鏡界ノイズ

砂原樹

序章 夏日の残映

第1話 反転世界

 都市伝説というものがある。

 口裂け女、メリーさん、ドッペルゲンガー、エトセトラ、エトセトラ。そういったオカルト話は、下手な心霊話よりロマンがあると思う。


 思うに、日常で当たり前にあるもの、身近なものが、突然非日常に切り変わるのがミソなんだと思う。違和感を覚えてなお、その正体が分からない不安。そんでもって、未知のものに対する、得体の知れない恐怖感。

 その『未知』が、どういう訳か不思議な魅力を持って、心に刺さるのだ。まあ持論だけど。


 別に熱狂的なオカルトファンというわけではないけど、都市伝説という単語に心躍るくらいには好き。

 そんなわけで、俺は暇を持て余した野郎共に提案してみた。

 合わせ鏡でもしないか、と。


「唐突すぎる」


 ぽかんと口を開けた間抜け面を晒したかと思えば、羽柴はぼそっと呟いた。なんだ羽柴、文句あんのか。いいじゃん夏の定番肝試し。

 ただあいにく、俺は幽霊よりも都市伝説の方が好きだ。つーか廃墟とか廃病院とか廃トンネルとか、そういった所は御免こうむる。その点じゃいいだろ、合わせ鏡。お手軽でさ。


「えーだるい。普通に花火とかでいいんじゃねーの」


 そう言って一人腹ばいでゲームをしているのは三上。視線は目の前の携帯ゲーム機に釘付けだ。

 一見日和ひよったように聞こえる発言だが、ゲームが終わった途端に意見を翻すのは目に見えている。

 刺激のないつまらない日常に彩りを加えるには、たまには冒険が必要だ。初めにそう言ったのはお前だろうが。花火程度で満足出来んのかよ。いったんゲーム置け。


 つーか何だ、さっきから。やけに生々しい効果音が聞こえてくるんだけど。気になって三上の手元を盗み見れば、肉片と血潮が乱舞するグロッキーな画面が見えて、俺はそっと目を逸らした。

 やばいもん見た。


「だいたい合わせ鏡って鏡合わせるだけだろー? なんの面白味もねーじゃん」


 ぼやく三上に我に返り、俺は持っていたスマホの画面をずいと押し付ける。


「いや、何も聞かずに決めつけんなよ。確かに絵面は地味だが、余りあるほど刺激的だぜ?」

「ちょ、邪魔すんなって。てかなーに、市ヶ谷くん。もしかしてわざわざ調べてくださったの? そのスマホで? ひゅー気合い入ってるうー」


 必要以上に間延びした声を出して三上が茶化す。言ってろ。これを聞けば絶対黙る。


「ベッドに向けて鏡を置くと魂を盗まれる」

「……」


 ピタリと口を噤んで三上がチラとこちらを向いた。ほら見ろ黙った。俺はほくそ笑む。


「古今東西鏡に関するジンクスには事欠かねぇ。よく聞くだろ? 鏡に向かって話しかけると精神崩壊する、とかな。合わせ鏡にもあるんだよ。それもひとつじゃなくて、複数」

「……ちなみに」

「合わせ鏡は悪魔の通り道」

「……」

「合わせ鏡をすると自分の過去や未来が見える。九個目の顔が死に顔」

「……」

「後これはさっき知った話だけど。午前零時に合わせ鏡をして、ある儀式をすると、異界への扉が開く」


 三上がゲーム機を置いて起き上がる。それを見ながら、俺はゆったりと微笑んだ。


「ほら、認めちまえよ。くすぐられるだろ? 俺たちの中の好奇心、ひいては中二心がよ」

「……そーだな。たまには良いな。中二病を解き放つのも」

「だろ? 赤信号、みんなで渡れば怖くない!」


 ふっ、やはり三上とは気が合うな。小中高と通ってきた俺たちの中二心は永遠だ。

 いっそ黒魔術とかもやってみねー? と嬉嬉として返してくる三上に、俺も次第にテンションが上がってくる。なるほど。和だけでなく洋も攻めるか。ありだな。めちゃくちゃあり。


