第4話 交差路、暗転
脳が認識を拒んでいた。
画面越しの映像を見ているようだった。
実感の伴わない情景が、目を上滑りしていく。トイカメラで撮しとったようなちゃちな視界。
思考を放棄した脳とは裏腹に、備わった感覚器が現実を叩きつけてくる。
生臭い粘り着くようなような臭い。頬にかかった液体の温かさ。服が濡れて張り付く不快感。
足元に触れた、服越しの熱。
消えていく、
見開かれて赤が散った、羽柴の首が、こちらを見ている。
ガラス玉の様に無機質な目が、どこかを見ている。
嘘だ。
夢だ。
これは、悪い夢。
「邪魔ですどいて!」
鋭い声が聞こえたかと思えば、間髪入れず横から衝撃が来た。
何も考えられなかった。地面に叩きつけられてから初めて、ふっ飛ばされたのだと自覚した。打った場所が痛いのに、どこか鈍い。何かが。全てが。
呻きながら身を起こそうとする視界を、影が横切っていく。反射的にそれに目を向けて、また固まる。
首が、転がってく。手の届かない所へ。
羽柴の、首が。
「
距離のある所から高い声で怒号が響く。呆然と視線を向けた先には、顔を仮面で覆い上から黒いローブを纏った、冗談のような格好をしたチビがいた。
死神。とっさにそうとしか思い浮かばなかった。
身の丈に合わない大きな鎌が振り上げられ、黒光りする刃が空を裂く。山のように積み上がった茶色の群れが、鎌に触れて散っていく。
切られたものはどろりと溶けて、そうでないものは風圧で剥がれ落ちて。──そうして半分以上吹き飛んだ山の一番下に、茶色でなはない何かが覗いている。
茶色が群がるようにしていた、塊。
「……あ」
見えたそれは、首をなくして倒れた、身体で。
茶色が蹴散らされた後のそれは、──羽柴の、身体は──穴だらけになって、食い散らかされていた。
胃液がせり上がる。気づけばその場に、胃の中をぶちまけていた。蹲りながら
気持ちが悪い。血の気が引く。酸素が足りない。なのに、遠い。何もかもが遠くて、何も分からない。
ただ、脳裏でぐちゃぐちゃになった赤い塊が、ぐるぐると回っている。
「くそう、今回もはずれですか! 毎度玩具ばかりぶん投げて、自分は高みの見物とか! ほんと性格最悪ですね!」
遠くで誰かが、何かを言っている。でも、内容が入ってこない。分からない。
分からない。
「また誰か食べられてるじゃないですか。もうほんと、これだから土塊は嫌なんです放置も出来ないし! いちいち面倒くさいなもう!」
近くで何かが落ちるような音がした。
左の方だった。
口の端から垂れる唾液を拭う気力もなく、緩慢に頭を上げ、その方向に視線を向けて。
「…………え」
飛ばされてきた茶色のものが、そこにあった。
五つの突起が生えたような形状が、泥人形のように見える。ぎこちない動きで向かってくる動きは、まるで四足で歩いているようで。
こちらによろよろと這って来る茶色の軌道が、わずかに逸れる。その先を見て、はっとした。違う。あれの目当ては俺じゃない。
俺と茶色の間。あの茶色のすぐ目の前にあるのは。
一つ転がった、羽柴の首。
「やめろ……!」
気づけば声を上げていた。ふらつく足で駆け出す。茶色いものの前に滑り込んで落ちた生首を拾いあげれば、途端にそれは牙を向いた。
「やめろ、だめだ、食うな」
食うな。これは、これだけは。
左足に痛みが走る。茶色がくっついている。反対の足を浮かせて蹴る。思いの外あっさりと外れた。
「っ、食うなよ……!」
地面に落ちたそれを何度も何度も踏みつければ、どろりと形が溶けて、後にはただの湿った土だけが残っていた。
荒い息をつきながら、両腕の中の首を抱え直す。
