第5話 知らない人
「大地? え、何どうしたのよ、そんな血塗れになって! 怪我したの!?」
門をくぐって血塗れの手で玄関のドアに手を伸ばすと、横から声をかけられた。
横目で見ると、庭先の物干しの前で、母さんが洗濯物を片手に目を見開いている。
まだ、帰ってくる時間じゃないと思ってたんだけど。なんで居るんだろう。
俺の時間感覚が、いつの間にかずれてるだけだろうか。
「……別に」
「病院行く? あ、それとももう……って、それ、なに?」
手にしていた洗濯物を籠に突っ込んで、母さんが近くに寄ってくる。
不思議そうな顔で向けられた視線は、俺の腕の中を示している。横からだから、良く見えていなかったのだろう。なのに、あ、と思った時にはすぐ傍まで来ていて、腕の中を覗き込まれていた。
見られた。
「……それ」
驚愕に見開かれた目。そうなるとは思っていた。思っては、いたけど。その後何を思ったのか、手が伸びてくる。俺の手元に。
それを見た途端、その手を弾き落としていた。
「さわんな!」
頭の中で、交差路の情景が繰り返される。
取り上げられたら、またあの茶色の中に放り込まれるような、強迫観念があった。そしたら食われる。今度こそ、跡形もなく、食われる。
「っ、さわんなよ! 友達、なんだ。ともだちだったんだ。 俺が、俺が巻き込まなきゃ、」
俺に付き合わなかったら、今も生きていたはずなのに。
こんな場所に来ることも無く、元の世界で、笑ってられたはずなんだ。なのに、俺が。
「俺の、せいで、死んだんだ」
目頭がまた熱くなってきて、唇を引き結ぶ。浅く呼吸を繰り返して、何とか流れ出てこないように、堪える。
いいから、ちょっとでいいから、放っといてくれ。
いつまでも抱えているわけじゃない。手放さないとは言っていない。ただ、今はまだ、あの茶色いやつが消えていないと確信できない。死神のような奴が容易く蹴散らしていたから、時間が経てば一蹴されるとは思う。それでも、まだ、もうちょっとだけ。
これを食われる訳には、いかないんだ。
食われたら、本当に何も無くなってしまう。羽柴が居たという痕跡が、全部消えてしまう。
頭の上に何かが乗って、肩が跳ねる。そのまま、緩く頭を撫でられるのを感じた。
これ、手か。
髪に染み付いた固まりかけの血が、時々指に引っかかる。それが頭皮を引っ張って、鈍く痛む。
息を吐き出す。柔らかい手つきに、幼い頃の事を思い出していた。何かあると、よくこうやって、無言で撫でてくれたっけ。
懐かしい感覚に、徐々に身体の力が抜けていく。
「埋めてあげよう?」
──なのに、かけられた言葉に、再び固まった。
今、なんて。埋める?
呆然と見上げた先には、優しく微笑む顔があった。その表情に、背筋が凍る。
「なん、で」
漏れ出た疑問に、首を傾げられる。
「だってそのままだと、可哀想でしょう?」
息が、詰まった。
なんで。そんな、当たり前のように。何も聞かずに。
犬猫でも埋めるような気軽さで、言葉をかける?
俺が抱えてんのは人の首だ。生首だ。傍から見てどう思われるかなんて分かってる。気味悪がられたって仕方がない。
例え相手が俺の母親で、もし気が狂った息子を宥めすかせようと思っているのだとしても。普通かける言葉は、それじゃ、ねぇだろ。そんな対応だけは、ありえない。
人の首だぞ?
