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「私のゴンドラが運河の果て、アドリアの海にさしかかった頃は、ちょうど夕暮れの時間だった。その日は、見事な夕焼けを見ることができた。上等なルビーよりもなお紅く輝き、それは本当に言い尽くせないほどに見事で……。しかも、美しいものはそれだけではなかった。海だ。夕陽に近い海の縁はまぶしいほどにきらめく黄金で、そこからは私のところまでだんだんと青の色を深めてゆく。その澄みきった青は、この世のどれほど心清らかな美女の瞳にも見つけることはできない。主はこの世界を心から愛しているのだと、実感できるような景色だったよ。さもなければ、あんなに美しいものを地上に与えはしないだろうからね」

 そのときのヘンリーは、はたで見ていても目の奥でその日の奇跡をもう一度見つめているのだとわかるような夢見心地だった。

「そのとき私は気付いたんだよ。これほど胸を震わす光景を毎日のように見ているから、ヴェニスの人々は一目で心奪われずにはいられないヴェネチアングラスを生み出すことができたのだと。私がトランクの中へ大切にしまいこんだ宝物たちは、あの夕焼けと海の色をまさに映し出していたんだ。主は、自分の芸術をマエストロにだけ、美術品として真似することをお許しになったのだよ」

 そして、ヘンリーに微笑みが浮かんだ。

「そんな私の心の内を見透かしたように、ゴンドラの漕ぎ手がそのとき歌い出した。それは、遠い昔の殉教の聖女に捧げる歌だった。その舟歌は、目の前の神の彩色と、それを受けたガラスのきらめきをまとめて調和させて、私の心に永遠の記憶として焼き付けたんだよ」

「どんな歌?」

 心惹かれた子供は、質問を投げかけた。それはある意味当然の願望を、子供たちに引き起こした。

「ねえ、歌ってよ」

「そうだ、歌ってくれなきゃわからないよ」

 悪気はない子供の無遠慮な頼みだったが、それを止めるべきセーラは、もはやヘンリーが咎めはしないことを知っていた。

「伯爵さま、もしよろしければ、お聞かせ願えませんか? 私もぜひ聞いてみたくなりましたの」

 セーラのひと押しがなければ、ヘンリーは子供たちの願いを退けていただろう。人前で歌ってみせるような性格ではないし、自分のために鼻歌を口ずさむことすらしない。ただ、けっして強制的ではなく、思い出を分かち合うことだけを望んだセーラの瞳を見たら、それに応えようという気持ちが湧き上がってきた。ためらいの静けさがしばらく続いたのち、ついぞ人々が耳にしたことのなかったテノールの歌声がささやきのように響いた。


 Sul mare luccica l'astro d'argento.   月は高く 海に照り

 Placida è l'onda, prospero è il vento.   風も絶え 波もなし

 Venite all'agile barchetta mia,      来よや友よ 船は待てり

 Santa Lucia! Santa Lucia!       サンタ・ルチア! サンタ・ルチア!


 本当はもっと長く、繰り返しの多い歌なのだが、さすがにそこまでする気にはなれなかった。それでもヘンリーにとっては破格のサービスで、いつものように昼休みの終わりを知らせにきた教師が、合図の鐘を鳴らすのを思わずやめて目を疑うほどだった。にこりともしない伯爵だと聞いていたし、その噂を疑いもしていなかったのだ。

 やってきた教師に気付いてそちらに目を向けたヘンリーと視線が合って、教師は何らかの形で罰せられるのではないかと冷や汗をかいた。しかしヘンリーは、ちっとも不愉快なようでもなく、子供たちに語りかけた。

「ちょうどお前たちの先生が来たようだよ。さあ、教室にお戻り」

「ええっ? いまので終わり? 冒険は?」

「残念ながら、私はスウィフトのガリバーではないのでね。小人にも巨人にも会ってないよ」

「ガリバー? 小人? 巨人?」

「ねえねえ、もういっかい歌を歌ってよ。覚えて帰るから」

 子供たちは散々に言い立てたが、それというのも、セーラのように今後もお話を聞かせてくれる人ではないことをなんとなく感じ取っているからであり、いいからもう教室へお行き、というヘンリーの曖昧な微笑みに遠回しに断られたのをさみしく思った。

 子供たちが去ってしまい、あのにぎやかな話し声がなくなってしまうと、セーラとヘンリーの間には静けさが訪れた。ヘンリーはもとのように身体を横たえて、芝生のあざやかな緑を見るともなしに眺めた。

「イタリアの言葉もお出来になるんですね」

セーラは、親しみをこめた笑顔を向けた。

「いや、簡単なあいさつを二、三と、さっきの歌くらいのものです」

「その歌も、一度聞いたくらいでしょう? 語学のセンスをお持ちなんだわ。上流階級の方々の一般教養とはいえ、ご旅行の際には現地の方と変わらないほどのフランス語をお話しになると、オーガスタさんからうかがってはおりますもの」

ヘンリーは少し悪戯っぽい笑みを浮かべてから、流暢なフランス語で答えた。

「Pas aussi bien que toi Parce que tu as une mère française. (あなたほどではありません。フランス人の母親をお持ちだから)」

それを受けてセーラも微笑んで、生まれながらに親しんだ言葉で答えた。

「Peu importe ce que tu fais à la noblesse, tu perds. (高貴な方には何をしても敵いません)」

 ヘンリーが初めて語った思い出話のせいか、遠い南の海の舟歌のせいか、そのときの二人は和やかな空気につつまれて、これまでにない親密さを互いに感じた。

「ヘンリー、と。これからはそう呼んでくれないか?」

 思いがけない言葉にセーラは目を見張ったが、二人の心の距離が近付いた今日のあかしを、と望むヘンリーの胸のうちを読み取って、すぐに人を癒す力をもったあの微笑みを浮かべた。

「そんなふうにおっしゃって頂けるなんて、とても嬉しいです」

 そう答えたセーラは、ヘンリーの次の言葉をたやすく予想できた。

「そのかわりというわけではないけれど、私にもあなたを、ファーストネームで呼ばせてもらえないだろうか?」

「もちろん。どうぞお望みのままに」

 思った通りの言葉に、今度は戸惑うことなくセーラは答えることができた。ヘンリーは感じた喜びのままに笑顔になった。

「ありがとう、セーラ」

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