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 エドマンドがオーガスタに遺した敷地には、外庭のむこうに小さなチャペルとそれに付随した離れがあった。オーガスタはこのチャペルと離れを、貧しい子供のために開放していた。教師を雇って無償の教育を施しているのだ。

 とはいえ、集まっている子供たちは純粋な向学心を持っているとは言い難く、ほとんどは昼に出される給食目当てだった。なかには、それを家族のためにわざわざ持ち帰るほどの子供もいて、そんな子供が逼迫した家庭の様子を幼い顔立ちにくっきりと浮かび上がらせているのは、オーガスタの胸を痛めるのだった。

 ヘンリーは、オーガスタの慈善活動について知ってはいたものの、チャペルの前で輪になって座っている身なりの貧しい子供たちを見るまで、そのことはすっかり忘れていた。子供たちはちょうど昼食を終えて、昼休みを楽しんでいるようだった。

 その輪のなかに、一目で彼らとは別世界の住人とわかる令嬢がいた。それが、カリスフォード氏のリトル・ミセスだというのは明らかだった。彼女を見るなり、ヘンリーの胸のなかにカリスフォード氏への嫌悪が込み上げてきた。それというのも、リトル・ミセスがあまりにも若いからだった。さすがに結い垂らした髪と足元の見える少女用のスカートは卒業するべきだが、かといってまとめ上げた髪型やコルセットできつく締めあげる婦人服の着こなしには初々しさが残る、少女時代を抜け出て間もない婦人で、誰かからミセスと呼びかけられるには早すぎる。

 どういったわけで不釣り合いな結婚をしたのだろう、おおかた最近はやりの没落した家柄と成り上がりの縁組だろうが、とヘンリーは彼女を眺めた。

オーガスタが手放しに誉めたわりには、華やかな美人とは言い難い娘だった。瞳は暗い色で、毛先がゆるやかにうねる髪も豊かだが黒く、身体の線が頼りないほどに細い。そのわりに、不思議と目が離せないのだった。

 彼女は、子供たちに物語りをしていた。それは、ひどく空腹の気の毒な少女がぐうぜん銀貨を拾い、それでパンを得るのだが、そのとき自分よりももっとひもじい子供を見つけるという、きわめて子供向けの教訓話だった。その様子はいかにも人にお話を聞かせるのに慣れたふうで、しかも若さに似つかわしくないほど落ち着いて優雅だった。

 そういえばオーガスタは、この若い婦人を美人とは言わず、素晴らしいレディだと褒めていたな、とヘンリーが思い至ったとき、リトル・ミセスの物語はいよいよ佳境を迎えて、空腹の少女は、自分には一つしか残さず、残りのパンをすべてよりみじめな子供に与えてやるのだった。

 慈悲をかけられた子供と同じく、空腹があまりにも身近な子供たちは、その話を信じられない、と口々に言った。その少女は、まともではない、とも。

リトル・ミセスは口騒がしく子供たちに微笑みかけた。

「でも、それは彼女にとって、ごく当たり前のことだったのよ。その子は、たしかにお腹を空かせていたけれど、けっして不幸ではない女の子なのだから。ね、前にもお話ししたでしょう?」

「いまのお話って、きのうのいじわるなミストレスにさんざん虐められても、泣かなかった女の子? 不幸ではない女の子のこと?」

「そうよ。……どんな境遇にあっても、たとえどんなにお腹がすいていて、どんなに意地悪なことをされても、自分で自分を不幸だと思い込まないかぎり、その人はけっして不幸にはならないのよ。だから、自分よりもずっと恵まれない子供に、パンを分けてあげることができる」

 そこまで語ったときに、チャペルの方から合図の鐘を鳴らして、教師を任された人がやってきた。午後の授業のために子供たちを呼びにやってきたのだ。

「さあ、午後の時間が始まりますよ。いってらっしゃい」

 なかなか立ち上がろうとしない子供たちを、リトル・ミセスは促した。不承不承チャペルのほうに歩き出した子供たちのうちの一人が、振り返って彼女に呼びかけた。

「明日もぜったいお話を聞かせてね、ダイヤモンド・プリンセス!」

 その大仰な呼び方に、ヘンリーは思わず微笑みをこぼした。それはちょうど、子供を見送ったリトル・ミセスが立ち上がり、ヘンリーに気付いたところだった。

 思いがけないところでこちらを眺める青年の存在を目の当たりにして、戸惑った顔をする彼女に、ヘンリーは自己紹介の必要を感じて近付いて行った。

「お目通りすることをお許し頂けますでしょうか、プリンセス?」

 育ちの良さをいかんなく発揮して、貴族流の右足をひいた礼ボウ・アンド・スクレープをしてみせた。本来、ヘンリーは冗談を口にしない性格だったが、このときは叔母のお気に入りの令嬢に興味を惹かれていたのと、プリンセスの呼び名に対する、真の貴族からの揶揄をこめたつもりだった。

 ヘンリーは、このユーモアを受けて立って尊大に笑って見せるか、受け止めかねて赤面し動揺を見せるかのどちらかだろうと、内心ほくそ笑んでいた。しかし、リトル・ミセスはどちらの態度もとらなかった。

「あれは単なるあだ名です。私が正しい振る舞いを心がけるために、プリンセスを思い浮かべているものですから。お辞儀をして頂く必要はありません」

 静かで頑なな口ぶりに、ヘンリーは予想を裏切られて驚いた。もとの姿勢に戻って、改めて向き合うと、彼女は落ち着いた表情をしてたたずんでおり、あからさまではないものの軽薄なふるまいに対する咎めるようなまなざしをヘンリーに向けていた。それでヘンリーは、この少女は軽々しく扱うべきではない人だと悟った。

「これは失礼。謝罪を受け取ってくれれば嬉しいですが。私は公爵のハワード家の長男で、伯爵のヘンリー」

 それを聞いたリトル・ミセスは、思い当たることがあったようで微笑みを浮かべた。

「オーガスタさんの甥でいらっしゃる方ですね。さきほどお話にうかがいました。初めまして、セーラ・クルーです」

「クルー? カリスフォード氏のミセスと聞きましたが?」

「リトル・ミセス。たまに、おじさまが私をそう呼ぶのです。親友だった父のことを思い出しているときに。亡くなった父は、私をそう呼んでいたのです。ずいぶんませた子供だったので」

「父を亡くした? では、カリスフォード氏は?」

「私の保護者で、後見人です」

「なるほど。どうりでずいぶん若いはずだ。それにしても、たくさん呼び名を持っているんですね」

「たとえ呼び名が星の数ほどあっても、私は私です」

 そう言い切ったセーラを、不思議な少女だ、とヘンリーは思った。十八、九にしかならない女性は、たいていよく笑い、意味があるようでないおしゃべりを絶え間なく続けている。しかしセーラは、物怖じせずに必要なことをやわらかな声でしっかりと話す。こちらの方が年上のはずなのに、セーラの方がずっと長く生きていて、魔法で若返っているだけのようだった。魔女と呼ぶには禍々しさが足りないのだが。

 ヘンリーは、遠目で見たときには暗い灰色だと思っていたセーラの瞳が、知的な緑がかっていることに気付いた。

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