第6話 鏡像のたわごと
元の世界。書かれた文の一点を凝視する。
冷や水を浴びせられた気分だった。ドロドロとしていた頭の一部が、急激に覚めていく。同時に濁ったままの大半と混ざり合って、形をなくしていく。
なんだ、これ。こいつ、何。
「どういう、ことだよ」
ノートから顔を上げながら、頭上の鏡像に問いかける。見上げた鏡像は口を閉じたまま、何も答える気配がない。
『元の世界』って、『戻る』って、何。なんで幻覚が、突然そんなこと言い出すんだよ。
「……お前は、俺の幻覚じゃねえの?」
目を眇めた鏡像が、片手でノートの裏を軽く叩いた。
それともこれも含めて、全部俺の妄想なのか?
「なに、お前、何なの」
混乱する胸中を、考える余裕もなくただ吐き出す。しかし鏡像は無表情のまま、返答の意志を示さない。
「っ、答えろよ!」
一向に口を開く気配のない鏡像に焦れて、鏡面に拳を叩きつける。振動が伝い、姿見のフレームが軋んだ音を立てた。
鏡の中で、鏡像が少し眉根を寄せながら、またノートを叩く。
縋り付きたかったのかもしれない。わずかにぶら下げられた可能性に。
この左右が反転した、鏡合わせのような世界に俺は居て。鏡の向こうのこいつが、『元の世界』と言った、その事実に。
この世界自体おかしいのだから、もう、何が起こったって変じゃない。
「なあ、頼むから、なんか喋って……なんでも、いいから」
請うように見上げる。鏡像は少しの間静観していた。しかし俺が動かないままでいるのを見ると、ため息をつくような仕草をする。
気だるげな視線を向けながら、億劫そうに、ゆっくりと口が開いていく。
「︎︎ 」
音は聞こえない。ただ口だけが動いている。
一瞬呆然とした後に、次第に苛立ちが募り始めるのを感じた。なんだ、ふざけてんのか。ちゃんと喋れよ。
睨みつけると、鏡像がまたノートを叩く。その開いたページを掲げて、先程書かれた文字を指さした。
『筆を取れ』
「……」
一呼吸の後に、理解する。
声は、鏡の向こうには届かないのだ。
立ち上がっても、先程のように力が抜けることはもうなかった。そのまま後ろに置かれている机へ歩みを進める。鏡像と同じようにノートとペンを取り、適当に白紙のページを開いて、ペンを走らせていく。
『お前は誰だ』
戻って突き出した文字を眺めたそいつは、再びノートに何かを書きつけると、ひっくり返して紙面を見せてきた。
『市ヶ谷大地』
鏡文字で書かれた自分の名前に、つかの間思考が止まる。
『それは、俺だ』
『だろうな』
『どういう意味だよ』
『そっちの世界は、どんな感じだ』
書かれた文字を凝視して、そのまま鏡像に視線をずらす。その無表情を睨みつけると、鏡像は俺を見て再び文字を書き付ける。
『こっちは、馬鹿みたいに平和だよ』
わざとらしく書かれた文面に唇を引き結ぶ。
やっぱ、こいつ。
『お前、ここの世界の俺か』
ノートを目の前に突き出すと、そいつは『たぶんな』とやけに曖昧な返答を寄越した。
なんだよ、たぶんって。はっきりしろよ。
『お前がなんかしたんじゃねぇのかよ』
『知らない。何かしたのは、お前の方じゃないのか』
それを読んだ時、ペンを握っていたままの手が、動かなくなるのを感じた。
返す言葉がなかった。
昨日行った合わせ鏡に、少し前に出くわした凶行、羽柴の食われた身体。色んなものが脳裏をよぎって、目を伏せる。昨日から続く原因も結果も、全部俺の行動が発端だ。
不意に理解した。俺が今感じている苛立ちの大半は、単なる八つ当たりに過ぎないのだと。
視界の隅に動くものが見えた気がして、伏せていた視線を上げる。鏡像がノックをするように軽く鏡を叩いていた。
俺が気づいたことを確認した鏡像は、手を止めてノートを掲げてくる。
『筆談クソ面倒。お前、母さんの所から手鏡持ってきて』
「……なんで」
