万屋弥上貸付帖

丘月文

雨降り屋敷 壱



 にわかに透明な雫がぽつりぽつりと降りだして、思わず空を仰いだ。

 それはいつか見た景色。

 ずっと忘れていた、少年の日のこと。



 親から子へ、子から孫へ。屋敷の主は代替わりし、いずれは朽ち果てる。

 昔ながらの平屋の実家は、年老いた母、ツネが長男である辰夫の家に身をよせることが決まった際、取り壊されることになった。

 もともと痛みの激しい家だったのだ。住む人間がいないとあっては、壊したほうがいいというものだろう。

 唯一反対するだろうと思われていたツネだったが、予想に反してあっさりそれを承諾した。

 ただし、と一言、言い置いて。

「借りたモンは、返さにゃあなるまい」

 そう言って、ツネは古ぼけた名刺を取り出してきた。ずいぶんと昔の物のようだった。

 『万屋弥上   よろずのもの、お貸しいたします』

 日焼けして茶色くなってしまった名刺には、これまた古ぼけてにじんだインクでそう印刷されていた。

(よろずや………?)

 わけも分からず母に言われるままにがそこに連絡をつけると、やけに若い男の声が「分かりました。それでは後日、回収に伺います」と、電話の向こうで言った。



 それはさながら、お伽話のように。

 その昔、母のツネと亡くなった父とが所帯を持った時分の話であるのだそうだ。どういった経緯があったかは語られなかったが、二人は夫婦になった折に親戚筋からこの土地を譲り受けたのだという。

 すでに算段は整っていたらしく、居を構えることは容易かったのだが、住み始めるとほどなくしてある現象が母達を悩ませることになった。

 ―――きっとそうした土地だったんだろうねぇ。人の住む土地じゃあなかったんだ。

 母のツネがぽつり漏らした言葉は、きっとその生涯を通じて感じてきたものなのだろう。不思議と、どこかにその現象を〝真実だ〟と信じさせるような力があった。

 屋敷には、常に雨が降るのだという。それもただの雨ではない。

 降ってくるというより〝湧いてくる〟と表現したほうがいいような、清水がごとくの透明な雨が、この屋敷の上にだけ降るのである。

 それは湿っぽい霧や曇天の重苦しい雨とはまったく違う、澄み切った雨なのだそうだ。どんなに空がからりと晴れていても、この屋敷には文字道理ふって湧いたように雨が降った。

 どう考えても普通の雨ではないだろうとは思うものの、始終雨ばかり降るのでは住んではいられない。かといって、この土地を出て他に居を構える余裕もない。

 さて、どうしてものかと頭を抱えた夫婦に、知り合いの学者先生だかが〝万屋弥上〟を紹介してくれたのだという。

 なんでもその万屋というのは、不思議な逸話やお伽話に出てくるような憑き物や、曰く付きの品物を収集しては、貸し出しをしているという店なのだった。

 餅は餅屋に任せるのが一番だろうと、父がその不思議な現象を店主に相談したところ、快くその雨の調査を請け負ってくれ、また対処道具まで借りられることになったのだとか。

 そうして、この屋敷に人が住めるようになったのだと、母のツネは話をそう結んだ。



 確かにこの屋敷には雨が似合う。しかし、それは屋敷を取り囲むように根付いている紫陽花のせいではないのか。

 『紫陽花屋敷』と、近所ではそうした名で親しまれている生家を、辰夫は不思議な面持ちのままに門の外から眺めた。

 屋敷はぐるりと紫陽花に囲まれていて、まるで垣根のように、何かから守られるように、それらで埋め尽くされている。

 それらは辰夫が物心ついた頃からのなじんだ景色だったが、その紫陽花も植えたものではなく自然に生えてきたのだそうだ。

 まるで降らなくなった雨の代わりのように。

(けれど、そんな不可思議な話が本当にあるもんかね)

 辰夫は今だ妙な心持ちだった。

 母が嘘をついているとは思えないが、果たしてそれが真実なのだとあっさり頷いてしまえるかというと、それもまた首を傾げてしまうのだ。

 現実感のない昔話は御伽噺と同じで、何だがひどく遠くに感じてしまう。

(ここを取り壊すのだから、関係のない話なのだろうが)

