形代人形 壱



 その人形は、柔らかな日差しを浴びて、穏やかに昼寝でもしているようだった。

 軽く瞑った目に、うっすらと微笑む唇。どこまでも穏やかに流れる刻の中で、何かを待っているような気がした。

 ただすべてを受け入れて。そこで彼女は。



 近頃の近藤家といえば、あまり噂されるにもよろしくない、些細な事から大事まで、とかく不幸が重なった。

 ―――良くない事は重なるって言うけれど。

 長男の幸秀とその妻の友恵は不仲が続き、その子供等は成人してから家を出ていっこうに帰ってこない。

 飼い犬は原因不明の病気で泡をふいて死に、次男の勝久は五年も行方知れず。

 近藤家の脇道では猫が死に、近所では祟りだと噂され、長女の幸子も自分の家庭が手一杯で実家に戻る暇もなく、次女の八重子はいまだ独り身でやはり家に寄り付かない。

 そして、ついには年老いた母の妙子が倒れ、意識不明のままとなってしまった。

 不吉とまではいかなくとも、あまり気持ちの良い気運ではない。まるで目に見えない―そう祟りのような―何かに縛られているかのような、不幸続きだった。

 ―――旦那さんの秀久さんは、随分できたひとだったってきくけどねぇ。恨みでもかっていたのかね。ああ、でも亡くなったのはけっこう前だったっけ。確か、そう八年前。

 そう、八年前。

(お祖父ちゃんが死んだあの時、お祖母ちゃんは泣かなかった)

 目を瞑ったままの祖母、妙子の顔を眺めながら、ふと清美はそんな事を思い出した。

 二月のごうごうと風の強い日で、小さな隙間から冷気が忍び込んでくるような夜に、祖父の秀久は息を引き取った。

 清美が小学三年生、九歳の頃のことだったが、今でも葬式の黒々しい記憶ははっきりと覚えている。

 空気と一緒に、冷たい何かが家に入り込んでくるかのようだった。

(あの時、お母さんも、伯父さん達も泣いていたけれど、お祖母ちゃんだけは泣かなかった)

 清美も泣いたけれど、祖父の死が悲しかっただけではなかった。

 ただただ、怖かった。闇がうごめくようなあの家が怖くて、怖くて。

 通夜の晩から葬式が終わるまで、隠れるように小さくなって泣いていた。

 その中で――――。

(お祖母ちゃんは、あの時)

 食い入るように祖母の妙子は秀久の死に顔を見つめていた。強く禍々しい光をその目に湛えて。

 たぶん、清美の他に気がついた者は誰もいなかっただろうけれど。

(お祖母ちゃんは何を思ってたんだろう)

 その姿に震え上がってしまった自分を思い出して、清美は顔を歪めた。

「お祖母ちゃんは―――――お祖父ちゃんを憎んでたの?」

 意識の戻らない祖母に、清美はそっと問いかける。

 目を瞑ったままの彼女は―当たり前だが―黙ったまま、答えは分からなかった。

 ―――――――この時は、まだ。



 清美の名字は近藤ではない。坂下清美という。

 近藤家の長女である幸子が結婚して坂下となり、その子供が清美というわけで。もちろん清美も母の実家であるこの古々しい家には小さな頃から何度も出入りしているのだが、だからといって近藤家の者、と名乗るには妙な違和感があった。