呟く。文字にはしなかったが、鏡像は表情から察したようだった。しかし返されるのは『いいから持ってこい』という文面だけで、なんの説明にもなっていない。
「部屋から、出たくない」
後ろのドアに視線を投げて、首を振る。俺の目線を追った鏡像は少し目を細めた。そして小さく口を動かすと、そのまま少し目を伏せる。
何かを考えているように見えた。間を開けて突き出されたノートには、以下のように記されていた。
『机の引き出しにのどこかに、鏡が入っていた気がする。それ探して待ってろ。少し席外す』
*
見つけた鏡は女児が持っていそうな、ファンシーなクマの絵がプリントされていた。それを見て、思わず微妙な顔になる。似合わない。なんであいつ、こんなん持ってんだよ。
四角い折りたたみ式のそれは思っていたより大きく、頭がすっぽり映り込みそうなくらいだった。
それを持って姿見の前に座り込み、どこかに行った鏡像を待つ。何気なく下を向いた視界にスニーカーを履いたままの足が映り、未だ土足だったことに気がついた。
振り返って床を見ると、あちこちにうっすらと靴跡が残っていて、ばつが悪くなる。スニーカーを脱いで端に置き、スラックスの裾を捲りあげてみると、左足の脛に何かの噛み跡のような傷ができていた。範囲は狭く血は固まっているが、熱を持っていてズキズキと痛む。
結局、あれはなんだったんだろう。ぼんやりと考え出した頃に、鏡像が戻ってきた。手には大きめの丸い手鏡を持っている。
『鏡合わせて、間にスマホ置け。その後スピーカー』
もはや文字を起こすのすら億劫そうに、前振りもなくそれだけを見せられる。さすがに言い返そうとペンを取るが、少し目を離した隙に、何故か鏡像は鏡の中から姿を消していた。
なんなんだよ。少しの反発は覚えていたが、俺は渋々鏡に手を伸ばした。
合わせ鏡なんて、出来れば二度としたくない。でも今は、あの鏡像に縋るより他に道はなかった。
それ以外にどうすればいいのか、分からなかった。
間にスマホを置くってことは、床スレスレでやった方がいいのか。その後スピーカー。スピーカーって? どうしろってんだよ。
考えながら言う通りに配置していると、不意に目の前で着信が鳴って肩が跳ねる。
見下ろした画面。受信者を確認して、表示された文字列に目が離せなくなる。
文字化けしていた。
躊躇したのは一瞬だけだ。
『聞こえるか』
応答とついでにスピーカーのマークをタップすると、いくらもしないうちに声が響いた。
後ろにテレビの砂嵐のような雑音が混じっているものの、思ったよりはっきりと聞こえる。
「……お前、俺か」
『そうだ。オレはお前でお前はオレ。──初めまして、市ヶ谷大地。かく言うオレも市ヶ谷大地だ』
機械を通した誰かの声は、まるで聞き覚えがない。電話越しの自分の声なんて、普通は聞く機会もないだろうから当然か。
ちらりと姿見に視線を向ける。鏡には何も写っていなかった。俺も、
ただ下の方で行われている限られた範囲の合わせ鏡が、スマホだけを映してどこまでも続いている。
「なんで、こんなん知ってんの。なんなんだよお前」
『別に。オレはただの一般市民だ。たまたま思いついたことを実験したら成功しただけ。無理だったらかったるい筆談に戻らきゃいけないから良かった』
「……よく言う。だいたいどうやったんだよ。なんでお前と電話繋がってんだ」
『それ、今どうしても知りたい情報か?』
言われて口を噤む。
鏡像の声は酷く平坦なものだった。感情の起伏を感じないような、無機質で淡々とした声音。鏡越しに顔を見ていた方がまだ感情の判断がつく。
発音が流暢な機械音のようだ。電話越しのせいで、余計にそう感じるのかもしれない。
『細かいことは後でもいい。どうせ通話一回じゃどうにもならない。今はとにかく、現状を把握しておきたい』
一理ある。そう思って何も返せずにいたのに、次に投下されたのは爆弾だった。
『そっちにあった首、羽柴啓介だろ』
