形代人形 弐
何かが始まりかけている、と感じた。もしくは終わりかけているのか。
決められたように進んでいく。止めようのない物語のように。
始まりがあれば、必ず終わりはやってくる。それが、解るから。
だから―――――どうか。
どうか。
清美は正座しながら、ただその話をぼぅっと聞いていた。
清美の前には、先日に会った万屋の男の子、弥上桂一郎が姿勢正しく座っていて、そのことがひどく現実味のないものに思えてしまう。
さらに言えば、清美の隣には母の幸子、そしてその向こうには伯父夫婦が同じように正座をしているのだが、そこの列に清美が加わっていること自体、半ば信じられないような気分でいた。
だって、そうだろう。今しがた語られた話は、まるで清美からは遠い、昔の御伽噺みたいだったのだから。
昔、といっても三十五年ほど前の話。とある男が一人の娘に恋をした。
男は妻子のある身だった。けれど体裁の為に見合いで作り上げられた家庭に、男はどうしても冷たさを拭えなかった。
二、三言葉を交し合う間柄だった男と娘はしだいに惹かれていった。
それは確かに恋だった。愛ではなかった。故に、過ちを犯した。
娘が男の子供を身ごもったのだ。
けして愛ではなかった。愛であったのなら、そんな結末は生まなかっただろう。
彼女は愚かな男を愛し、その子供を愛し、そして絶望したのではないか。今となっては判らない。
彼女は子供を出産してから一月もしないうちに死亡した。自殺ということだった。
彼女が何を感じ、何をその胸に抱いて死んだのか。ここにいる誰一人、知る者はいない。愚かな男は口をつぐみ、真実は沈黙し続けたからだ。
―――――そんな話を。どんな心地で孫娘の清美に聞けというのか。
「近藤秀久様との契約により、死亡した女性の魂を封じる為の人形を三十五年間貸し付けましたが、期限は契約書に記載通り先日で切れています。
よって人形の回収に参りました」
まるで冷水のような桂一郎の声が、清美の頭にすっと入ってくる。
どこまでも礼儀正しい彼の言葉。けれど、その内容は不思議なことばかりだ。しかし誰もそれを疑問に思う人はいないらしい。
清美をのぞいては。
(お祖父ちゃんに………………愛人? 不義の、子供?)
清美の頭はぼんやりと霞んだまま。
「どうでもいい、そんなことは。あれを持っていってくれるんだろう? 早くなんとかしてくれ。気が狂いそうだ!」
吐き捨てるように言う伯父の言葉に、清美はくらりと頭痛を覚える。
(どうでもいい?)
その語られた内容が? そう思っているのは、清美だけ?
見回せば、まるでそこはお芝居のようだった。そして観客は、清美たった一人なのだ。
「―――――回収できるようならば、今すぐにでも回収させていただきますが」
桂一郎の静かな声音がどこまでも響いていて。
清美はそれをただ聞いている。
「しかし、お話から察するにその人形は今手元にない、ということではないのですか」
ぐっと言葉に詰まる伯父に、黒い闇色の瞳が容赦なく疑いを突きつけた。
「あるに決まっているだろう! アレは生きているんだ! 昼間は隠れていて夜になれば動き出す!
もうたくさんだ。何なんだ! そんなに親父が憎いなら地獄まで追いかけていけばいいじゃないか! どうして俺たちのところにくるんだ!」
もはや感情だけで怒鳴り散らす伯父に、理性があるとはとても思えない。
そんな夫に、ひたすら震えて身を縮めている伯母。
(これは、何?)
何が、起こっているの? この屋敷で。この人たちに。そして、自分はどうしてここにいるの。
清美には分からない。ただ分かっているのは―――――この物語の語り部が、桂一郎だということだ。
「あなた方の要求と俺のなすべきことは確かに一致します。
ですから教えてください。今、あなた方に何が起こっているのか。そして、どんな些細なことでも良い、いつから異変を感じていたかを」
闇色の瞳はどこまでも凪いでいて、何もかもを見通しているようだった。
(この人は―――――何を知っているの?)
