雨降り屋敷 弐
家の中は、もうすっかり片付けられていて、壊すばかりになっていた。
思い出の品やらはもうないが、やはり生まれ育った家の空気とはそう簡単になくせるものではなく、どこか切ない。
「これだと思うんだが」
その気持ちを吹っ切るように、辰夫は屋敷の中心に位置する大黒柱を叩いた。
文字通り、この屋敷で一番太い要の柱であり、上では大きなはりと組み合わされ、屋敷全体を支えている。
そのはりと組み合わさる手前の柱のかなり高い位置に、かろうじて見える程度に黒っぽい何かが覗いていた。
「脚立か何か、上れるものはありませんか?」
「そこにあるよ」
辰夫自身、ツネに言われて確認していたので、脚立はそのままに残してあった。
その脚立を彼はすいすいと上っていき、物を確認すると同じように危なげなく降りてきて、きっぱりと言った。
「間違いありません。あれはうちのものです」
「そう…………でもあれをどうする気だい?」
「もちろん、回収します」
はっきりとした彼の口調に辰夫は口ごもり、上を見上げた。
その大黒柱の上にあるのは、黒々とした杭、しかもそれは大黒柱の半分をうがつ程の大きさのようで、深く打ち込まれたそれは長い年月を柱と共にあったと感じさせる代物だ。
それを、いったいどうやって回収するのか。
「しかし、抜けないと思うんだが」
ためしに辰夫も抜こうとしたのだが、当たり前のようにびくともしなかった。
しかし彼は何でもないかのように笑って請け負った。
「抜けますよ。コツがあるんです」
そう言うと、彼は鞄の中から新聞紙で包まれた、何か棒のようなものを取り出した。
「それは?」
「釘抜き…………の大きいヤツですかね。杭を抜くための道具です」
手際よく新聞紙の包みを解き、普通の釘抜きより大きめの道具を手に取って、彼は辰夫に向き直った。
「じゃあ、はじめます。……………いいですね?」
何についての確認か辰夫には分からないまま、けれど自然と答えは口から出ていた。
「ええ。抜いてください」
それは後々に考えても、辰夫自身の言葉だったように思われない。
流れのような、あの屋敷の全て―辰夫を含めた、父や母から連なる屋敷の総意のようなもの―が口から出たようだった。
「では」
辰夫の言葉を聞いた彼はそう短く言うと、またするすると脚立を上っていった。
辰夫はもう何をすることもなく、ただ黙って上を見上げた。
万屋の彼が杭に梃子を引っ掛けて、ぐいと引く。ぎ、と杭は僅かに揺れ、今まで耐えてきた重みを押し止めようとするかのように、そこから抜けることを拒んだ。
男の子が何かを―何と言っているかは下にいる辰夫には聞こえなかったが―呟き、もう二、三度ぐいぐいっと梃子を引く。
その度に、杭は何かを少しずつ受け入れるように、ぎぃぎ、ぎ、ぎ、と動いた。辰夫はその様子を下で固唾を呑んで見守っていた。
しばらくすると、ず、ずず、ず、と、杭に拒む気配はなくなって、男の子に引き抜かれるままになり、その終わりを待っているようだった。
最後に彼が手を止めて、
「抜きますよ」
と、辰夫の顔を見て言った。
何故だか、それがひどく優しいことのように思えた。どうしてだか。
「ええ」
返事を聞いた男の子が、金梃子にぐいと最後の力を込めた。その力に抗うことなく、きぃ、と、杭が抜けた。
その瞬間。
ふっと、どこかで何かが外れた、と、辰夫は思った。
屋敷全体が嘆くように、けれど安堵するように、最後の息をしたようだった。
途端に、ぶわりと滲み出したように、大黒柱から畳から水より透明な何かが湧き出してきて、瞬く間に屋敷を包み、伝い、辰夫に降り注いだ。
(あ)
それは昔から知っていた―辰夫もどこかで知っていた―この家の見えない雨。
妙な心持ちは不思議となかった。辰夫はただ、この雨を小さな頃に見たことがあったっけ、と思い出しただけだった。
にわかに透明な雫がぽつりぽつりと降りだして、少年は空を仰いだ。
けれどその空はどこまでも澄み切った青空で、そこに降る雫は何かを祝福するようだった。
ただただ、清らかなその雨の中で。
少年は立ち尽くしていた。
とんとんとん、と近づく足音に、辰夫は我に返った。
よく見れば周りのどこも濡れておらず、水などありもしなかったが、辰夫には先ほど見たものが幻覚だとも思うことができなかった。
「約束通り、こちらは回収させていただきます」
万屋の男の子は何でもないような顔で、事務的に杭を見せて言った。
「あ、ああ」
ぼんやりと答えた辰夫の目には、もう先ほどまでの光景など跡形もなくて。
先程の景色を、彼も見たのか?
