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 ヘンリーが庭園に興味を示す性格だったのなら、本宅を囲んで広がる外庭を眺めて少しなりとも心の慰めを得られただろう。実際、広いとは言えないけれども手入れは行き届いており、植木はそれぞれの持ち場を守りながら青々と茂って、趣味よく季節の花々が配されていた。エドマンドの亡きあとのこの庭の様子ひとつとっても、オーガスタがなみなみの未亡人ではないことがうかがえるのだけれど、ヘンリーの目には何も映っていないのだから気付きようがなかった。

 イートンに入る前、ヘンリーとエドワードはとても仲のよい兄弟だった。遊ぶときはいつも一緒で、その日も二人で楽しくテニスをしていた。すると、ヘンリーの打ったボールをエドワードが打ち損ねて、ぐうぜん顔に青い痣をつくってしまった。

 ヘンリーは弟のことがたいそう好きだったから、思いがけず怪我をさせてしまったことを子供心にひどく傷付いて、すぐに家へ連れ帰って人を呼んだ。

 二人の乳母ナニーはさっと顔色を変えたものの、エドワードの顔をよく覗き込んでからほっとした様子で、これならよく冷やせば痕は残らないでしょう、と言った。水に濡らしたタオルをエドワードに渡して、しばらく打ったところに当てているように言い聞かせてから、母にこのことを報告しに行った。

 顔をボールで打ったときこそ、びっくりして涙を浮かべたエドワードだったけれど、その頃には特に痛みを感じている様子もなく、言われた通りにタオルを当てながら落ち着いて静かにしていた。これなら大丈夫だと幼いヘンリーにもわかったものの、そばから離れがたくて見守っていると、慌ただしくドアが開いて母親が入ってきた。

 エドワードが顔に怪我をしたんですって? と彼女はエドワードに駆け寄り、うっすらと青くなったところを見て眉をひそめた。乳母はさきほど子供に言いきかせたのと同じく、この痣は残らないから心配はしなくてもいいと説明したものの、公爵夫人はお気に入りの息子が容姿を損なう怪我を負ったことこそが許せないのだった。

 ヘンリー、どうしてあなたがついていながらこんなことになったの? 母親からきつい口調で詰問されて、子供だったヘンリーはすぐには答えられなかった。そもそも、彼女が目の前にいることすら珍しいのだから。

 公爵夫人は身分にふさわしく、子供の世話は乳母や家庭教師にまかせていたが、自身の子供に関心が深いとは言えない人だった。形式的に報告される子供の成長よりも、社交界での人々との付き合いや彼らの目に自分がどのように映っているかということの方が重要なのだった。

 ヘンリー自身、転んで泣いたり、怪我をして痛がったりしたときに、母親に慰めてもらった覚えはなく、駆けつけてくるのはいつも乳母だった。そんな公爵夫人がどうして今回ばかりは一目散にやってきたのだろう、と不思議に思いながら、自分がエドワードをいじめたわけではないのだと、しどろもどろに説明した。

 それならこの子が勝手に怪我をしたから、あなたは知らないというわけね。さすが将来爵位に就く方ですこと。なんて下々の者に慈悲深いのでしょう!

 あまりに辛辣な言いように、乳母が止めに入るほどだった。ヘンリーは、まるで頬をぶたれたような気分でその場に立ち尽くし、母がわざわざエドワードを自分の部屋に連れて行くのを見ていた。

 それまでヘンリーは、長男だけに許された家督の相続権を意識したことがなかった。自分もエドワードも同じ兄弟だと思っていたし、将来父のすべてを継ぐからと弟を見下したこともなかった。ヘンリーは頭の鈍い子供ではなかったので、それにも関わらず母親がああいう言い回しをしたのは、公爵を継ぐのがエドワードではなくヘンリーだというのが許しがたく、ヘンリーがエドワードよりも厚く遇されるのが不満なのだ、というのがわかった。

 どうしてここまで母親に疎まれるのか、ヘンリーにはわからなかった。その疑問を、ヘンリーは父にぶつけた。目に涙がにじむほどに切実な問いに、公爵は冷淡に答えた。それは、お前が私に似ているからだ、と。エドワードは違う。あの美しい金髪と青い瞳は、見事に母親譲りだから、母親から愛されるのだ。

 公爵夫人は誰もが口をそろえて褒め称えるほどの美貌の持ち主で、それを受け継いだエドワードは美少年である一方、ヘンリーはそうではなく見劣りする子供なのだと、愛されない子供なのだと突き付けられたのだ。

 そんなことがあってから、ヘンリーは今まで通りエドワードを愛することができなくなった。まだ幼いこともあったけれど、エドワードはヘンリーほど聡くはなかったので、あの日母親が言ったことの意味がよくわからず、大好きな兄がいきなり意地悪をするようになったと思った。エドワードは無邪気にヘンリーのことをなじり、ヘンリーはそんなエドワードを冷たく突き放してしまった。そうして兄弟の溝が深まれば深まるほど、公爵夫人はエドワードのことを目にかけるようになり、外出の頻度を減らしはしなかったものの、家にいる間はずっとそばに置くようになった。

 兄弟が疎遠になって日々が過ぎ、いよいよイートンに入る前の年、ヘンリーは高熱を出して寝込んだ。幸い死病ではなかったものの、三日三晩熱が続いて身動きできず、大変苦しい思いをした。その間つきっきりで看病したのは乳母で、公爵夫人は見舞いにすらやって来なかった。ようやく熱が下がって目を覚ましたとき、形ばかり様子を見にやってきた。しかも、そのことを隠す素振りすらなかった。公爵夫人は、そのまま出かけるために外出用の外套を持っていた。熱で痩せた息子の顔を見下ろし、もうすっかりよくなったのね、と言った。それは、熱が続いていれば爵位はエドワードのものだったのに、というふうにヘンリーには聞こえた。

 改めて打ちのめされているところに、父の伝言を携えて召使がやってきたがそれもヘンリーには慰めにならなかった。熱のあいだ滞っていた間近に迫る入学の準備を、これからは余念なく行うように、とのことだった。

 ヘンリーはイートン校での寮生活を歓迎した。休暇中は、父の持ち物の地方の邸カントリー・ハウスで過ごすことに決め、それがヘンリーの長い放浪の始まりとなった。

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