 雨が降ろうと降らまいと、それが不可思議な雨だろうと、どのみちここに人はもう住まない。

 それは言ってしまえば辰夫が信じようと信じまいと何が変わるわけでもない、どちらでも同じだということで。

 けれど辰夫は、今現在自分が置かれている状況―万屋の店員と待ち合わせている今のこの何ともいえない妙な心地―に戸惑っているのだった。

 そんな何ともいえない気持ちを持て余し、辰夫が古ぼけた名詞に視線を落としてふうと息をついた。

 その時―――――。

「あの、辰夫さんでしょうか?」

「はいっ、そうですが」

 急にかけられた声に、振り返った勢いで答えてしまったような。そんな辰夫の前にいたのは、まだ高校生ぐらいかと思われる顔立ちをした男の子だった。

 その彼が辰夫の待ち人だったらしい。

「ご連絡ありがとうございます。万屋弥上の者です」

 そう挨拶した彼に、辰夫はちょっと拍子抜けした。もっと年寄りとはいかなくても、学者のような青年がくると思っていたのに。

 目の前にいるその子は、どう見ても自分の息子とそう年が違いそうにない。

 ただ違うのは、妙に落ち着いたというか、この年頃の子が持つ独特の幼いような気配がなく、そのかわりに―それは染められていない男の子にしては長めの黒髪のせいなのか、中性的な顔立ちのせいなのかは判らないが―不思議な雰囲気があることか。

「あの、何か?」

 思わずまじまじと見てしまった辰夫を、彼は小首を傾げるような仕草でうかがった。

 その様子にも今時の若者らしくない印象をうけたが、しかし辰夫は慌てて言いつくろった。

「いや、ちょっと、びっくりしたもんだから」

 そう言うと彼は笑って言った。

「ああ。若くて、ですか」

 ともすればこちらが気まずくなりそうな台詞だったが、彼の口調は穏やかで、そうした気分にさせない雰囲気があった。

「家の手伝いなんで――――しまった」

 彼は思い出した、というように慌てて鞄から名詞を取り出して、丁寧に頭を下げた。

「改めまして、弥上桂一郎と言います。本日はご協力、よろしくお願いします」

 とても子供とは思えない振る舞い。息子とは大違いだ。

「や、こちらこそ」

 辰夫も思わず頭を下げ、名詞を受け取る。

 すると、そこには、

『万屋弥上 店主代理 弥上桂一郎

               よろずのもの、お貸しいたします』

 と、どこか懐かしい色合いのインクでそう印刷されていた。成る程、彼は万屋の息子か何かなのだろう。

「いやぁ、偉いなあ。家の仕事を手伝っているなんて」

 褒めると、彼は何とも微妙な顔で答えた。

「店主が働かないんで」

 それは、困ったものです、という達観したような、しかし年相応のふてくされた感じが混じったような響きだった。

「それは大変だ」

「もう、本当に」

 苦笑いする男の子の様子に辰夫も思わず笑ってしまう。何だがすっと人の心の中に入り込んで、和ませるような子だ。

 そしてそれは、母の語る不思議な話にまつわる登場人物として相応しいように思えた。

「あの、それで、万屋の品のことなんですが」

「ああ、悪いね、こんな所で立ち話して。どうぞこちらへ」

 古めかしい門をくぐり、屋敷の中へと案内する。

 後ろからついてくる彼が屋敷を見て言った。

「立派なお宅ですね」

「古いだけだよ」

 見た目は風情ある日本家屋なのだが、いかんせん内部がぼろぼろで、あちらこちらにガタがきている。

「庭も一緒に壊すんですか?」

「ああ。更地にしなくちゃ、売れないから」

「そうですか。でも……………なんだかもったいない気がします」

 彼がぐるりと周りを見渡して言ったので、辰夫にも彼が何を言わんとしているかが判った。

「でも紫陽花だけ残すわけにもいかなくて。そうだ、一株持っていくかい?」

 実はそれは辰夫も考えていたことだった。

 建物の老朽化は仕方がないこととして、周りの紫陽花まで埋め立ててしまうのは、やはり気の進むことではなかった。

 万屋の彼は少し考えて、「いいえ」と答えた。

「紫陽花は土地が変わると色も姿も変わってしまうから。

 ここの紫陽花は、やっぱりここでなくてはこの姿は保てないでしょう」

「そうなのか」

「…………土がアルカリ性か酸性かで色が変わるんです」

「へえ、良く知ってる」

 彼は笑って「ええ、まあ」と頷いたけれど。「土地が変われば姿が保てない」という言葉はどことなく、何か違う意味を持つように聞こえた。

「壊すのはいつですか?」

「今月末だよ。思い入れはあるけど、こればっかりはね」

 もったいないとは辰夫も思うが、維持費もばかにならない。仕方のないことだ。

 紫陽花を見渡していた万屋の彼は小さく首を振るような仕草をし、それから辰夫に向き直った。

「すみません、足を止めさせてしまって。いきましょう」

「いや、いいよ。……………こちらだ」

 どこか後ろめたい気持ちで庭に背を向け、辰夫は玄関の鍵を開けた。








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