4

「イタリアという国を知っているかな。ドーバーから海を渡ったらフランスだが、大陸をさらにずっと南下していかなければたどり着けない。ロンドンの冬の霧しか知らない者には想像すらできないほど温かな南の国だよ。はるか昔に巨大な帝国があって、その名残がそこかしこに眠っている」

 まだ話し始めたばかりだというのに、子供たちはたちまち異国の魅力に引き込まれていった。異国というより、この世にあるとは信じがたいほど遠い場所なので、彼らにとっては妖精の国のように感じられた。

「そんな国をさらに旅していくと、やがて海に出る。その先には、海に浮かぶ島が寄り集まってできた、ヴェニスという街があるんだ」

「島?」

 子供のうちの一人が話を遮った。

「島って、海の上の小さい地面のことでしょう? それがどうして街になるの」

「ひとつひとつは小さな島だが、その間に横たわる海は川のように狭く、それを運河と呼ぶ。人々は馬車の代わりにゴンドラという舟で行き交って、ひとつの街として暮らしているんだよ」

 馬車と同じく使われるゴンドラとは、どういう物だろう? 子供たちはそれぞれに精いっぱい想像力をはたらかせたが、メルキセデクほど鮮明に思い浮かべることができない。それを見て取ったヘンリーは、普段使わないのにたしなみとして携帯している、自身の身分を示すための訪問カードを取り出すと、何度か裂いたり折ったりしてヴェニスで見かけた平たく小ぶりの舟を再現してみせ、それを指先で揺り動かした。

「こんな具合の舟が、そこかしこに橋のかかる水路を進んでゆく。とにかく海の水に土地が分けられているから、それを避けるように街をつくるしかなくて、そのせいで道はせまくひどく入り組んでいる。だから、ヴェニスの人々は歩くよりもゴンドラで移動した方が早いと思っているんだ。現地の者には取るに足らない移動手段だが、私のような旅行者にとっては目新しくてね。希望すれば、観光のために乗ることができる。それで私はある日、ゴンドラに乗ってアドリアの海へ漕ぎ出して行った」

 そこでヘンリーは、子供たちにむかって問いかけた。

「ここに信心深い子供は何人いるかな? 毎週日曜にかかさず教会へ行くものは? それならきっと、聖書の物語を描いたステンドグラスを見たことがあるだろう」

 あるよ、と誇らしげに手を挙げた子供がいた。

「すごくきれいなんだ。窓なのに色がついていて、お日様の光があたると影がきらきらする」

「それよりもずっと鮮やかで美しいガラス細工がヴェニスにはある」

 純粋な信仰から、さっきの子供は、まさか、と笑った。ヘンリーよくよく言い聞かせる口調になった。

「イタリアでは尊敬に値する偉大な職人をマエストロと呼ぶが、世界中に優れた芸術品を残したマエストロを数多く輩出したさすがの国だと、感嘆せずにはいられないのがヴェネチアングラスだよ。細やかで凝った装飾も、目の覚めるような色合いも、どれをとっても美しい代物だ。ああいうものをまさしく宝と呼ぶべきだろうね」

「宝石みたいな?」

 見たこともないのに、思いつくかぎりの美しいものを言った子供に、ヘンリーは頷いた。

「ヴェニスのゴンドラに乗り込んだ私は、いつになく気分がよかった。美しいヴェネチアングラスをいくつか手に入れることができたからね。それだけでも幸運だったが、まだ素晴らしいものと出会えるような予感がしていた。そう期待させてやまないものが、あの街にはある。そしてそれは、やはり現実となった」

 そこでヘンリーの語りは一度途切れた。子供たちは子供らしく気が短かったが、出会った奇跡を言い表す言葉を探しての沈黙だというのはわかっていたから、大人しく待っていた。とはいえ、続きをはやく聞きたくて、うずうずするのはおさえられなかったのだけれども。

 セーラといえば、ここまでの話を聞きながら、語るほどにヘンリーの顔が穏やかになっていく様をめずらしく思いながら眺めていた。普段はどこか厭世的で皮肉っぽい顔をしているのに、それらがまるで仮面を取ったかのようになくなって、明るい未来を信じる若者らしい表情になった。セーラはこの変化を、楽しい旅行の思い出を語っているからだとは安易に決めつけなかった。むしろ、こちらのほうがヘンリーの本来の姿なのでは、と思っていた。それというのも、いつもの頑なな面持ちとは裏腹に、ヘンリーの声に思いやりを秘めた優しさをいつも感じていたからだ。それ一つをとっても、セーラはヘンリーを偏屈で冷たい心の持ち主だとは思えなかった。

 ヘンリーは、セーラほどの語り手ではない。それは明白な事実だが、ゴンドラ行き交う海の街のはるかな南国を子供ができるように、十二分に心を配っているのも紛れもなく本当のことだ。

 この人は、こんなにも心穏やかな目ができる人なのだわ、だけどそれを封じ込めてしまっている何かがある。それはいったいなんなのだろう? ヘンリーが言葉に迷っている間、風変わりな考え方をする令嬢はそんなことを考えていた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る