そして、何をなすのだろう。
清美はそんなとりとめない気持ちを客席で持て余していた。
異変は八年前の祖父、近藤秀久その人の葬式の後から始まっていたという。
まずの万屋から借り受けた人形が紛失したのだ。
幼女の等身大を模したその人形は、近藤家の兄妹達には良く思われていなかったらしい。
聞き及んだ事実からすれば、当たり前のことだろう。父親が捨てた愛人の魂を封じた人形など家に置きたがる子供いるものか。
そこで葬儀後に人形を処分しようとしたが、見つからない。
秀久はそれこそ表立ってその人形を愛でることはなかったが、だからといって粗末に扱ったりはしなかった。書斎の奥、風通しの良い窓辺の下の戸棚の上が、彼女の居場所だったことは皆が知っていた。
けれど葬儀の慌ただしさの隙をついて逃げ出したように、人形は忽然と姿を消してしまったのである。
その時は、祖母の妙子がこっそり処分したのだろうということで―祖母もまた口を閉ざしたままだったが―落ち着いた。
そして祖父が死んで一年もした頃だろうか、次女の八重子が悪夢を見るのだと言い出した。近藤の屋敷を女がうろつき、「渡すもんか」と狂ったように叫び続ける夢なのだそうだ。
一人暮らしの叔母が兄の幸秀に相談したところ、なんと伯父の妻、友恵も同じ夢を見るのだと言う。
気味の悪いことだが、気のせいだろうと聞く耳を持たなかった幸秀だったが、やがて自分も感染したように同じ夢を見るになった。
そんな中、末の次男、勝久が音信不通となり、どこで何をしているか分からなくなってしまう。真面目を絵に描いたような男だったのに。
つられたように幸秀の子供達も家を出たまま寄り付かなくなってしまった。まあ、これはそれぞれに仕事や大学と忙しいということもあるだろう。
さらに生き物が死ぬようになった。これはここ最近のことだ。
そして―――――妙子の意識不明。
すべてが些細なようでどこか奇妙な、溜まっていく澱のような、何かだ。
それらはやはり、清美にはどこか遠くのことのようにしか聞こえなくて。始まりはどこだろう、と、ふと思ってしまう。このお芝居の始まりは、と。
目の前の語り部が清美の前に現れた、あの夕暮れか。
それとも、祖父の死んだ、あの夜か。
さらに昔の―――――祖父と愛人が出会った、穏やかな昼下がりか。
(そんな、どうしようもないことを)
何故、自分は考えているのだろうと、清美は今更に首を傾げた。自分は観客にすぎないというのに?
どうしてこの感覚は、こうも理由の分からない感情を呼び起こしてしまうのか。
「では―――――やはりこの家に例の人形はもうないということになりませんか?」
語り部の彼はなぞるように台詞を言っている。どうしてか清美はそう感じてしまう。
「だったら、これは、この悪夢は何なんだ!
だいたい、お前達が悪いんだろう。あんな人形を持ち込むから! 知っているんだぞ! あんたんとこの、その商売を。
人を呪い殺す道具ばかりなんだろうっ?」
伯父の悲鳴のような声が、実にドラマティックに響いている。
しかしその声にも、万屋の彼は揺るがない。
「その通りです。弥上万屋は、神具やいの道具を取り扱っている店です。
だからこそ、貸与という形で契約を交わすんですよ。始まりと、終わりがあるように」
最後の一言に力をこめて語る彼に、伯父は救いを見たようだった。
「人形は必ず回収します。そのためには貴方方の情報と協力が必要なんです。
それはあなた方がご存知の通り、あの人形がただの人形ではないからです」
「分かりますね?」と問いかける彼に、伯父はりつくように頷いた。
「あの人形は、近藤秀久その人の葬儀後、姿が見えなくなった。そして、その後から異変を感じ始めた。悪夢には、女が出てくる。
これに間違いはないですね?」
伯父は彼の言葉一つ一つにただ頷いている。
「では、聞きますが。貴方はその悪夢を見ましたか? どんな夢を? そして、人形はどこに?」
簡潔な問いに、幸秀はぼうっと遠くを見るような目で答えた。
「俺も、見る。女の夢だ。
渡すものかと、家の中を歩き回るんだ。見つかりたくない。声が、そこらじゅうから響いて――――」