「大地?」
足が下がる。頭に置かれた手を振り払う。困ったように笑うその顔を、凝視する。
誰だ。これ、誰だよ。
姿形はよく馴染んだものなのに。俺の母さんと一緒なのに。なにか得体のしれないもののようだった。
ああ、そうだ。何故かすっぱ抜けていた事実を、実感を伴って叩きつけられる。
この世界は、初めからおかしいんだ。
「っ、」
もう、限界だった。
目の前の身体を押しのけて、玄関の扉を開ける。土足のまま踏み入ると階段を駆け上がり、自分の部屋に飛び込んだ。
入ったそばからドアを閉めて、すぐさま目に付いた鍵をかける。それでもまだ落ち着かなくて、抱えた首をいったん置いた。朝に引きずり落としたままのマットレスをずらして、それをドアの前に立てかける。掌から移った血が触れた箇所に染み付いて、赤く色を変えていた。
そのままマットレスの横に移動すると、壁に背をつけながら、ずるずると座り込んだ。
耳を澄ませても、足音は特に聞こえない。酷く、静かだ。
視界に広がる自分の部屋は、朝にスマホを探した後のまま、微妙な感じに荒れている。
「……はは、何やってんだ、俺」
血塗れの両手で顔を覆う。
こんな所に閉じこもってどうすんだよ。
でもどうせ、どこ行っても安全かどうかなんて分からない。なら、鍵のかかるとこに居られるだけマシ。だよな。それでいいんだよな。いいはず、だよな。
知らねぇよ、そんなの。
もうなんも、分かんねぇよ。
溢れた涙が、押し付けた手から漏れていく。啜り泣く音が、無様に部屋に反響して耳に入ってくる。
なんで泣いてんだ、俺。そんな資格、あんのか。
俺は、俺が。全部、俺の。
「……ごめんな、羽柴」
顔を覆ったまま、傍らに置いた首に謝った。
少しして、ふと顔をあげる。何故か室内に、人の気配を感じた気がした。いや、気配といったらおかしいか。人が居るような感じはしない。ただ、なんというか。
誰かに見られてる、ような。
泣きすぎて朦朧とした思考のまま、緩慢に頭を巡らせる。荒れた室内は、少しいつもとは違って見える。ただ何か、それだけでは無い違和感があった。
もう一度視線を一周させて、ふと部屋の隅にあるものに目が止まった。
あんな大きな姿見、俺の部屋にあったっけ。なんとはなしに見つめて、やっと気づいて自嘲を零す。
ああ、そうか。あれだ。違和感の正体。
ふらりと立ち上がって、鏡に近づいていく。だけど目の前の鏡の中の俺は、突っ立ったまま、動く気配がない。
俺は全身血塗れなのに、鏡越しの俺は綺麗なままだった。綺麗なまま、無表情でこちらを見つめ返していた。
「……本当に、俺、おかしくなってんのかな」
右手を上げて鏡に触れる。血と涙が混ざった薄い赤が、鏡面を汚す。
だけど、鏡の中の俺は微動だにせず、ただじっとこちらを凝視しているだけだ。
足から力が抜けて、そのままゆっくりと膝をつく。鏡についたままの手が、同じように下に滑る。
薄紅が線を描き、真っ直ぐに跡を残していく。
鏡の中の俺は、変わらず立ったまま。
やっぱり、狂っているのは俺の方なのかもしれない。
人の首は持ち歩くし。
鏡の中の自分が、別人のように見えるし。
「……ドッペルゲンガー、見ると死ぬんだっけ」
鏡像を見上げながら、ぼんやりと呟く。
そいつは何も答えない。ただ、色のない瞳で、俺を見下ろしている。
「俺、しぬ?」
呟いてから、なんの恐怖心も湧かないことに気づいて、自嘲する。
「しぬ……死んだ方が、いいのかもな」
こんな所で一人生きていたって、どうにもならない。
親友の命を奪っておいて、のうのうと生きていたって、仕方ない。
「お前が俺を罰してくれんの……?」
うわ言のように零すと、不意に目の前の鏡像が踵を返した。
突然動き出した様子に瞬いて、ぼうとその動きを目で追う。
後ろにある机に近づいたその鏡像は、備え付けの本棚の中から徐ろに一冊のノートを手にすると、ペン立てからボールペンを抜いて戻ってくる。
目の前で仁王立ちした鏡像は、ノートを開いてそこにボールペンを走らせた。
その後突きつけられた紙面には、反転された文字が綴られていた。
『筆を取れ』
「…………な、に?」
理解できない文言に呆然と呟く。
口を開けて見返していると、わずかに目を細めた鏡像がまたノートを裏返し、その上にボールペンを走らせていく。
再び突きつけられたノートには、別の文が書き足されていた。
『元の世界に戻りたい。協力しろ』
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