第7話 落日

 窓から見える空は薄く藍がかっている。地平線の先だけが、薄らと赤らんでいた。

 いつの間にか、随分と時間が経っていたらしい。

 仄暗い部屋の時計を見ると、短針は四時すぎを指している。……いや、反転するから七時過ぎか。道理で日が暮れてるわけだ。


 窓を開けると、温い熱気が部屋に入ってくるものの、室温はそれほど変わらない。そういえば、部屋の冷房も入れてなかった。初め少し残っていた冷気は、夜につけていたものの名残か。別に暑さを感じるような余裕もなかったからいいけど。

 ちらと部屋の隅に視線を向けると、そこにある姿見はただ荒れた室内を映していた。




 何かあったら透を頼れ。鏡像は最後にそう言った。


「……透」

『三上透。幼なじみだろ。お前のところでは違うの』

「いや、そうだけど」


 本来訪ねに行く予定だった人物の名に困惑する。そういえば、色々あって忘れていた。結局三上はどうなったんだ。内心で考え込んでいると、予期せぬ形で答えが来る。


『透は入れ替わっていない。替わったのはオレと羽柴だけ。そっちに居るのは、そのまま現地の三上透』


 床に置かれたままのスマホを見る。淡々とした声が、やけに大きく聞こえた気がした。


『透はオレの命綱で、お前にとっても、間違いなく命綱になる。死にたくなかったら傍に居ろ』




 そうして最後に二、三言葉を交わして、通話は切れた。

 今の姿見はただの鏡だ。普通にこの部屋を映している。なんのきっかけで向こうの世界が見えるのか、いまいちよく分からない。あいつの方は知っているのだろうか。


 姿見をなんとなしに見ていると、不意に部屋の外から、軽快な足音が響いてきた。


「おーい大地、あけろー」


 どんどんと無遠慮にノックをする音が響く。その合間にもぶつぶつと漏れ聞こえてくる声。その声があまりに想定外で、一瞬固まる。それによく似た声を、俺は知っている。

 なんで。ここ、俺んちの筈なんだけど。


 ドアを塞いでいたマットレスを適当に動かして、鍵を開ける。恐る恐る開けたドアの先には、脳裏に描いていたものと寸分違わぬ顔があった。


「ったく今日行けねーって言ったじゃん。僕は忙しーんだ、手間かけさすなよ」

「……三上?」


 不満をありありと浮かべた三上が、目の前にいた。

 呆然とその顔を見下ろしてから、違和感に気づく。

 三上は俺を『大地』とは呼ばない。

 三上の一人称は『僕』ではない。

 姿はそっくりだが、これは俺の知っている三上ではない。言われた通り、確かに別人だった。


「おまえ、なんか……」


 俺を見上げた三上がふと眉を寄せる。一瞬瞳が揺れたような気がしたが、直ぐに視線を逸らされた。


「まー、とりあえずいいや。怪我した場所どこ」

「怪我って」

「おまえの母親から連絡来たの。怪我してるっぽいから見てくれって」


 上から下まで目を滑らせながら、三上が言う。晒された視線に、俺は居心地が悪くなる。

 なんで知ってんのかと思ったら、あの人がなんかしたらしい。いや、だからってこいつに連絡してどうするんだ。


「……足か」


 ぽつりと呟いた三上が、ふと屈んで左足に触れた。

 一瞬だった。


「……は」

「落ち着いたら着替えとけよ、それ」


 惚けているうちに、三上はさっさと身を翻して去っていった。

 その背中が消えてから、我に返って部屋に引っ込む。左足に感じていた鈍痛も、熱も、あの一瞬でなくなった。


「治ってる」


 スラックスの裾を上げて呟く。先程確認した時にあった傷は、初めから何も無かったかのように、綺麗に消えていた。

 なんで。非現実的な出来事に混乱する。だがいくらもしない内に、忘れかけていた異能の二文字が、脳裏で踊った。


「……命綱って、こう言うことか」


 確かに今みたいに治してもらえるなら、死ぬリスクは遥かに下がる。ファミレスを出た時のように、また巻き込まれる可能性は捨てきれない。それでも一撃で致命傷でも負わない限りは、なんとかなるかもしれない。

 一撃で。……羽柴のように、ならなければ。


 目を向けた先に置かれた首に手を伸ばす。触れた皮膚は冷たく、血は傷口からすっかり流れ落ちたようで、持ち上げてもあまり滴ることは無かった。

 日は既に落ちている。もう、さすがにあの茶色は居ないだろう。


 人の供養をするには何をすればいいのだろう。やっぱり火葬か? だが半端な火力じゃ黒焦げになって終わりだ。俺一人でやるのなら、やっぱり埋めるしかないのかもしれない。

 さっき母親から逃げ出した原因が結論になるというのが、ちょっと釈然としないけど。


 鏡像が言った言葉が、ふと脳裏に浮かぶ。


『道連れなんてごめんだ』


「……俺だって、こんな世界で死ぬのはごめんだ」


 呟いて、ドアに手をかけた。


 ごめん、羽柴。俺が巻き込んどいて、都合いいこと言ってんのは分かってるけど。

 俺はやっぱり帰りたい。元の世界に。自分の居場所に。

 だから俺はここで、狂う訳にはいかない。


 恨むなら、恨んでいいから。このまま俺が生きることを、どうか許して欲しい。

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鏡界ノイズ 砂原樹 @nonben-darari

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