まるで今もその悪夢をみているかのように幸秀の瞳孔が開いていく。
気がふれている――そう表現するのがぴったりなその人を、闇色の瞳は相変わらず、そよとも揺らがずに見つめていて。
「その夢に、人形はありますか?」
「いや―――――ない。女だ。女がいる。あの、自殺した女だ」
「人形は、この家にありますか?」
「分からない。どこかに、あるはずなのに」
「――――どうして、あると思うのですか?」
「それは―――」
半ばその場が朦朧と溶け合うような感覚を覚えた、その時。
「匂いが、するんです」
それまで忘れられていたような友恵の声が響いた。
震えながら、それでもわずかな理性を持って、彼女は彼の問いかけに答えていた。
「白檀の香り。あの人形の手入れをお養父さんに頼まれていましたから、覚えています。
人形の匂い。あの匂いが、するんです」
その正気を帯びた声に、清美はほっと息を吐き出した。
少なくとも、友恵はまだ大丈夫そうだと思えたのだ。
「…………そうですか。では、まだ人形はこの家にあるんですね」
その声が心なしか温かみを含んだ気がして、清美は驚いて彼を見る。
しかし闇色の瞳には変化は見られない。
「わかりました。人形を探しましょう」
桂一郎はきっぱりと成すべきことを述べた。
けれどその簡潔な言葉に清美は違和感を覚える。何かが―そう、いつものあの感覚が―首を傾げている。
「人形を見つけて―――全てを終わりにしましょう」
そう告げた彼に、伯父は救われた面持ちでいるというのに。
「終わりが救いになるとは限らないけれど」
ふいに小さく響いた声に、清美は思わず桂一郎をまじまじと見つめてしまった。
彼の瞳が、あの闇が揺れているように見えた。
(え?)
彼と瞳を交わしたのは一瞬だ。
けれど―――――どうしてだか、清美は彼の瞳に悲しみを見た気がしたのだった。
女の人が、泣いている。
―――ああ、愛しい人。どうか私を許して。
蝋燭の火に照らし出されたその女の姿は、もう娘ではなかった。
彼女の下腹部は柔らかに膨らみ、そこに新たな生命が宿っていることを示している。
―――愛しい子。どうかこんな母さんを許してちょうだいね。
愛しい者へと、彼女は許しを請う。
許されたいのだ。過ちだとわかっている行為を、犯すことを。
他の人々には許されなくてもいい。とうてい許せたものではないだろうから。それでも。
―――許して。
愛した者達にだけは、と。彼女は涙する。
それは女である彼女の、最後の涙。最後の願いだ。
だからこそ、彼女は決意する。
―――私は、もう二度と、あの人と会わない。あの人を愛していても、何があっても会いに行かない。そうして、お前を産むの。お前を生涯愛すの。
それは母親としての誓い。
彼女はもう娘ではなく、女でもなく、母であった。
(それなのに?)
―――ごめんね、こんなお母さんで。お父さんを、教えてあげられなくて。
彼女はゆっくりお腹を撫でる。
―――いっぱい苦労をかけるだろうね。辛いことも、あるだろうね。
愛おしいわが子に、彼女は強く言い切る。
―――それでも、お前を産みたいの。お前をこの腕で抱きしめたいの。
あぁ、その瞳はなんて力強い光を湛えているんだろう。
(それなのに、どうして?)
―――強く生きるのよ。私の赤ちゃん。貴方のためなら、母さんはね、なんだってするつもりよ。
もう泣いていない彼女なのに。悲しくなる。
眩しいばかりの、母親とその子供の光景なのに。
(だって―――――知ってる)
彼女が死んでしまうこと。否、死んでしまっていること。
―――辛くても、苦労をかけてもね、母さんがいるわ。
その言葉が、守られないことも。
―――一緒に生きましょうね。私と私の愛しい人の、可愛い赤ちゃん。
その誇らしい顔は、自ら命を絶つ人間のようにはどうしても見えない。
(どうして――――?)
投げかけた疑問に答えるように、いきなりひらりと闇がひるがえった。真っ暗な、闇に意識が落ちる。
そしてまた、女の泣き声が響いている。
―――あぁ、返して。
同じようでいて何かが違う、彼女の声。
―――返して、私の子。愛しい子。
(何――――?)