 そんな清美が何故この屋敷に呼ばれたのかといえば、夢を見たからだった。

 それは悪夢というには些細過ぎるもので、けれどほの暗さの拭えない夢。

 いつからそれを見始めたのか、清美自身もはっきりとは覚えていないけれど、おそらく祖母の妙子が倒れた頃からだったと思う。

 暗闇に、ひたすら声が響く。

 ――――渡しゃしないよ、と。

 そのしゃがれた女の声は、早くなったり細く途切れ途切れになったりしながらも、狂ったように繰り返す。そんな夢。

 何気ない会話でそのことを漏らした清美に、幸子は顔をしかめて「貴方までそんなことを」と苦々しく言った。

 その「貴方まで」の本当の意味を、清美は今日まで知りもしなかった。

 清美の前には、疲れた顔をした伯父の幸秀と心配げな母の幸子とが並んで正座していて。

 唐突に「清美ちゃん、夢の話を詳しく聞かせてくれんか」と伯父が聞いた。

 それまで清美にとって夢はただの夢でしかなかった。けれどこの瞬間から――――清美のそれは、特別な意味を持ち始めたのだった。



 話は数日前に遡る。

 一本の不思議な電話が近藤家にかかってきた。

 やけに若い男の声が、電話口に「万屋弥上という者ですが」と名乗り、「近藤秀久さんのお宅はそちらでしょうか?」と尋ねたのだという。

 八年前に亡くなった祖父に何の用かと問えば、「お貸ししていた品の契約期限が切れましたので、返品していただきたいのですが」と答えたという。

 はて、と首を傾げたのも束の間、「一メートル弱ほどの、着物姿の人形です」と言われ、「ああ、あれ」と思い当たるものがあった。

 それは、近藤家の者ならば誰もが見たことのある、祖父の人形だったからだ。

 ちりめんの着物におかっぱの黒髪。まるで本物の幼女そのもののような人形は、祖父の使っていた書斎の奥で、棚の上に鎮座していたのを誰もが覚えていた。

 けれど心当たりはあったものの、電話に応対した者は口ごもってしまった。

 何故ならば、その人形は祖父が亡くなった八年前から姿が消え、しかし今もって近藤家には重要な意味を持つものだったからだ。

 不吉な連鎖の影に潜んでいる大元。それは、その人形にまつわるものとしか思えなかった。

 しかしそんな近藤家の考えなどお構い無しに、その声はきっぱりと告げた。

「後日回収に伺いますので、ご協力よろしくお願いします」と。

 それはまるで、この一連の不運に止めを刺すような。近藤家にとっては、そんな電話だった。

 もちろん、その不思議な電話がかかってくる以前から、何かがおかしかったのだとは思う。

 けれどそれが最後の一押しになったことは確かなようで。だから、清美がこの屋敷に呼ばれたのだった。

「清美ちゃん、その夢について、何か思い当たることはないかね?」

 すがるように清美を問い詰める伯父に、清美は戸惑いながら首を振った。思い当たることも何も、何を思い当たったら良いのかさえ解らないのである。

 そんな清美の様子に伯父は忌々しく顔を歪め、母の幸子は恨めしげに呟いた。

「もう、あんな人形なんて燃やしてしまえばよかったのに」

「そうはいかないだろ。親父の…………人形なんだから」

「そうだけど」

 その母と伯父との会話に、どこか別次元の話のような奇妙なズレを感じて、清美はぞわぞわと落ち着かない気持ちになった。

 母の幸子までもが、まったく別の―近藤家の者という一括りの―人のように感じられた。

「ああ、清美、もういいのよ。貴方はこのことを忘れてちょうだい」

 居心地の悪さに身を縮こめている清美に幸子はそう言ったが、伯父の幸秀は苦い顔をしたままだった。

「おい、幸子、清美ちゃんはあの女の夢を見たんだぞ」

「やめて、兄さん。清美は本当に何も知らないのよ」

 言い争う二人に、清美はますます落ち着かなくなる。

 何かが、おかしい。近藤家で今、何かおかしなきとが起きている。

 それを察知できてしまう自分がいることに、清美はぞっとした。そんなものは知りたくもないのに。

「清美ちゃん、夢の中の女は、何かを探しているんじゃないかい? この家をうろついているんだろう?」

 伯父が母親を押しのけて畳み掛けるように聞いた。その眼が、恐い。

「分か、りません。その…………夢は、いつも声だけで。『わたさない』って、言ってるのが聞こえるだけなんです」

 清美の言葉を聞いているのかいないのか、幸秀は「くそ」と苛立たしげに吐き捨てた。

「亡霊め。恨みがあるなら親父のところにいけばいいものを」

「兄さん! もう止めて」

 幸子がたまりかねたように叫ぶ。そこで伯父はやっと清美から身を引いた。

 けれど、その姿は尋常とはとても言いがたい。

「ともかく、あの人形を探さなけりゃ」

 ぶつぶつとそんなことを呟く幸秀に幸子は頭を振った。

「でも、父さんの葬儀の後から見つからないのよ、あの人形。母さんが処分してしまったんでしょ」

「そんなはずはない!」

 そんなことがあるはずがないと、どこか気でも触れているように幸秀は繰り返す。それは、その姿は、とてもまともな状態とは考えられないのに。

『伯父さんの言っていることは、正しい』

 どうして清美はそんな風に思ってしまうのか。

(私――――どうして)

