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クルーさん、とある日の昼下がり、風の心地よいテラスでヘンリーは問いかけてみた。
「どうしてそこまで叔母に優しくしてくれるのです? あなたみたいに若い人には、ここは退屈な場所でしょう。病気の未亡人の話し相手よりも、もっとずっとしたいことがあるはずだ」
するとセーラは、どう答えたものか迷っているように沈黙した。テラスから見えるオーガスタが心を配っている庭を眺めて、とうとう何か決心したように話し始めた。
「私は、よく真似事をするんです。それはただの真似事にしかすぎなくて、本当のことにはならないかもしれないけれど、私にとってはそれらしい振る舞いをするためにとても役に立つことなのです。……なかなか人にはわかって頂けなくて、なかには馬鹿馬鹿しいと感じる人もいることはわかっているのですが」
「けっして笑わないと約束しますから、ぜひ話してもらいたいですね」
するとセーラは、いつもの静かで落ち着いた声で話した。
「私がよくする真似事は、自分がプリンセスだということです。もしプリンセスだったら、恵まれない民衆を救うために、たくさんの贈り物をすることができるでしょう。私は、たしかにプリンセスではありません。でも、私が人に親切にするのは、プリンセスが民を憂うるのと同じことだと思い込むことにしているのです」
テラスの白い柵にもたれたヘンリーは、この告白を聞いて呆気にとられてしまった。笑わないと約束したものの、なんてくだらないことだと感じ、やや意地の悪いことを言わずにはいられなかった。
「その真似事をすれば、優しい心根の持ち主になれると? 本当は自分が持っていないものでも、持っている気になれるのでしょうか。……たとえば、愛情の欠けた家庭に育って性格の歪んだ者が、自分は愛されて育ったのだという真似事をすれば、人を信じて愛し慈しむことができるようになれると?」
「ええ、できます。少なくとも、私はそう信じています」
セーラはそう言い切って、ヘンリーの目をじっと見つめた。聡い光の宿る瞳に長く見つめられていると、たとえ話が自分の冷え切った実際の家庭から出てきたものだと見透かされてしまう気がして、ヘンリーは目を背けた。
「すべての人にそんな力が備わっているのだとしたら、この世には不幸な人なんていなくなるんでしょうね」
信じきることのできないヘンリーに対し、セーラはまたオーガスタの庭にもう一度目を向けた。それから、ある一本の庭木を指さした。
「今まさに、あの木陰の下に幸せな一組の家族がいます。いまから、そういうことにするんです」
「それが真似事?」
ヘンリーが尋ねると、ええ、そうです、とセーラは言った。しかし、ヘンリーの目には午後の木漏れ日が揺れているようにしか見えない。けれども、セーラは〈魔法〉が自分に見せる幸福に包まれた家族を、人の目に映すことができる言葉を知っていた。
「お父さんとお母さんと、可愛らしい男の子の三人家族です。そして、とても愛し合っている。まだ若々しい夫婦は、お互いのことを恋人のときと変わらずに、愛しい人、と呼びあっています。それから、自分たちの小さな息子のことは、私の天使、と呼んでいます。二人にとっては、本当に笑顔を運んでくれる天使と変わらないから。実際、あの子が生まれてから、彼らの家に笑い声が響かなった日なんて一日もない」
ヘンリーは、流れるように話すセーラを驚きの目で見た。親しくしている家族を話す素振りで、ヘンリーがたまたま見つけられずにいるような気分にさせられるほどだった。
「お父さんは恰幅のいい身体を、ロンドンで一番腕のいい仕立屋であつらえた上等の服に包んでいて、顔にはいつも赤みがさしていて感じのよい笑顔を浮かべています。少し赤っぽい茶色の髪をしていて、同じ色の口髭をはやしていて、笑うたびにそれが揺れ動いて、見ている人を愉快な気分にさせずはいられないんです」
それから、とセーラの顔に明るい微笑みが浮かんだ。
「お母さんは素晴らしく綺麗なドレスを着ています。女性なら憧れずにはいられないような。最新の流行の型で、フランス製のレースがたっぷり。手袋をはめた細い指で、真っ白な日傘を差しているのが、いかにもいい家で育った上品な貴婦人といった様子です。あの人は、ご主人と並んで息子を眺めていると、自分は世界でいちばん幸せだという気分になるんだわ」
あ、とセーラは少し柵から身を乗り出して、おもしろいものを見かけたように笑う。
「いま男の子がお母さんから叱られました。オーガスタさんが大切に咲かせたパンジーを花壇から摘もうとしたから。サロペットの半ズボンから出ている脚は、まだ短くて赤ちゃんみたいにふっくら。お顔も幼くて頬がまんまるなんです。色はまるでりんごのよう。その頬っぺたを、叱られたのが悔しくてさらにまるく膨らませているのが本当にかわいい。お母さんもそんなに怒っているわけではなくて、目を細めて呼びかけているんです。ほら、私のかわいい天使の坊や、こちらにいらっしゃい、って」
ヘンリーの目には、セーラが説明を重ねるごとにぼんやりとした影として家族が見え始めていた。それが、セーラによって母親に呼ばれて駆け寄る男の子が語られたとき、急にはっきりとした像を結んだ。
幼い男の子は、呼ばれるままに母親に駆け寄る。すると母親は日傘をかたわらに置いて、息子を抱きしめる。愛おしそうに微笑みながら、優しい手つきで男の子のやわらかな髪の毛をなでる。その様子を、父親は満ち足りた顔で眺めながら、何にも代えがたい二つの宝物をそっと抱き寄せるのだ。
両親二人の腕につつまれた男の子が、幸せに染まった顔で輝くような笑みを浮かべる。その瞬間、奇妙な転換が起きた。ヘンリーの魂はその木陰に吸い込まれて、小さな男の子と入れ替わっていたのだ。その男の子こそが、ヘンリーになっていた。愛しさがあふれたまなざしでヘンリーを見つめるのは、まさしく公爵と公爵夫人だった。ヘンリーは二人のそんな顔なんて見たことがないのに、両親の愛情をしっかりと肌に感じていた。
「見えてきませんか、幸せな家族の姿が。聞こえてきませんか、あの人たちの楽しそうな笑い声が」
セーラが笑顔で向き直ると、ヘンリーはなかば呆然としながらゆっくりと頷いた。
「それどころか私は、感じ取ることさえできる」
セーラが〈魔法〉を伝える言葉をやめてしまうと、不慣れなヘンリーには家族の姿はたちまち霧散して見えなくなってしまった。しかし、それでも十分だった。両親のぬくもりが、ヘンリーの身体にまだ残っているような気がしていたから。
「これが、真似事?」
ええ、とセーラは、また一人理解者を得た喜びを噛みしめながら頷いた。
「これが真似事なんです」
きらきらと光る午後の光を受けながら目の前に立っているセーラは、純白の翼が背中にないのが不自然だという気がする。その瞬間セーラは、得ることができなかった愛情を与えに来た、ヘンリーにとってこの世ならない存在だった。
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