首をめぐらせて、揺らめく蝋燭の明かりの下に。
―――あの子が、泣いているの。
清美はそれを見つけた。
(人………形が…………っ)
泣いている。苦しげなうめき声を上げて。
―――苦しめているの。あの人が。私を閉じ込めて、すべてを苦しめているの。
その声に、反射的に耳をふさぎたくなる。聞きたくないと、頭の隅で悲鳴が上がる。
それでも。
―――あの子を返して。苦しめないで。
清美は耳をふさげなかった。どうしても。
だって。
―――もう充分でしょう?
それが彼女の魂の叫びだと分かってしまうから。
―――私を殺したのだから。
(ぁあ―――――)
救いは、どこにあるんだろう。
今にも消えそうなその灯りの下で、人形と目が合った。その慈愛に溢れる瞳から。
―――もうこれ以上、苦しめないで。
はたり、涙が落ちた。
目が覚めて、清美は自分が泣いていることに気がついた。夢を見ていたことにも。
そしてあの夕暮れ、万屋の彼に会ったあの日に、気付かないふりをした思いにも、気付いてしまった。
どうして自分なの、と清美は思ったのだ。どうして感じとってしまうの、と。
どうしてそれが真実だと分かってしまうの。どうして―――――そんな私を暴くの。
清美は小さくなって震えた。
それは人とは違う領域に踏み込んでしまう恐怖。真実を暴く力を持つことへの恐怖。そして――――真実は時に人を貶め、恐怖を与えてしまうという、恐怖。
清美はその全てを、気がつかないふりで閉じ込めたのに。
それすらも暴いてしまえるのは―――――あの瞳。あのどこまでも凪いだ万屋の彼の瞳は、何もかも見透かしている。
だから、清美は怖かったのだ。あの万屋の彼が、どうしようもなく怖かった。
(どうして、の先にある答えなんか、知りたくなかった)
清美は目を逸らしていたかった。
苦しみたくなかった。怖かった。だから、ずっと答えを出さなかったのだ。感じ取ったことに疑問だけを投げかけて。
清美は逃げてきた。
(でも―――――――あの人は、違うんだ)
瞳を交わした、あの一瞬。そこにあった悲しみは、きっと冷たい覚悟の底にあるもので。その覚悟は、全てを暴き見る覚悟なんだろう。
逸らさない彼の瞳に映っているのは。
(―――――――真実?)
生々しい夢の痛みに、清美はまた泣きそうになる。
『終わりが――――救いになるとは限らない』
清美にだけ届いた彼の言葉が頭に響く。
終わりと救いは違うのだと、悲しみに満ちた瞳が語っていた。
では、このお芝居は悲劇なのだろうか。観客がたった一人の、このお芝居は。
(そう、私は観客)
それだけにすぎない。けれど――――。
妙子のあの禍々しい瞳を。一緒に生きましょうと強く言った母親の顔を。苦しませないでと泣いていた、あの人形を。
清美はぜんぶ知っている。清美だけが、知っている。
これを思い違いだと、ただの夢だと思うこともできる。けれど、けれど。
(今、逃げたらきっと私は――――――)
自分を許せなくなるような気がする。
だって。
(悲劇が、見たいわけじゃあない)
ここで清美が何もせずにいたら、きっと誰も救われない悲しい物語になってしまうだろう。彼女達を自分の保身で葬り去ることになる。
それだけは、許されない気がした。
だって清美はたった一人の観客なのだ。この物語の終わりに選ばれた、たった一人の。
だったら――――目を逸らしてはいけない。清美が探さなくてはいけない。
このお芝居の、救いを。
(結末を選べるなら)
否、たとえ選べなくても、と清美は願った。救いの為に、力を尽くそうと。
薄暗い部屋に一筋朝日が射して、清美は涙を拭った。
しかし清美の決心もよそに、事態は一向に進展しなかった。件の人形がどこにあるのかが、まったく分からないのだ。
万屋の彼はもちろん、皆で探せるだけ探したが出てこない。
(やっぱり気のせいで、人形なんてもうあの家にない、とか?)
そんなことを思ってしまって、清美は何だか情けなくなる。
(こんなんじゃあ、ダメって分かってるんだけど)
見舞いにきた祖母の病室で清美は疲れたように座り込んだ。
あの夢も、この胸のざわつきも。全てが気のせいでないと、誰が言える?
これがただの勘違いだったとしたら?