 動揺を押さえつけるように清美はきつく手を握った。

「清美、貴方はもういいの。関係のないことだから」

 幸子が「ね?」と、清美の退出を促してくれて。自分でもどうしていいか分からないほどの焦燥感に駆られ、清美は逃げるようにその場を後にした。



 息苦しい屋敷から出るとそこはもう黄昏時で、夕闇が間近に迫っていた。

 それでも清美は垣根の隙間をすり抜け、屋敷の裏手にある小道に降り立った。その垣根とのわずかな隙間は、祖父の秀久が書斎として使っていた部屋の窓のちょうど向こう側にあり、幼い頃など退屈な行事がある度にそこから抜け出しては、こっそり戻ってきた清美を秀久が笑いながら招き入れてくれたり、匿ってくれたりした。

 でも今は、振り返って見ても、垣根の隙間から見える書斎には誰もいない。暗い窓がぴたりと閉まっているだけだ。

(お祖父ちゃん…………)

 迫る夕闇のように、何かがひどく清美を不安にさせて、思わず息を吐く。呼吸が浅くて苦しくて、とにかく屋敷の中にはいられない気がした。

 すぐにもどる気にはなれず、清美は夕暮れの小道を歩き出した。

 かつて無邪気に近藤家を訪れていた頃のように。迷路のようなその道をたどってみる。

(昔は―お祖父ちゃんがいた頃は―こんなんじゃなかった気がするのに)

 古く厳しい空気はあったけれど、ふくふくとした幸せな匂いだってあったはずなのに。

 祖父が亡くなってしまってから、あの家のバランスはどこか狂気に傾いてしまったような気がした。

(どうしてそんなことを思うの?)

 込み上げる感覚に、清美は必死で反論した。

(母さんが言ってた通り、私は何も知らない。知っているはずがない)

 だから、この胸をざわつかせる何かもきっと気のせいに違いない。そう理性は答えを出しているのに。

 わけの分からないその感覚は、清美に間逆のことを告げてくるのだ。

『今感じていることは真実だ』と。

『あの夢は、本当のことなのだ』と。

 けれど清美はその声を聞かないように耳をふさいだ。だってそうだろう。こんな感覚なんて、信用に値するはずもない。

 それも分かっているのに。

(どうしちゃったの、私)

 自分の相反する思いに困惑するしかない。

 清美は溜息をもう一つ吐いて、夕闇が迫る小道から明るい表通りのほうへ足を向けた。屋敷の表玄関からもどろうと思ったのだ。

 けれど、その玄関にたどり着く前に。

「―――――すみません」

 声がかけられた。

 それは迫っている夕闇からの呼びかけのような――――。

(……………誰?)

 清美は一瞬、身をすくめた。

 どうしてだか、その人物が夕闇からそのまま抜け出てきたかのように思えたから。

 そこにいたのは――――男の子だった。

 背格好からすると、清美とそう歳は違いそうにない。顔は夕暮れの闇で判らなかったが、ただ闇そのもののような漆黒の髪と、手に携えた古びた帳面が、何か不思議な印象を与えていた。