「……は、おま、なんで」
『さっき見えた』
淡々と返す声に、胸がざわつく。違う、なんで今、そんなこと聞くんだ。
『いつ頃死んだんだ』
「……っ、」
『言え。情報が欲しい』
「ッそれは、今必要な情報なのかよ!」
堪らなくなって声を上げると、情緒不安定かよ、と呟くように聞こえてくる。何考えてるか分からない声で。
『こっちの羽柴も、死んだんだよ』
そんな声で突然ぶち込まれた事実に、息を飲む。
羽柴。そうだ。もう一人の俺がこんな風に居るなら、羽柴も、居るはずで。
でも、死んだのか。
『トラックに撥ねられた。即死。時間は……四時過ぎ位だったな』
聞こえた情報を理解した時、ぞわりと背筋が粟立った。
『で、そっちは。いつ頃死んだ?』
「……四時、過ぎ」
ファミレスを出る前に時計を確認した時、丁度そのくらいの時間だった。
奇妙な符号の一致は、一体何を意味しているんだ。
『都市伝説、ね』
「……お前、なんか知ってんのか」
呟く鏡像の声に、横から割り込む。
「知ってるから、そんなこと聞いてきたんだろ」
『……知っていると言えば知っているし、知らないと言えば知らない』
「はぐらかすな」
『予想はできるけど、確信は持てない』
「それでいいから聞かせろ!」
食い気味に言うと、小さなため息が聞こえた。
「言えよ。お前、最初俺に協力しろって書いて見せてきたろ。して欲しいなら、情報くらい共有しろ」
『……それもそうか』
納得したような呟きの後に、少しの間を挟んで、また声が聞こえてくる。
『話が進まないから、余計な口は出すなよ。お前が何をしたかは、こっちで聞いたからだいたい知ってる。合わせ鏡したんだろ、お前』
「……した、けど」
聞いたって、誰にだよ。浮かんだ疑問は、言われた通りいったんしまった。
『お前がした合わせ鏡みたいに、
「……なに」
『世界には表と裏がある』
聞こえた言葉に、目を眇める。
鏡合わせの反転した世界。表と裏。
『そこに生きる人間は、それぞれに同じように存在し、同じ姿、同じ魂を持つが故に──命が繋がっている』
淡々とした声には、奇妙な説得力があった。たとえ本人が確信がないと明言していても、本当のように聞こえた。
『信じるも信じないも、お前の好きにしたらいい。信憑性があると言っても、はっきり証明されたわけじゃない。今の所は都市伝説。普通に考えれば妄言だ。だけど羽柴の件考えたら、そう一概に切り捨てられないのは確か。……偶然で片付けるには出来すぎてるだろ』
「そう、だけど」
でもそれが本当なら、俺とこいつは。
『つまり、オレとお前は、ひとつの命を共有しているわけだ。どちらかが死ねば両方終わる。オレたちは運命共同体なんだよ』
俺の思考に被せるように、鏡像が言い切った。
『全部信じられなくても、そこだけは肝に銘じておけ。お前が信じないでヘマして、あげく道連れなんてごめんだ』
「……信じるよ」
こんな世界にいて、こんな体験をしといて、今更都市伝説だ何だと不信を決め込む方が馬鹿げてる。
俺の命だけじゃ済まないのなら、なおさら。
『おそらくオレ達が入れ替わったのは、お前の合わせ鏡のせいだけじゃない。それだけなら、こんな事象はもっとありふれていていい筈だ。正直戻る方法はまだ分かっていない』
だから、と鏡像は少し語気を強めた。
『その時が来るまでは、狂気に呑まれるな。自我を保て。一度見失ったら、その先何も出来なくなる』
スマホから漏れでる声が、ほんの少しだけ、色を持った気がした。
だけどあまりにわずかな違いで、そこに含まれるのがどんな感情なのかは、よく分からなかった。
『お前の世界は、ここにある。ちゃんとあるから。何があっても、どんな目にあっても、お前のままでいろ。──絶対、死ぬなよ』
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