「いや待て。本当にやるのか?」


 そんな中、横から羽柴が声をかけてきた。見るとどことなく不安気な顔をしているような気がする。


「黒魔術?」

「いや、それもだが……合わせ鏡」

「なんだよ怖いのか? つーか羽柴、ホラー映画とかは涼しい顔して見てるだろ。何が駄目なの」


 聞くが、羽柴もよく分かっていないのか、微妙な顔をしていた。


「何がと言われてもな……恐怖は理屈じゃない。本能だ」

「説明になってな、いや何だその名言」


 何故か納得してしまった俺が居る。

 くそ、今後使わせてもらおう。備考、堂々と言うこと。心にメモ。


「ふっ、任せろ。ぶっちゃけると俺も怖ぇが、好奇心の方が強い。今の俺は無敵だ。強面羽柴ちゃんもまとめて守ってやんぜ」


 親指を立ててサムズアップする。羽柴は不安げな顔を崩さなかったが、渋々頷いた。


「いつやるんだ?」

「今日で!」


 小声で尋ねる羽柴に、三上が食い気味に言う。

 こっちは目がキラキラしてる。反応が真逆。


「今日うち親帰ってこねーから泊まってけ。午前零時だろ? 夏休みだしきっとお前らもお許しは出る!」

「いや、心の準備が……というか俺も三上も明日は補習だろう」


 顔を青くしながら羽柴が反論する。そう、この二人は赤点補習組だ。夏休みに学校行かなきゃいけないなんて可哀想。ちなみに俺は地味に頭がいいので補習はない。


「羽柴んちより俺んちの方が学校近いぜー」

「そうだが」

「嫌なことは早く終わらせよう。な? ってな訳で一旦解散。準備してから再び集合!」


 三上のテンションが高い。

 るんるんと口ずさみそうな程上機嫌な様子に、羽柴も諦めたように肩を落とした。

 いや、マジごめん羽柴。俺も楽しみだから止めない。後でアイスでも奢ってやるよ。


 立ち上がりながら、ふと部屋にある時計を見る。

 午後四時十八分。別にそう急がなくても、時間はたっぷりありそうだ。


「市ヶ谷、そういや儀式? ってなんか特別なもんいるの?」


思い出したように尋ねてくる三上に、俺は笑って返した。


「いや、俺んちにあるのでたぶんいける。もし足りないもんあっても、百均で買ってくるから大丈夫。任せとけ」






 *






 ゆっくりと意識が浮上する。カーテンの隙間からは日が差し込んでいて、既に太陽が昇っていることがわかった。

 寝ぼけ眼で枕元を見、霞んだ視界が馴染みの目覚まし時計を捉える。よく見えないけど、短針は二時を超えた位を指してる。あれ、二時過ぎでもうこんな明るい? いつ日が出たんだ。

 つらつらと取り留めもないことを考えながら起き上がる。時間的に二度寝してもいいんだけど、何故か寝すぎた後のような、鈍い頭痛がした。

 風邪でも引いたかな。少し水を飲みにいくか。


 突然だが、俺は寝起きが悪い。

 起きてから本当に目が覚めるまでに結構な時間がかかる。だから、起きた時に覚えたわずかな違和感も、初めはそんなに気にならなかった。

 寝巻きのまま、いつものようにベッドを降りて、寝ぼけ眼で部屋を出る。やはり廊下は日中のように明るい。半分閉じかけた目で廊下を歩いていると、突き当たりのドアにぶつかった。