あれは幻覚だったのだろうか?
幻覚でないのなら、あれはいったい何なんだ?
一瞬、万屋の彼を問い詰めたい衝動が込み上げた。けれど、辰夫はそれを飲み込んだ。あの妙な心地が戻ってきていたからだった。
「これで仕事は終わりかい?」
「はい、そうです」
出したとき同様に手早く梃子を新聞紙でくるみ、杭も同じように包むと、彼は鞄にそれらをきちんと納めて、辰夫に頭を下げた。
「ご協力、ありがとうございました」
「いや………こちらこそ」
何と言ったらいいか判らず、辰夫はそんな言葉を返すしかなかった。
屋敷の外まで彼を見送ろうとし、彼がそれをやんわりと断ったので、辰夫は玄関で彼と別れることになった。
最後に、つい一言だけ、辰夫は彼に聞いた。
「あのさ、君は、母の話を信じるのかい?」
それはどうにも居心地の悪い、何か整理のつかないものからくる、切羽つまったものだったのだと後になってから気がついた。実際、この一言は聞いておいて良かった。
万屋の彼にとってはひどくな質問だったのかもしれない、と、後々には思う事になる。けして彼を傷つけたくて聞いたわけではないことを、分かってくれていたらいいのだが。
彼は少し困ったような顔をして、それから笑った。
「そういうなかで育ったんで。でも、そうですね。どっちでもいいんじゃあ、ないですか。嘘でも、本当でも、幻覚でも」
でもそれは、ひどく曖昧で恐ろしい気もした。誰だって自分が幻覚を見ているなどとは思いたくないだろう。
しかし彼は平然と笑っていた。
「少なくとも、俺にとってはどちらでも同じことです」
「同じこと?」
「はい。嘘でも、幻覚でも――――本当のことでも。言ってしまえば、その問いには意義がないんです。
それが分かって、何かいいことがありますか? それが分からなければ、何か支障がありますか?」
その答えは、辰夫のどこかにかちりと収まった気がした。
「貴方のお母様の話は、お母様にとって本当のことなら真実なんだろうって、俺は思います」
彼の声は誠実で、やはり若い子なんだな、と辰夫は笑った。
いくらでも誤魔化すこともできただろうに。若くて、優しい子なのだ。
「さっき君が杭を抜いたとき、僕は雨が降ってくるのを見たよ」
辰夫がそう言うと。
「狐の嫁入りですね」
彼は頷いて、それから空を仰いだ。
「きっと……………また降ると思いますよ」
その時、今まで黒だと思っていた彼の瞳が、深い緑色に光ったように見えた。
もう一度よく見ようとしたが、玄関の外にいる彼は逆光でよく見えなくなっていた。
「あ! あと紫陽花のことなんですが。
他のところに移しても枯れてしまうと思います。彼女達に選ばせるのが、一番だと思いますよ」
そう言ったあと「失礼します」と歩き出した彼の背中を、辰夫は最後まで見送った。
それはすっきりと何か心の整理がついたような気持ちで、さながら御伽噺のように、しかし辰夫自身の話として、きちんと胸に全てが収まったのだった。
辰夫はもう一度、屋敷の中を―あの大黒柱も―確認すると、外へ出た。
玄関に鍵をかけ、さて帰ろうかとした、その時。空から、ぽつりぽつりと雨が降ってきた。
いつか見た空とは違う、黄昏の夕暮れ時の雨だ。
紫陽花の真ん中で、辰夫はしばらく空を仰いだ。
「―――――――本当のこと、か」
そう呟いた辰夫は、いまさらに自分がずいぶん濡れてしまっていることに気付き、慌てて屋敷を後にしたのだった。
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