡まれるし――」

 

 我輩の忠告を無視してぼやき始めたアラセだが、次の瞬間、その身体がコマのように激しく回転した。

 

 スラスターが逆方向に可動すると同時に、彼の左腕から一振りの太い剣が伸長する。

 

 目にも止まらぬ速さで薙ぎ払われた白刃は、今しもアラセに食い込まんとしていた〈瘴気〉の弾丸を打ち払った。

 

 圧縮して密度を高めた〈瘴気〉を射出する、〈シング〉特有の攻撃方法である。

 

 弾き落とされた黒き気体の残滓は、瞬きの間に霧散していった。

 

 アラセは双眸をぎらつかせ、


「セコイ真似しやがって!」

 

 口もとを空いた片手で覆い隠しながら吐き捨てる。


〈ヴァリアブル・フレーム〉の装甲は、背中と左半身に集中していて、アラセの頭部はほぼ生身と言っても差し支えない。

 

 フレームが覆っていない個所は右腕、腹部、大腿部――他にいくつもあった。

 

 これが男でありながら〈ヴァリアブル・フレーム〉を操るアラセの弱みだ。

 

 哀しいかな、全身をフレームで纏い切れないのである。

 

 もちろん、完全に制御下に置くこともできるが、こいつはそれを嫌がる。

 

 なぜなら、そうするために吾輩の力を借りることになるから。

 

 要は意地っ張りなのだ、こいつは。


「足を止められたな。どうするつもりだ?」

 

 おそらく目論見どおりアラセの遁走を阻止した〈シング〉は、のたうつ巨躯へ突撃のための力を蓄えている。

 

 吾輩の行動予測センサーはそう感じとった。


「どうするって? ――こうする!」

 

 空中でふわりと漂い〈シング〉と正対したアラセに逡巡という迷いはない。

 

 刹那の停滞は、彼にとって次なる飛翔と攻撃のための足掛かりだった。

 

 爆光がアラセの背から噴出する。


〈ヴァリアブル・フレーム〉によって形成されたスラスターが再度絶叫し、アラセの紅き身体に大いなる推進力を与えた。

 

 深紅の姿が鮮烈なる残影を空に残して加速する。

 

 束の間、〈シング〉が戸惑うような雰囲気を醸し出した。

 

 宙を駆るアラセの驚くべき速度に気圧されたのである。

 

 それは、僅かな隙だったが、アラセにとっては無限の時間だった。

 

 敵との交錯は一瞬で終わりを迎える。


〈シング〉へと一直線に襲いかかったアラセの大剣が、踊るようにひるがえり、長大な身体をズタズタに切り刻んだのだ。

 

 直後、どす黒い鮮血が血煙となって大量に跳ね飛ぶ。

 

 血の雨を地上へ、あるいはビルの屋上や壁面にまき散らしながら、〈シング〉は激痛に身悶えしているようだった。

 

 自身の勢いを殺し、宙がえりを打って身体に制動をかけたアラセは、降下していく芋虫を見下ろした。


「どうよ! 始末できたか?」


「まだだ! 追え、アラセ!」

 

 傷を負った〈シング〉は、力の尽きかけた羽虫のように弱々しく落下している。

 

 激しい苦痛から逃れたい一心とも見えるが、吾輩は奴から明確な殺意を認知した。

 

 眼前のアラセに敵わないことを察し、目標をより柔弱な存在へ切り替えたのだ。

 

 地上で成り行きを見守っていた一般人たちへと。


「しゃらくせえな。大人しくくたばってろよ!」


〈シング〉の意図を汲み取ったアラセの対処は、素早い。

 

 頭を大地へ向けたかと思えば、紅の疾風となって突き進んでいた。

 

 追われていた者が追い、追っていた者が追われる――立場は逆転した。


〈シング〉は、ビルに身体をぶつけ、破片を散乱させつつもその進行を止めようとしはない。

 

 大地が急速に迫る中、アラセは左腕に力を込めた。ギラリ、と陽光を反射して大剣がきらめきを放つ。

 

 持ち主の荒々しさを誇示するかのように。


「失敗は許されない。二度目は無い。そのつもりでやれよ」


「任せな、次で仕留めてやる!」

 

 威勢の良いことを口走り、アラセは不敵な笑みを浮かべた。

 

 人命がかかっているこの状況で、よくそんな表情を浮かべられるものだ。

 

 その顔つきが、愕然と強張った。

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