首に対する嫌悪感や恐怖心は、不思議となかった。ただ、これをこのまま放っておいたら、あの身体のように食らい尽くされるということだけは、わかっていた。
ここに居たら、食われる。駄目だ。
逃げないと。
素早く巡らせた視線が、すぐ側の細い路地に辿り着く。
羽柴の首を胸に抱え込みながら、地面を蹴る。
傷が浅いのか、それとも感覚が麻痺してるのか。左足の痛みは、走れない程ではなかった。
*
どこをどう走ったのか、分からない。
足の傷が熱を持つ。ふらつく足がもつれる。
肩から路地の壁にぶつかって、衝撃で手元のものを落とした。
壁に凭れながら、肩で息をする。滑り落ちる汗をそのままに、肩越しに後ろを振り返る。誰も居ない。音もしない。追われてはいない。
確認すると気が抜けて、ずるずるとその場に座り込んだ。
「……ッ、は、っ」
息が、苦しい。心臓がうるさい。
でも、早く立たないと。いつまでもこんな所に居る訳にはいかない。
逃げないと。もっと遠くへ。隠れられる場所へ。安全な所へ。
──それ、どこだよ。
思い至ると、どうしようもなさに笑えてくる。
ねぇよ。そんなとこ、どこにも。
だって俺はまだ、何も知らないんだから。これから、知ろうとしているとこだったんだから。……羽柴と、一緒に。
俯いた視界の端に、何かの塊が映り込んでいる。辿るように視線を上げて、見えたものに顔を歪めた。
先程落とした首は転がって向きを変え、生気を失った瞳が、虚空を見つめている。
「は、しば、はしば、ごめん」
なんで、こんなことになってんだろう。
「ごめん、ごめん、ごめ、」
頭から被った返り血で、纏っている自分の服は、上から下まで真っ赤だった。全身血臭に包まれて、否が応でも先程の光景が、何度も何度もリフレインする。
嘔吐く。吐くものはもう何も無い。酸っぱい胃酸だけが喉を焼いて、口内に苦味が広がる。
この世界がどこかおかしいことは、わかっていたはずだった。だけど、ここまでだなんて思ってなかった。
だいぶ楽観してたんだ。最後にはきっと、どうにかなるはずだって。どうにか、無事に帰れるはずだって。
二人して無事を確かめたのはまだ、今日の午前中のことだ。ちょっと前まで、ファミレスであれこれ話しながら、だらだらと過ごしていたのに。それが、今はなんで、こんな。
あそこで居座ってたのが良くなかったのか。さっさと出ていれば、変なものに出くわすことも無くて──
『本当、羽柴が居てくれて良かったよ。一人だったら心折れてたわ』
「……はは、」
芋づる式に自分の発言を思い出して、乾いた笑いしか出てこない。
違う、馬鹿か。何勘違いしてんだ。
居てくれて良かった、じゃねぇよ。
合わせ鏡なんて、はなから羽柴はやりたくなさそうだった。それを無理やり一緒にして、巻き込んだのは俺だ。
羽柴をこの世界に引き込んだのは俺だ。
殺したのは、俺だ。
全部、俺のせいだ。
「──ごめん、羽柴」
なのになんで、俺だけがまだ生きてるんだ。
目頭が熱くなって、俯いた視線の先に雫が垂れる。
鼻を啜って、血で汚れたままの手で、目元を乱雑に拭う。
ふらつく足取りで立ち上がって、羽柴の首を拾いあげると、再び胸に抱えた。
どうすればいいのか、分からない。頭が回らない。
視線を上げて、路地の先に見える日なたの光を、ぼんやりと眺める。
俺は、何をすべきなんだろう。
ふらふらとしながら歩く。今までいた路地を抜ける。顔を上げて周りを見れば、やけに見覚えのある景色だった。
ああ、この道、知ってる。俺んちの近くだ。
踏み出そうとした足を、少しの逡巡の後に引っ込めて、逆側へ向ける。
そういえばこの世界の道は、全部逆さまだった。
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