「ここは近藤さんのお宅ですよね?」

「あ、はい」

 清美がかろうじて返事をすると、彼はちょっとだけ首を傾げて清美に近づいてきた。

「ここの家の人ですか?」

 清美の前に立った彼は、髪と同じく瞳は底のないような漆黒で、顔は中性的な整った顔立ちをしていた。

「ええと、そうじゃないんですけど」

 言いよどむ清美に彼は聞いた。

「近藤秀久さんをご存知ですか?」

 八年前に亡くなった祖父の名に、清美は当然のごとく不審に思った。

 そんな気持ち筒抜けの清美の顔を見て、彼は穏やかに笑いながら鞄から少し黄ばんだ―しかし温かみのある―名刺を取り出して清美に差し出した。

「俺は、こういう者でして」

渡されたそれには、

『万屋弥上  店主代理 弥上桂一郎

               よろずのもの、お貸しいたします』

 と、どこか懐かしい色合いのインクで印刷されていた。

「よろずや…………」

「はい。何でも貸し出す、まあ骨董品のレンタルショップみたいなものです」

 にこりと笑った彼は、最初の印象と違って人好きのする雰囲気だった。

「近藤秀久さんに用があったんですが。ここにはもういないんですか?」

「あの―――――亡くなったんです。その………祖父は」

 清美の言葉に彼はちょっと顔をしかめ、それから頭を下げた。

「すみませんでした、不躾に。……そうか…………亡くなられていたのか」

 その何か思案するかのような顔に、清美は思わず聞いた。

「もしかして、お祖父ちゃんの人形を引き取りにきた人、ですか?」

 すると彼は驚いたように清美を見た。

「ええ、そうです。聞いているんですか? あの人形のこと」

 その反応に逆に清美は居心地が悪くなってしまった。

 だって自分は、関係ないはずなのに。

「えと、聞いてるってゆーか、その」

 言いよどむ清美に、男の子は苦笑いで首を振った。

「あー、無理に答えなくていいですよ」

「え?」

 今度は清美が驚く番だった。

 てっきり追求されるものだと思っていたのだ。何故だか、それこそ夢のことまで。

 そんな清美に彼はさらに驚くようなことを言った。

「だって―――――胡散臭いですし、俺」

「…………えっ?」

 いやもう、それはまったくその通りだと思うけれど。

(自分で言っちゃうの?)

 思わずぽかんとしてしまった清美に、男の子は屈託なく笑った。

「それに、女の子が見ず知らずの男とべらべら喋ってたらダメですよ」

「そ、そうです、か?」

 力の抜けるような雰囲気に清美の気持ちもふっと軽くなる。が、それと同時に感じたのは、奇妙な違和感だ。

 同い年くらいかと思っていたが、なんだろう、この丁寧とも違う手馴れた感じは。

(若作り…………なのかなっ?)

 容姿はどう見ても十代だけれど。喋り方や雰囲気があまりに自分達とは違いすぎる。

「俺に、何か?」

 あまりにまじまじと見ていたからだろうか、逆に聞かれてしまい、清美は慌てて首を振った。

「いいえっ! 何でも!」

 その慌てぶりときたら、何か思うところがあると言っているようなもので。

(ああああ、私ってばーーーーー)

 案の定というのか、何かを思ったらしい彼にじっと見つめられ、清美は恥ずかしさで俯いてしまった。

 のだが。

「わりと鋭い」

 聞こえてきた言葉に清美は思わず顔を上げた。

(あれ?)

 そこで先ほどは黒だと思った彼の瞳が、一瞬緑色に見えて、けれどよく見ようとする前に彼は目を伏せてしまった。

「いえ、何でも。すみません、引き止めてしまって」

「え? ああ、いいんです」

 もうすっかり日は暮れてしまって、辺りは真っ暗になっていた。それに気がついた彼はすまなそうな顔で言った。

「近藤さんの家の人じゃあないんでしたよね? よかったら途中まで送りますよ」

 確かに女の子が一人で帰宅するには少し遅い時間かもしれなかった。だから、彼のその提案は優しいといえるものなのかもしれない。

 しかし。

(ええと、さっき胡散臭いとか自分で言っていたような?)

 どうにも奇妙に思えてしまう彼の空気に、清美は少し困った。

 なまじ彼が優しそうだからこそ、この違和感をどう処理したらいいものやら分からないでいるのだ。

「いえ、大丈夫です。ここには母と一緒に来ましたから」

 彼に不快を与えないよう、できるだけ丁寧に送る必要がないことを清美は告げた。

「そうですか。ならいいんです」

 そう言う彼は、本当に親切そうに見えるのに。

 どうして清美はこんなに――――――彼を警戒しているんだろう。

(え……………警戒?)

 しかし、そのことを深く考えるより先に、彼がまた頭を下げたので。

「じゃあ、また後日伺いたいと思います。できたら、その名刺を近藤の家の人に渡してください。そこにウチの連絡先も書いてあるので」

「あ、はい。分かりました。じゃあ―――――また」

 何かがうやむやのまま、清美はそう答えた。それは何から目を逸らしたかったのか。この時はまだ、気付けなかった。

 夕闇に溶けるような後姿と手の中の名刺。震える心に気付かないふりをして。清美は近藤家の玄関をくぐった。










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