「ん?」


 階段に向かっていた筈なんだけど。こっちは反対側だ。

 訝しく思いながら踵を返して、違和感を覚えた。なんか変だ。なんか、いつもと違う。

 ぼんやりと目を開けて廊下を眺める。何かが明確に違うのに、寝起きで頭が回らない。

 そのまま数秒廊下を眺めて、やっとわかった。

 ここから見るとドアは左手側に並ぶはずなのに、今見えてるのは右手側。左右逆だ。


「あー、まだ夢見てんのか」


 そういえば昨日は三上の家に泊まったんだった。自分の家で目が覚めるわけが無い。

 そう結論が出ると、この夢を楽しもうという気分になってきた。明晰夢を見ることはあまりない。見たら得。とことん浸るのが俺の信条。


 階段を降りてリビングに入り、辺りを見渡す。

 おおすげえ。全部逆さまだ。

 家の間取りは左右逆で、時計の文字盤も逆。秒針が反時計回りに回っているのが面白い。

 続くダイニングのテーブルに、ラップのかけられた朝食が置いてあった。母さんはもう仕事に行ったらしい。そんな時間? と思い改めて時計を見るともう二時だった。……あ、左右逆だから十時か。ややこしい。


 夢のせいかあまり腹は減ってないが、あるというなら食べとこう。椅子に座ってラップを取ると、テレビをつける。そこに映るテロップも、左の方から流れてくる。文字は全部鏡文字。読めなくはないけど、ちょっと読みにくいな。


『次のニュースです』


 その言葉とともに映し出された映像に、箸が止まった。予想外のものに、目が釘付けになる。

 画面の中で、人がぽつんと宙に浮かんでいた。


「おお」


 なに、マジック? ニュースで? どうなってんの?

 若干の興奮を覚えながらテレビの音量をあげる。反転した文字を読むより、声の方がわかりやすい。

 そのまま聞いていれば、何やら異能というものがあるらしかった。それによる人命救助のニュースと、テロのニュースと、危険区域には近寄らないようにという注意喚起とか、その他諸々。

 なんだ、異能バトルものでも始まるのか? 設定てんこ盛りかよ。欲張りすぎだろ俺の夢。

 やべぇ。こんな夢見れるとか、実は天才なのかも。漫画を描いたら売れるだろうか。いや、絵描けねぇし、小説とかか。でも文も書けねぇや。


 ワクワクしながら勢いつけて立ち上がる。他にもなんか面白い設定が眠っていたりするかもしれない。とりあえず家中漁ってみよう。部屋の漫画が魔術の本に変わってたりしねぇかな。いや、異能あるなら魔術はねぇか。被るな。

 いそいそとするあまり身体がテーブルにぶつかる。その時視界の隅で何かが大きく揺れた気がして、反射的にそちらを向き、固まった。


 適当にテーブルの端に置いといたリモコンが、大きく傾き、その横に落ちていく。棒立ちになった俺の目の前で、そのまま勢いつけて落下して──。

 俺のつま先にクリーンヒットした。


「~~っいってぇ!」


 あまりの激痛に蹲って悶絶する。なんならちょっと涙でた。

 タンスに小指といい勝負だ。つーか指全部に衝撃いった。体感はタンスよりやベぇ。

 見ると見事に赤くなっている。そらそうだ。こんなに痛いんだから当然、


「……あ、れ」


 痛い。痛い?

 頭がやけに冴えている。今の痛みで眠気は全部吹っ飛んだ。そうだ、違う、これは夢で感じる曖昧な痛みなんかじゃない。

 現実の、痛みだ。

 あれ、でも、現実なら、なんで。


 思い至った途端、ぶわっと、全身の毛穴から汗が吹き出した気がした。

 これ、夢じゃない。じゃあ今までのはなんだ。全部が俺の勘違いか? 寝ぼけて見間違えてただけ?

