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 触れられそうなほど現実味を帯びたセーラの物語は、恵まれない子供たちの勉強の昼休みならひんぱんに聞くことができた。娯楽の暇がない子供たちにとって、このお話の時間はこれ以上ないほどの楽しみなのだ。セーラがいない午後は気分が沈むほどで、それをよくわかっている親切な令嬢は、オーガスタとの会話がどれほど弾んでいようと、この時間になるとチャペルの方へ出かけていくのだった。

 子供たちに聞かせるのは、決まって不幸な暮らしを強いられている少女の物語だ。冷酷なミストレスには人とも思わぬ扱いをされ、料理人からは息つく間もないほど働かされ、同じ年ごろの女の子たちに仕える屈辱を味わわなければならない。

 しかし、セーラはその少女のことを、女の子、と呼んでいた。どう考えても悲惨な環境におかれているが、この子はけっして自分を哀れんでいないのだという。そのような人間をさして、不幸ということはできないというのが、セーラの考えだった。

 そのせいか、つらい労働の日々を過ごす少女なのに、物語を聞いても悲しい気持ちになることはない。子供たちに人気なのは、少女の友達であるメルキセデクというねずみが登場する話だった。セーラのやさしい声聞きたさに、子供たちに混ざってお話の時間に参加しているヘンリーにしてみれば、この不潔な動物と慣れ合うなんてぞっとすることだが、子供たちにとってはごく当たり前に見かける生き物なので、いつもよりぐっと想像しやすくておもしろい題材なのだ。

 メルキセデクには、ミセス・メルキセデクと子供たちがいて、家族のひもじさを癒すための食べ物をいつも探している。それを恵んでやるのが、少女というわけだ。自分だって十分な食事を与えられていないはずなのに、パンが手に入れば必ずパンくずを分けてやる。そうすると、人に蔑まれてばかりのあわれな小動物は、次第に少女が自分を脅かすものではないと理解して、合図の口笛を聞けば姿を見せるようになった。

 子供たちの間の最近の流行りは、自分の家に出るねずみをこのメルキセデクのように慣らすことだった。だけど思うようにはいかず、なかにはしょせん作り話なのだと、悪態をつく子供まで出た。それを聞いたセーラは、気を悪くすることもなく、ねずみを人として扱うことが大切なのだと説いた。話の通じない動物であっても、どうして魂を持たないと言えるだろう?

「ねえ、貴族の旦那さまは、お話できないの? いつも聞いてばかりでさ」

 ある日、人気のメルキセデクの話がひと段落つくと、子供のうちの一人が思いついたように言った。それは、子供たちをそういえば、という気分にさせて、一気にやかましくなった。

「おはなし、なんにも知らないの?」

「しゃべるのが下手くそなんだ」

「プリンセスより年上なのに、たいしたことないんだね」

 ほとんど侮辱に近いことを、身分のずっと下のものから口々に言われて、ヘンリーは怒りが湧くより先に唖然としてしまった。よく教育のされた召使しか身の回りにいなかったので、下町なまりの汚らしい言葉で、礼儀もなにもわきまえず不躾な口をきかれるなんて想像したことすらなかったのだ。

 無知な子供の恐ろしい振る舞いを、セーラはすぐにたしなめた。

「そんなことを言ってはいけません。それに、この方にはマイ・ロードと呼びかけるのが正式なのよ」

 セーラが言い含めたにも関わらず、子供たちは笑い出した。自分たちが、ロードなんて口にするなんて奇妙でたまらなかったのだ。実際、そんな光栄な機会には今後永遠に恵まれない生まれだった。

「笑うのをおやめなさい。……伯爵さま、どうかお気を悪くなさらないで下さい。なにも知らないかわいい人たちなんです」

 めったに動揺することのないセーラだが、このときばかりはさすがに青ざめた。憤慨するだけならまだしも、それがおさまりがたいものなら、この慈善活動を取り止めに追いやることさえできる人なのだから。しかし、最初のショックが過ぎ去れば、ヘンリーは一生に一度あるかないかのおかしな状況に笑いがこみあげてきた。

 どうやって怒りを静めてもらおうか考えていたセーラは、まったく予想を裏切られて言葉もなく見つめた。

 いきなり笑い出した紳士に戸惑い、子供たちまで静まりかえったのを感じながらも、ヘンリーはなかなか笑いをおさめることができない。こんなに愉快な気分になったのは、いつぶりかわからなかった。長いこと声をだして笑ったことがなく、その間に笑い止む方法を忘れてしまったようだった。

 まるで笑い上戸のように肩をふるわせながら、ようやく物を言えるようになったヘンリーは、子供たちにむけて手のひらにあずけていた顔をあげた。

「いいだろう、かわいい無礼者たち。クルーさんに免じて、それでは私の旅の話でもしてあげよう。もちろん、お前たちが信奉するダイヤモンド・プリンセスには及ぶべくもないだろうがね」

 それまで青々とした芝生にくつろいだ様子で肘をたてながら身体を横たえていたヘンリーは、語り聞かせるために身を起こした。

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