Chapter2 In the Garden

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 帰国したとはいえ、長く留まるつもりはなく、次の旅行への準備が整うまでいつもの田舎の邸で過ごすつもりだったが、オーガスタは自分の病気が治るまではイギリスに、それも頻繁に会いに来られるようにロンドンにいてほしい、と願い出た。

 ロンドンにいるとなれば、ハワードのロンドンでの住まいタウン・ハウスに戻って来い、と公爵から旅行中の比ではない催促があるのは火を見るよりも明らかで、それには無視を貫いたとしても、とにかく人の集まるところには必ずといっていいほど顔を出している公爵夫人を避けるには細心の注意が必要で、そんなことに神経をすり減らすくらいなら出かけないほうがまだましだという気分になる。

 折しも社交のシーズンを迎えており、上流の人々がロンドンにあふれかえるこの時期は、ヘンリーにとってわずらわしいことが多くなり、いちばん寄り付きたくないときだった。とはいえ、いくら気丈にしていても、未亡人ならではの心細さを抱えていて当然のオーガスタからの懇願は無碍にできない。

 そこでヘンリーは、しばらく留まって顔を出していれば、オーガスタの気もおさまるだろうと判断し、適当なしかしふさわしいホテルを滞在場所として選び、つかの間そこへ腰を落ち着けることに決めた。

 世間の人を嫌ってはいても、さすがにヘンリーは若く、様々なことへの興味は尽きない。だから、家族と出くわすのを避けるためとはいえホテルの部屋にこもりっきりというのは息が詰まる。そうすると自然、頼まれずともオーガスタのもとに足が向いた。

 インドで財産を得てロンドンへ帰ってきたカリスフォード氏は、いまは立場ある地位について名士として毎日を忙しく過ごしていたので、そう頻繁にオーガスタに会いには来られなかったものの、オーガスタはセーラを殊の外気に入り、毎日でも話し相手になってほしいと願っていたから、セーラは望まれるままにやってきていた。

 よく顔を合わせるようになってから、この令嬢は何かを望んでいる人がいて、それを自分が与えることができるのなら、惜しげもなく差し出すことを喜びとするのだとわかっていった。それにセーラは、人を喜ばすことがたいそう上手だった。ただただオーガスタを見舞いにやってくるのではなく、この気の毒な未亡人の心の慰めになりそうなものを見つけては、それを持ち込んでオーガスタに笑顔をもたらした。

 交流を避けているがゆえに、人への興味を持つことができずにいるヘンリーにとって、セーラのこの才能は驚くべきものだった。たとえ、みやげとなるものがなにもなくても、セーラは親切を差し出していて、その優しい瞳を見るだけで、人は慰められるのだった。

 オーガスタは、セーラのパリでの留学時代の話をよく聞きたがった。その地は、エドマンドが健在だった頃、夫婦そろって旅行にでかけた思い出の場所なのだ。夫を亡くしてからは足が遠のいているものの、故人の思い出が時の彼方へ薄れていくにしがって、幸せな時代の眠る土地への憧れは増していくのだった。

「クルーさん、わざわざフランスへ留学したのでは、言葉に苦労したのでは?」

 ヘンリーの問いかけに、セーラは、いいえ、伯爵さまマイ・ロード、と答えた。

「母がフランス人なのです。父は母の国の言葉がとても好きで、ずっと私にフランス語で話しかけていたものですから、幸い苦労はしませんでした、伯爵さま」

「なるほど。それでフランスに。探そうと思えば、ロンドンにも優れた女学校はたくさんありますからね」

「ロンドンの寄宿学校に在籍していたこともありました」

 そう話すセーラの声は、沈みがちになった。ヘンリーは、不用意に亡きクルー大尉のダイヤモンド鉱山事業に触れたときのことを思い出した。

「ただ、ロンドンの冷たい霧のなかで、少しつらい思いをしたものですから。安心して学ぶために、その思い出から離れたかったのです」

 プリンセスと呼びかけられるほど高貴なこの令嬢が打ちのめされるほどの不幸を、ヘンリーは想像することができなかった。サディスティックともいうべき好奇心から、まなざしを伏せた彼女につらい思い出を語らせてみたい気分になったが、それは紳士のするべきことではない、という思いがすんでのところでそれを留めていた。

「Quand, les deux yeux fermés, en un soir chaud d′automne, Je respire l’odeur de ton sein chaleureux ……((暖かい秋の夕べ、両方の目を閉じて 君のほてった胸の匂いをかげば……)」

 ふいにフランス語で詩をつぶやいたオーガスタは、はっとして顔をあげたセーラに微笑みかけた。

「私、この詩が好きなの。でも、続きを忘れてしまったようだわ。セーラさんならきっと、見事な発音で暗唱してくれるのでしょうね。もっとも、淑女の口にはすこしはしたないかしら?」

「いいえ、ヴォードレールは好きです。悲しすぎるところがありますけど、それさえも魅力で」

 そう言うとセーラは本当に楽しそうに、続きを引き取って「Je vois se dérouler des rivages heureux Qu’éblouissent les feux d'un soleil monotone ;(単調な陽が まばゆく光っている たのしい岸辺 ひろびろと目に浮かぶ。)」と諳んじ始めた。

 ヴォードレールが愛した美と官能も、セーラの穏やかで耳に心地よい声を通せば、人の心を和ませる優しい響きを孕む。ちょうど夕べの陽射しがななめに窓から差し込む時刻で、暖かに照らし出された部屋は見事に詩と調和し、その効果も相まってセーラのうたいを少々人間離れしたものに感じさせた。大袈裟に聞こえることを恐れずに言えば、オーガスタの病を癒すために使わされた、天使の歌声のようだった。

 不思議だ、とヘンリーはプリンセスを眺めた。年に似合わない落ち着いた態度、きわめて上品な所作、においたつほどの才気、それらはたしかにこの令嬢を輝かせてはいるけれど、それは魅力の本質ではない。人々にプリンセスと呼びたくさせ、月並みな若い婦人ではないと感じさせるのは、ヘンリーの理解を越えた優しさだった。かぎりのない慈悲、求めて手を差し伸べればあますことなく注がれる愛というのは、教会の檀上で聖職者が説く説教のなかにしかなく、地上の人間には持ち得ないはずのものだった。少なくともヘンリーはそう信じていた。けれども、その深い慈愛というものが、ひどく華奢な身体つきをした少女のなかに確かにあるような気がする。

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