 恐る恐る顔を上げた先のテレビでは、変わらず鏡文字が踊っていた。時計は反時計回りに動いていて、部屋の間取りは左右逆。見間違えではない。


 足はまだじんじんと痛みの余韻を残している。それを信じたくなくて頬を抓ってみると、案の定痛かった。

 何故かどっちも、嘘じゃない。そんなわけが無い。

 何もかもが、おかしい。


「……あ、スマホ! 連絡!」


 そうだ、そうだよ。俺は三上の家で寝てたはずだ。最後に会ったのはあの二人だった。

 思いついて部屋に引き返す。連絡を取ろう。どうなったのか確認したい。なんで俺は家に帰ってるんだ。


『鏡に向かって話しかけると、精神崩壊する』


 昨日笑いながら言った自分の言葉が、頭に張り付いて離れない。

 もしかして狂ってないよな。そんな訳ないよな。でも、あんなことをしたんだから、俺は。


 あんなこと……?

 ふと引っかかった言葉の出来事を、思い返そうとして愕然とする。何故か、その部分の記憶が無い。

 いや、待て。覚えてる。午前零時になったのは覚えてるんだ。合わせ鏡はした。確かにした。


 事前に時報を聞きながら、部屋の時計を秒単位で合わせた。それを三人で見ながら、零時になるのをドキドキしながら待っていた。

 だけどその直前、十一時五十分を過ぎた位で、一番楽しみにしていた三上が真っ青になって。夕飯が当たったと、謝りながらトイレに篭って。羽柴は延期だな、とちょっと安心しながら笑って。でも、俺はここまで来たらどうしてもやりたくて。

 ドア越しに三上に話しかけて確認してから、嫌そうな羽柴を引き連れて、合わせ鏡をした。

 したはずだ。


 だけど、その最中のことを覚えていない。なんで、覚えてないんだ。

 覚えていないことが、逆に異様だ。


 部屋のカーテンを全開にして、いつもスマホを置いている目覚まし時計の隣りを見る。

 ない。

 息が浅くなる。顔を顰めて目線をさ迷わせた。なんでないんだ。どこにいった。

 いや、待て。前同じようなことがあった時は、寝相のせいでベッドの下に転がっていた。探せばあるはず。落ち着け。

 落ち着け。


 床に頬をつけて下を覗き込む。ない。綿毛布を引き剥がして振ってみる。ない。マットレスの上にもない。勢いをつけてマットレスをベッドから下ろした。ない。

 ない。

 早く、早く、早く。

 早く、誰でもいいから声が聞きたい。

 否定してくれ。頼むから。証明してくれ。俺が正気だと。


 気づいたら、部屋の中はめちゃくちゃだった。なのに、いくら探しても、スマホが見つからない。


「あ」


 半狂乱になっていた思考に、ふとひとつの可能性が浮かぶ。最後に使ったのは三上の家。寝たのもあの家のはず。なら、三上の家に置いてきたんだ。

 家に取りに行けば、いや、あいつも羽柴も補習組か。なら学校に行けば会えるか。行けば。


 心臓がうるさい。果たして学校に行っても平気なのか。ここはどこだ。俺はなんだ。


『合わせ鏡を覗いた先は、異界に通じている』


 俺はそれを覗いたのだろうか。だとしたら、ここは。脳裏で閃いた非現実的な可能性に、鼓動が早くなっていくのを感じる。


 狂っているのは俺?

 それとも、世界?


 窓を開けると外から温い風が吹き込んでくる。

 外に見えた景色は、やはりいつもとは真逆だった。


「……大丈夫だ」


 小さく呟いてから、踵を返す。クローゼットを開けて、そこから制服を取り出した。

 大丈夫、大丈夫、大丈夫。

 言い聞かせるように、何度も呟く。このまま一人閉じこもっていたら、本当に狂ってしまいそうだった。


 何もかもがおかしく見えても、あの二人は大丈夫だ。親友だから。直前まで一緒にいたし、もしかしたら何か知っているかもしれない。教えて貰えるかもしれない。

 会う事が出来れば。それさえ叶えば、この不安はマシになる気がする。

 ワイシャツに袖を通しながら、悪い予感を振り払うように、もう一度大丈夫と呟いた。


 だけど願わくば、それまでにこの悪い夢から覚めてくれた方が、嬉しい。

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