そんな風に考えている自分がものすごく嫌だ。
(この感覚と向き合うって、ちゃんとするって、決めたばかりなのに)
たとえば、これが勘違いや気のせいだけだったのなら、それはそれでいいではないか。
問題なのは――――――真実だった場合。清美しか知りえない、真実であったなら。ないことになど、できないのだ。
(自分を信じなきゃ、だめ。私に見えていないのは―――――何?)
必要なのはまず自分自身を受け入れること。そして全ての事柄を受け入れる覚悟を持つこと。
(人形は―――――あの家にある)
信じなくては。自分の力を。
清美は姿勢を正して、目を瞑っている祖母の顔を見据えた。
「人形はどこ? 教えて、お祖母ちゃん」
その行為はどこか神頼みのような、それでいて真実に近いと心の奥底で確信しているかのようなものだった。
祖母は何かを知っている――――――最も真実に近い、何かを。それだけは、分かるから。
祖母の眠ったような顔に、祈るように清美は顔を近づけた。
―――渡しゃしない。
(……………えっ?)
若い女の声だった。
けれど。
「お祖母ちゃん?」
清美には、目の前の祖母の声に聞こえた。ずっとずっと若い頃の、祖母の声に。
―――あんたになんか。
(え?)
その声に集中したとたん、清美の視界はくるりと反転して、辺りは真っ暗な闇で塗りつぶされた。
ぼぅっと灯火のような光が遠くに見える。
(あれは、誰?)
その薄灯りの中で、着物の女が人形を抱えていた。
幼女の等身大のような、あの人形。
―――一緒になど、させてやるものか。
そう言いながら女が人形を乱暴に床に投げ捨てた。そして懐から何かを取り出して振りかぶる。
かつぅ………ん、かつん、か…………つん。響いているのは金槌を打ちつける音か。
(壁を―――――砕いてるの?)
あれは近藤家の、納戸の奥の漆喰ではないだろうか?
ゆらりと揺れる灯りは、すべてをぼんやりと映し出していて。もっとよく見ようと清美が目を凝らすと。
「――――っひ」
見えたものに思わず悲鳴がこぼれた。
滴り落ちる血。割れた爪。乱れた髪。それでも一心不乱に
それは―――――――悪鬼と呼ぶにふさわしい。
―――許さないよ、私は。許さない!
かつ、ん、かつん、がつん! ひと際大きな音が響き、そこでやっと女は金槌を手放して、そのくりぬかれた壁に人形を押し込めた。
―――許さない。お前も、あのひとも。
そして人形の首を絞めるように喉元に鑿を埋め込こんで。
―――渡しゃしないよ。
漆喰をくりぬいた壁へと塗りこんでいく。壁の中へ、闇の中へ。全てを塗りこめて。
女が笑う。
ほほ、ほほほほほ、と、狂気に満ちた笑いがこだました。
―――これで、いい。これでいいのよ。
いつの間にか、清美は彼女の隣に立っていた。
そして。
―――そうでしょう?
彼女がそう聞いた。こちらを、振り向いて――――――。
「っは、あッ、ああッ!」
清美は無理矢理に目をこじ開けた。
いきなり開かれた視界に頭が追いつかず、目の前がぐるぐると回っているようだった。それでも、目は瞑れない。
「はッ、はぁッ、はッ!」
目を見開いて、清美は荒い呼吸繰り返す。
そこから一刻も早く出て行きたいのに、恐怖に支配された身体はいうことをきいてくれない。
なんとか顔を上げて辺りを見渡せば、そこは何の変哲もない病室で。祖母の妙子は、相変わらず静かに眼を閉じている。
それでも清美には分かった。
(あれは―――――お祖母ちゃん)
あの夢の声の主は。
「わたさない」と近藤家を彷徨っていた女は。
(お祖母ちゃん、なのね)
清美には解ってしまった。
しかし、こんな話を、誰にしたらいいのだろう。
(誰って――――――彼に?)
頭に思い浮かんだのは、弥上桂一郎。
どうしてだろう、伯父達や、それこそ一番に話さなくてはいけない母よりも先に、彼の顔が浮かんだ。
不思議なことばかり言う、夕闇に似た男の子。あんなに恐れていた、あの瞳に。
どこまでも揺るがない凪いだ瞳に、今こそ会いたいと清美は思った。
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